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何もかもが億劫になった。ママのかわりに夕ご飯をつくるのも、洗濯物を取り込むのも、もちろん勉強だってする気になれない。
キンモクセイには足が向かない。どうしてなのかはわかんないけど、樹くんのせつない顔を思い出して、息がくるしくなるから。
放課後あたしは、美里の家に行ったり、ショッピングセンターをぶらぶらしたり、公園に寄ったりして毎日遅くまで時間をつぶしていた。ママより帰宅が遅くなることがふえて、そのたびにいちいち言い訳するのも面倒だから、「吹奏楽部にはいった」と嘘をついた。
ママは喜んでいた。音楽、いいじゃない。好きなことが見つかってよかったね。がんばってね、って。ばかみたい。
いらいらするんだ。ママの顔を見ているだけで、声を聞くだけで、こころに細かいとげがたくさん生えたみたいになって。だからあたしはママを避けている。
必要最低限の会話しか、しないようにしている。そうしないと、ママにひどいことばを投げつけてしまいそうで。こわかった。
携帯が短く鳴る。樹くんからのメールだ。最近よくメールが来る。「お店来ないけど、どうしたの」とか。「元気にしてるの」とか。関係ないのに。ともだちでも彼氏でもないのにそんなこと聞かないでよ。
「ねー。それ、誰からのメール? いつき、最近しょっちゅう携帯見てため息ついてるよね」
美里がぐぐっと身をよせてのぞきこんできたから、あたしは反射的に携帯を隠した。
「あーやーしーいー」
「まあまあ美里」
なかちゃんがいさめる。
テスト一週間前だからなかちゃんも部活は休み。三人で美里の部屋で勉強している。
「いっつも思うんだけどさあ、二次関数とか方程式とかって、人生で何の役に立つんだろ」
なかちゃんがシャープペンをくるくる回しながらぼやいた。なかちゃんは、テスト前になるとすぐ「人生」について語りだす。
「しょうがないじゃん。文句があるなら文科省に言いなよ」
美里は意外とクールだ。かりかりと教科書の問題を片っぱしから片付けている。
コンコン、と軽いノックの音がして、ドアが開いた。
「お茶、どうぞ。ちょっとは勉強、はかどってる?」
美里ママがひまわりみたいな明るい笑みを浮かべて入ってきた。
「きょうの教室の残りで、悪いんだけど」
紅茶のカップと、ホイップクリームを添えたシフォンケーキののったトレイ。あたしたちは秒速でミニテーブルの上のノートやら教科書やらをかたづけた。
「ああ、ふわふわー。なのにしっとりー。この、上品な甘さ」
なかちゃんがケーキをひと口ほおばって、グルメリポーターさながらのリアクションをしめした。うっとりと、恍惚の表情。
だけどほんとにおいしい。さすが、プロの腕前。お菓子って難しいんだよね。美里ママ、キンモクセイでお菓子出したりとかできないかな。あそこでは食べ物はサンドイッチとスパゲティぐらいしか出さない(夜は知らないけど)。おいしいお菓子があれば、わかい女性客だってきっとふえる。
なんてことをぼんやり考えていると、目の前でぱちんと音がしてあたしは反射的に目を閉じた。美里が蚊でも叩くように、両の手のひらを打ち合わせたのだ。
「またボーッとしてる」
美里はあたしの顔をのぞきこむ。
「いつきさあ、そろそろ白状したら?」
「何を?」
「藤高の彼について、よ。さっきのメールも彼からなんでしょ」
「か、か、かれ? だれ? それ」
びっくりして紅茶を吹いてしまうところだった。美里は口の端をすこし上げて、ふふんと鼻をならしてあたしを見る。ネタはあがってんだよ、とでも言いたげだ。
「あのさあ、すごいうわさになってるよ。あんたが、藤高生といっしょに歩いてるとこ、見たひとがいるんだって!」
「何それ! 初耳なんだけど」
「なかちゃん、こういう話題疎すぎ。さすが音楽バカ。ねね、いつき、あいつでしょ、藤高の文化祭で声かけてきた、天文部の、ひょろっとした人。いつき、ああいうのが好みだったんだー。意外―」
「声かけた? それって、な、ナンパ? ぜんぜん気づかなかった。いつの間に?」
トーンのあがった声でさわぐふたり。美里の部屋に、いっきに熱気がたちこめる。フリルのついたレースのカーテンのかかった小さな窓が、湯気でくもってしまいそうなくらい。
「ちがうよ」
あたしはしずかに言った。
「ぜんぜん、そんなんじゃない」
脳みその端っこのほうに、もあんと、春奈さんの泣き顔と、それを見つめる樹くんの熱のこもった顔がうかぶ。それを振りはらうみたいに、首をふった。
考えないようにしてるのに、出て行ってくれないおもかげ。
「そっかあ。なーんだ」
美里が気の抜けた声を出した。落胆と安堵が入り混じった顔。
「だよねー。悪いけどそんなカッコいいって感じじゃなかったし、お姉ちゃんと一緒のクラスらしいんだけど、あ、天文部ってひとりしかいないらしいからすぐわかったみたい。そのひと地味で目立たなくって、教室でもほとんどしゃべってんの見たことないって」
「お姉ちゃんに、そんなこと聞いたの?」
あきれた。あたしにうわさの真偽を確かめるまえに、そんな探るようなまねするなんて。
それに。
「教室で目立たないからって、なに? 地味でカッコよくないからって、なに? そんなのうわべだけじゃん。うすっぺらい表面の部分だけじゃん」
樹くんのことなんにも知らないくせに。美里のお姉ちゃんも、美里も。
「ちょっといつき、何怒ってんの。すこし落ち着こう? 美里もさ、調子のりすぎだって」
なかちゃんがあわてて場をとりなそうとしている。美里は小さくなって、「ごめん」とつぶやいた。
「いいよ、もう」
あたしもぎこちなく、言った。
なんだか、へん。あたしは、おかしい。
紅茶の残りを飲み干し、そのまま自分の道具をしまうと、あたしはだまって美里の部屋を出た。
階段を降り、おじゃましました、と言いすてて玄関で靴をはく。これからどこへ行こうかと考える。どこにも行くとこなんてない。こんな気持ちで、樹くんや春奈さんのいるキンモクセイには行けない。
あてもなく歩きながら、考えていた。
あたしだって樹くんのこと、なんにも知らない。知ってるのは、星がすきで、両親が床屋で、女子大生に片思いしてる……、それくらい。空にひしめくあまたの星のなかの、ほんの小さな惑星ひとつぶんくらい。その程度。美里の言うとおり、樹くんはさえない。まじめそうではあるけど、なんていうか、華がない。おとなしいし、おまけにそそっかしいし。なのに。
どうしてあたしはあんなにムキになってしまったんだろう。




