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テストも終わり、あとは冬休みを待つばかりの、浮かれモード突入ってかんじの教室をあとにして、あたしは毎日のようにキンモクセイに通った。
樹くんは相変わらず、春奈さんのことを見つめている。そんな彼のとなりであたしはコーヒーを飲む。苦くて、でも、くせになる。苦さの奥にひろがる色んな香りが、だんだん、感じられるようになってきたみたい。
気候の温暖なこの町の冬は滅多に雪なんて降ることはなく、空気ばかりがからからと乾いて、肌にささってつめたかった。あたしはそんな日々を、スバルとあそんだり、マスターにサンドイッチのつくり方を教わったりしてすごした。ときには厨房で、夜のための料理の仕込みのようすを見せてもらうこともあった。
でも、冬は日が落ちるのがはやいのと、家が遠いこともあって、六時の鐘がなるころには、マスターはそれとなくあたしに帰るようにうながした。あたしはそれが不満だった。小学生じゃあるまいし、六時にはおうちに帰りましょうだなんて。部活をしてる子や塾に行ってる子は、もっと帰りが遅いよ。
あたしがそう言うと、樹くんは、
「でも、いちおう。ちかごろ物騒な事件が多いんだから用心しないと。女の子なんだし」
なんて言う。そしていつもあたしを家まで送ってくれるんだ。
夕陽であかね色にそまった町を歩きながら、下を向いて、ふたつならんだ影をみていた。
男の子から「家まで送ってもらう」なんて女の子あつかいされることに、まだ馴れない。へんにどきどきして、店にいるときみたいに樹くんとあんまりうまくしゃべれなくなる。
また同じ学校のだれかに見られるかもしれない。また、彼氏と彼女だと勘違いされるかもしれない。それであたしはきっとびくびくしてるんだ。そう自分に言い聞かせる。
ほんとうは。ほんとうは、ひょっとしてこれが……、って、気づきかけているの。どきどきの正体。ちくりと胸を刺す痛みの正体。
だけど気づいてしまったら終わり。もうあたし、まえのあたしには戻れなくなる。ママみたいに。変わってしまうのは、いや。
キンモクセイそばの教会からは、クリスマスのミサに歌うのか、賛美歌のコーラスが聞こえてきている。
思い切って樹くんに聞いた。
「前、言ってたよね。自分にも、家にあんまり帰りたくないときがあった、って。そのときのこと、聞かせて」
樹くんの顔を見れなくて、足もとを見つめたまんま、早口で言う。
「あの、いやだったら、べつに話さなくてもいいから」
「いやじゃないよ」
首もとに手をやって、マフラーをぎゅっとにぎりしめる。吐く息が白い。
「何度もあったよ、そういうこと。小学生のころ、前の父親と母親の仲がどんどん冷めていってたんだ。ふたりの離婚がきまったときは、正直ほっとしたくらい。自分のためにふたりが我慢して一緒にいるの、よくわかってたんだ」
樹くんは淡々と語る。前の父親。……やっぱり。
「それから、母親に恋人を紹介されたとき。離婚してから三か月も経ってなかったんだよ。ほんと、まいった。そのひとは、母さんの昔勤めてた美容室の先輩で、前から、親父とのこと、いろいろ相談にのってくれていたらしくて。俺も何度か遊んでもらったことがあった。人見知りする俺も、珍しくそのひとには懐いてたんだけど……、裏切られた気分で。だってさ、いつからつき合ってたんだよって思うじゃん。いつからその人に気持ちが移ってたんだよって。親父はどうなるんだよ、って」
「……そうなんだ」
「結局、再婚して父親になったよ。父さんって呼んでる。おふくろとのいきさつがどうであれ、いい人なのは変わらないからさ。ていうかそう思うしかないじゃん? 親父といたときよりずっと、よく笑うようになったしさ、おふくろ」
思っていたより、ずっと複雑な事情があるみたい。古賀さんは、自分が全面的に悪いみたいな言い方してたけど。
沈黙が降りる。やっぱり樹くんのお父さんって、古賀さんだよね。
今、あたしのママの恋人なんだよって言ってみたら、驚くかな。驚くよね。だけど樹くんはあたしより大人だから。いろんなことを経験したぶん、少しだけ、大人だから。よかったな、なんて言うんじゃないかな。
樹くんが、ふたたび口をひらく。
「だからさ、いつきちゃん。なんかつらいことがあったら、相談しなよ。俺でよかったら」
わかい男の先生が、小さな教え子に言い含めるみたいな。そんなひびき。
「わかんない。何が、『だから』なの?」
うつむいたまま、ぶっきらぼうに言った。やさしいことばがうれしくないわけじゃないのに、なんだかわけのわからないもどかしさでいっぱいになる。
冬のよわい陽が、一日のさいごに、精一杯のかがやきをはなって町並みのむこうにしずんでいく。目に映るすべてが、胸をぎゅっとしめつけるような、すっぱいオレンジの色に染まっていく。大きなダンプカーがあたしのすぐ横を通り過ぎて、樹くんは今はじめてきづいたように、あわてて車道側にまわった。女の子とならんで歩くのに馴れていないのは樹くんもおんなじなんだ。
女の子、か。あたしは、女の子なんだ。背の高さも肩幅のひろさも、指の関節の感じも、樹くんとはちがう。それがくすぐったいような、わずらわしいような、みえない鎖でしばられてるような、でも、その鎖がないと寂しいような、へんなかんじ。
そんなことをぐるぐる考えているうちに、アパートが視界に入ってきた。
「ありがと」
ぺこんと頭をさげる。いつものように、駐車場で。
「じゃあね」と短く言ってきびすを返し、来た道をひとりでもどっていく樹くんのうしろすがたを、あたしはいつまでも見つめていた。
ため息がとまらない。胸がいっぱいで、ごはんがのどを通らない。ごちそうさま、と力なくつぶやいて流しに食器をはこぶ。ママのつくったカレー、残してしまった。
「いつき。イブ、ね。ママ、お休みなんだ。古賀さんも早上がりだって」
「イブ。……クリスマス」
ぼんやりとくり返す。春奈さんのコンサートに行かなきゃ。
「じゃあママは古賀さんとふたりきりで過ごしたら? あたし、用事あるから」
「ひょっとして、彼氏?」
「は?」
あたしは思いっきり眉間にしわをよせた。どうしてそういう発想?
「彼氏なんていないし」
あたしはママとはちがうし。
「ちょっとだけでいいの。古賀さんと三人で、うちでチキンとケーキ食べよう?」
あたしの顔をのぞきこむママ。古賀さん。樹くんの、お父さん。
「ちょっとだけ、だよ」
少し団らんに参加したら、すぐにキンモクセイへ行こう。古賀さんと別れることに反対したの、あたしだし。これくらいのサービスしなきゃママたち可哀想だよね。
「よかった」
ママがわらった。ひさしぶりに、ママの心からの笑顔を見た気がする。




