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日曜の午後、あたしはひさしぶりにキンモクセイをおとずれた。空はすっきりと青く晴れ渡り、空気はつめたく澄んでいる。つたの葉のからまった石塀のむこうに、はだかになった木々の枝がその身をさらしている。
探りを入れたかった。樹くんの両親について。マスターや春奈さんは、くわしく知っているかもしれない。知っていても教えてくれるかどうかは別だけど、ヒントくらいなら得られるかもしれない。
だけどあたし、それを知って、どうするんだろう。古賀さんと樹くんを引き合わせるつもり? そんなこと、ふたりは望んでいるのかな。
敷地にはいるのをためらって行ったり来たりしていると、春奈さんに声をかけられた。
「いつきちゃん。ひさしぶり」
冬の空気のように凛とした笑顔だった。手には大ぶりの布のバッグと、黒い小さな楽器ケースを持っている。
「練習帰りなんだ。あたし、市民吹奏楽団にはいってるの」
春奈さんの長いポニーテールがゆれる。春奈さんはすこしはにかんだような笑みをうかべた。
「この前は……、その。ごめんね。みっともないとこ、見せちゃって」
そして、寒いからはやく中に入ろう、と、あたしの背中を押した。
店内では、白い筒型のレトロなストーブが燃えていた。マスターはあたしを見ると目だけでほほえんで、カウンターわきの出入り口から厨房のほうに消えた。春奈さんはあたしのとなりに腰かけた。
「こないだのひとね」
春奈さんはしずかに切り出した。かたちのいい、透明なマニキュアを塗っただけのきれいな爪があたしの目にはいる。
「私の、つきあってたひと」
「つきあってた、って、過去形?」
「うん。もうずいぶん前に別れてたの。彼に新しい彼女ができてね。でもあたしは未練たっぷりで、ずるずるあのひとにしがみついてたの」
ふっと、目線を落とす。
「あのひとも、やさしいっていうか、ずるいひとだから」
何も言えなかった。あたしはまだ十三で、しかも同級生より奥手なほうだし。春奈さんにかける言葉なんて出てくるはずもない。
それに、いつもさばさば明るい春奈さんが男の人にふられてもしがみついてたなんて、意外で、うまく想像できない。
「でも、こないだ、おしまいにしたの。今度こそ、きれいさっぱり、お別れしたの」
春奈さんはそう言ってにっこり笑った。秋の、雨上がりの晴れた空のように、さっぱりと涼しく、でもどこかかげりゆく季節の淋しさをまとっているような、そんな笑顔。
「あー、おなかすいちゃった。 マスター、何か作って」
春奈さんが厨房に向かってあまえるように呼びかけた。透き通って、よくひびく声。
「そう言うと思った」
マスターはサンドイッチがふた切れ載った皿をあたしと春奈さんの間に置いた。春奈さんはあたしに目配せして、食べなよ、と訴えた。かるくトーストした胚芽パンに蒸し鶏と水菜がはさんであるだけの、シンプルなサンドイッチ。口にいれると、かりっと焼けたパンとしっとりやわらかな鶏、水菜のシャキシャキ感のバランスが絶妙。それに、ぴりっと辛味のきいた粒マスタード入りのマヨネーズ。
「おいしい」
「おいしいね」
春奈さんは大きな口をあけてそれをほおばる。甘いふわふわしたものじゃなくて、こういう、ぴりりと辛いものや渋くて苦いものがすごく美味しく感じる、あたしにもそんなときが確かにあるのだった。
「春奈さん、だいじょうぶなの?」
やせ我慢してるんじゃないかと、すこし心配になったんだ。
ありがと、そう言ってふふっとわらうと、春奈さんは黒い楽器ケースを、こわれやすい宝物にそうするみたいに、そっと抱きしめた。
「だいじょうぶ。私には、これがあるから」
いつくしむような、それでいて、その奥に強いひかりを宿した目。
「私に起こるすべてのことが、私の音楽を豊かにしてくれる」
「……聴いてみたいな。春奈さんの演奏」
ぽつりとつぶやくと、春奈さんの顔がぱっと明るくなった。
「じゃ、聴きにおいでよ、クリスマスイブの夜。私、ここでまた、ミニコンサートするから。夜七時から八時くらいまでの予定。あぶないから親御さんに送ってもらって来ればいいわ。あ、ていうか樹に迎えに来てもらったら? あいつなら安全だし」
どきりとした。春奈さんが樹くんの名を呼んだ。樹くんは、知ってるんだろうか。春奈さんが恋人とさよならしたこと。
「マスター、これ貼っといてー」
春奈さんは布バッグから手書きのポスターを取り出した。それから「あ、今の私、タモリみたいじゃなかった?」なんて言って、新ギャグを思いついた小学生みたいに、得意気にわらう。
その日はさいごまで、樹くんの両親のことは、聞けずじまいだった。




