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「かーわーいーいー。いつきママ」
美里がくすくすわらう。他人事だと思って。あたしはぷうっとほっぺたをふくらませた。やっぱり話すんじゃなかったかな。
あたしと美里は掃除班が同じで、今週は校庭の担当だ。外掃除は、けっこう、好き。
仰ぎ見る空の青が、目にしみる。どこまでも澄んだ空の高いところを、ひとすじの白い雲がほそく伸びていく。すうっと、だれかがクレヨンで線を描いたみたいに。
「あっ、ヒコーキ雲。ラッキー」
美里がかん高い声をあげた。
「あたし、これで十二回目。いつきは?」
「十九回」
「リーチじゃん。すごーい」
美里は竹ぼうきの柄であたしのわき腹をこづいた。
「ちょっと、やめてよ。そこ、弱いんだから」
くすぐったくて、あたしはからだを「く」の字にまげて美里から逃げた。
あと一回、ヒコーキ雲を見れば、あたしの願いがひとつかなうらしい。これは美里が雑誌で見つけてきたおまじない。二十回ヒコーキ雲を見れば、願い事がかなう。ただし、ヘリコプターを見てしまったらおしまい。リセット。一からやりなおし。
美里は小学生の頃からこういうのが大好きで、よくいろんなおまじないをやっていた。好きな人の名前を新品の消しゴムに書いて誰にもふれられずに使い切るとか、願い事を百回書いて、消しゴムで消して、その消しかすを小瓶に入れて持ち歩くとか。あたしは正直そんなに信じてないんだけど、ヒコーキ雲のおまじないは、美里につきあってなんとなくやっている。
「いつきの願いごとって、なあに?」
美里があたしの顔をのぞきこむ。
「……掃除、しないと」
美里から目をそらして、フェンスぎわの落ち葉をほうきでかき集める。乾いた校庭に砂ぼこりがたつ。掃除の時間が終わったら、教室に帰って、ホームルームがあって、下校しなくちゃならない。できることなら、あたしは永遠にここで落ち葉を集めていたい。
「どうやって知り合ったのかなあ? いつきママと彼」
なんだか夢見ごこちな美里。美里って、漫画とか小説とかドラマとか、恋愛モノならなんでも好きだもんな。そりゃ、こういう話は大好物だよね。
「病院だって」
「まじ? 患者さんにひとめぼれされたの?」
「ひとめぼれとは言ってないじゃん」
思わず苦笑してしまう。
「なんかね、そのひと……古賀さんっていうんだけどね、一週間くらいママの病院に入院してて、退院してずーっと後になってから、偶然本屋で会ったんだって」
「へーえ」
「それで、そのときはちょっと世間話して終わって。んで、それからまたべつのお店で偶然会ったんだって」
「えーっ。ちょっとそれ運命っぽくない?」
「運命だって勘違いしちゃったんじゃないの? 知らないけど」
桜の木の幹にどすっともたれかかった。衝撃で、赤茶けた枯れ葉がひらひらと落ちてくる。
すごく気があうの、話していると時間をわすれちゃうの、連絡先を交換して、何度も会うようになったの。会って、お茶しながら話してるだけなんだけどね、楽しいの。そうママは言った。こんな気持ちひさしぶりよ、って。赤い顔して。舞い上がって知恵熱まで出しちゃうとか、ありえない。
「いつきママの彼氏、イケメンだったらいいね」
あたしがいらいらしているのにも気づかず、美里は能天気にそんなことを言う。
「ママの彼氏がイケメンでもべつにうれしくないよ」
「そうかなあ、目の保養になるじゃん? それに、もしかしたらパパになるかもしれない人じゃん? ぜったいイケメンがいいよう」
まるい目をきらきら輝かせる美里。
「パパだなんて、冗談じゃないよ」
つめたい声が自分の口からこぼれた。
しまった。あたし今、たぶんすごく怖い顔してる。シリアスになりすぎた。
案の定、美里は竹ぼうきを握りしめたまま、泣きそうな顔をしてだまりこんでしまった。
「ごめんごめん。もう、この話、終わり。聞いてくれてありがと」
むりやり顔の筋肉を動かして、「いたずらっぽい笑み」をつくってみせる。それで美里は、すぐにいつもの無邪気な美里にもどった。
あたしの腕に自分の腕をからませてくる。
「ねえねえいいこと思いついちゃった。ママ彼に、すっごいカッコいい連れ子がいたら、どうする?」
なんて、あたしに耳うちする。
「やっぱり美里はそればっかり!」
あたしはそう言って明るくわらった。美里も「ひどーい」と言ってわらった。
チャイムが鳴る。教室に戻る時間。あたしは美里の腕をほどいた。ほうきを美里に押しつけて、にっ、とわらう。そして、走り出す。
「ちょっと、いつき。待ってよー」
「はやくはやく」
あたしは美里のほうを振りかえって、大声で叫んだ。完璧な笑顔で。
全速力で校庭を横切る。小石みたいなものにつまずいて、派手に転んだ。だいじょうぶ? って美里の声が追いかけてくる。右ひざがやけどしたみたいにかっと熱い。うっすらと血がにじみ出している。痛い。
「はやく洗って保健室で消毒してもらお?」
美里がやさしくあたしの肩をたたいた。
「ね? 泣かないで、いつき」
「泣いてないもん。これくらいのケガで。泣くわけないじゃん」
ごしごしと、乱暴に目元をぬぐった。涙なんて、出てないもん。
「じゃあね。バイバイ」
「バイバイ。また明日」
学校を出て長い坂を下り終えたところの、最初の信号が青に変わって、あたしは美里に手をふった。横断歩道をわたりながら全身の緊張を解く。やっとひとりになれた。
パラパラパラパラ。上空から音が降りてきて、反射的に空を見上げてしまう。最悪。ヘリコプターだ。ヒコーキ雲、リーチだったのに。またイチから数えなおし。
それであたしは気づいた。ほんとに願い事がかなうなんて思ってないけど、もしかしたら何かいいことあるかもって心のどこかで期待してた、そんな自分に。
歩みを止める。あたしって、普通の、どこにでもいる中学一年の女の子。それ以上でも、以下でもない。こんなばかげたおまじないだって、子どもだましって馬鹿にしながらも、はんぶんは真剣にやってる。こんなとるにたらないことで、がっくりとしてしまう。
ママはあたしのことをどう思っているんだろう。あたしは料理も洗濯もするし、みんながよそへ遊びに行くお盆や連休にママが仕事してても、泣いて困らせたことはない。だから、あたしは年齢より大人だって思ってるのかな。それで、彼氏の話をしても平気だって思ったの?
だからって、秘密にされてももやもやするだろうし。でも、あそこまであけすけなのも、娘としてはどう反応していいか困ってしまう。だって。だってさ、ママはあたしの「ママ」だもん。おかあさんだもん。いきなり「恋する女のひと」になっちゃうなんて想定外。
くるりときびすを返す。家とは反対方向に歩を進める。まっすぐ帰るのはやめだ。
市役所や図書館のある通りをぬけて、さびれた商店街をあるく。シャッターがおりた洋品店、色あせた万国旗。貸店舗の貼り紙。ベビーカーみたいなカートに買い物袋をつんだおばあさん。昼間から酔って赤ら顔のおじさん。鮮魚店から、海の生き物の匂い。
花屋さんで意味もなく小さな鉢を買った。サボテンみたいな手のひらサイズの植物。ゼリービーンズのような、ころころつやつやした葉っぱがたくさんついている。
店を出て、裏の路地にはいる。昔ながらの家並みがつづく。
ブロック塀の上を、白い子猫が歩いている。塀からはみ出さんばかりに枝をはる大きな柿の木には、色づいた実がたくさん実っている。遠くできいいと鳥が鳴いている。なんてのどかで平和な日常。
たとえば。あたしは考える。逆だったらどうなのかなあ。あたしがだれかに恋しちゃったとして、それをママに相談できるのかな?
……ちょっと想像してみたけど、むりだと思った。親に恋バナとかはずかしくて耐えられないよ。ていうか、そもそもあたしが恋とか。男の子をすきになるとか。ためしに、クラスの男子の顔を出席番号順に思い浮かべていく。うん、ありえない。
みゃうん、と塀のうえの子猫が鳴いた。かわいい、撫でたいなって手を伸ばした、その瞬間。ふっと、甘いかおりが鼻先にとどいた。キンモクセイのかおり。秋のかおり。子猫はひらりと塀の向こうへ飛び降りて駆けて行った。
あたしはキンモクセイのかおりのみなもとを探して、細い道をさらに奥へと歩くことにした。
目の前が明るくなって、道幅が少し広くなる。道の右側には小さな、色のない鳥居、ふるい石段。反対側にはとんがり屋根の小さな教会。神様大集合、ってかんじの場所だ。
さらにかおりは濃くなる。
あった。大きな、キンモクセイの木。
ツタみたいな植物のつるがびっしりとからまった石垣の向こう。クリーム色の星くずみたいな小花をいっぱいにつけた、キンモクセイ。その少し奥に、古い二階建ての家。近寄ってみると、石垣の突き当たり、門柱にあたるところには群青色のプレートがはめこんである。それには、銀色の文字で、こう刻まれている。
「カフェ・キンモクセイ」
あたしは小さく、つぶやくように読んだ。