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雨のせいで、いつもよりこころなしか店の中は薄暗い。オレンジの照明はぼんやりと光って、まわりの空気に輪郭が溶けているようにゆらいで見える。
カウンターにお冷のはいったグラスがひとつ。さっきのお客さんのものだろうか。なにも頼まずに帰ったんだろうか。
「マスター? 春奈さん? 誰もいないの?」
あたしの声がせまい店内で心細げにひびく。樹くんはだまってグラスを片付けだした。
「いらっしゃい。ごめんごめん、ちょっとトイレ行ってた」
春奈さんが奥のテーブル席の、そのまた奥の引き戸のむこうから姿を現わした。
「寒いね。濡れてない? 樹もいつきちゃんもそろそろテスト近いんじゃない? 風邪、ひかないようにしないと。なんかあったかいもの、飲む?」
いそいそとカウンターの中にはいる春奈さん。グレーのギンガムチェックのエプロンのすそを、両手で握りしめている。目が赤い。ひょっとして、さっきまで、泣いてた……?
「ココアなんてどう? インスタントじゃない、鍋で煮てつくるココアって、ほんとおいしいよ」
春奈さんはずっと陽気な声でしゃべりつづけている。
「ちょっと樹、そんなとこに突っ立ってたらジャマ」
「春奈さん」
樹くんがひくい声で春奈さんの名を呼んだ。その手は春奈さんの腕をつかんでいる。
「大丈夫、ですか……?」
息の詰まるような静寂。あたしはどきどきしていた。こんな樹くん、はじめて見る。いたわるような、だけど、熱のこもった目で春奈さんを見ている。
春奈さんの涼しげな目に、涙がたまってこぼれた。きれいな顔をくしゃっとゆがませて、樹くんの手をふりほどく。
「……ごめん。すぐ、もどるから」
そう言うと、カウンターの奥のほうへ消えた。樹くんはいらいらしたように自分の頭をくしゃくしゃとかきまわした。あたしの心臓はまだはげしく鼓動をうっていて、にぎりしめた手のなかはじっとりと汗ばんでいる。
はりつめた、重いなにかをひきさくようにドアが勢いよく開き、にゃああと甘えた猫の声がした。音もたてずいちもくさんに樹くんの足もとに駆け寄り、まとわりつくスバル。まるで、自分の存在でよどんだ空気をなごませようとしてるみたいに。
「あれえ? 春奈ちゃんは?」
右手にスーパーのビニール袋をさげて、左胸に大きな紙袋を抱えたマスターが、がらがら声でのん気な言葉を発した。猫より空気を読めない。
「さむいねえ」
マスターは茶色いダウンジャケットにタータンチェックのマフラーをぐるぐる巻きにして、大きなマスクをしている。真冬の格好だ。
「かぜ、ひいたんですか?」
「そうなんだよ。いつきちゃんも気をつけて。今、はやってるから」
マスクのせいで、マスターがしゃべると丸めがねが白くくもった。
樹くんは無言であたしのとなりにすわり、右手でほおづえをついて沈み込んだ。むくれた、不機嫌な顔。マスターはそんな樹くんを指さし、「どうしたの?」とことばは出さず目だけで聞いてくる。あたしは首をふってみせた。
ここで起こったこと。店に男のひとがきてて、おそらくすぐに出ていって、春奈さんが泣いてて、そんな春奈さんを見て樹くんが苛立ってる、ってこと。これだけ材料がそろえばあたしにもだいたい推理できる。あの黒ジャケットの男の人はたぶん春奈さんの恋人で、なにかもめててそれで春奈さんが泣いて、春奈さんのことがすきな樹くんはそんな春奈さんを見るのがつらい。たぶん、そういうことだ。
となりにいる樹くんはみえないバリアをはって、だれも寄せつけないような空気をまとっている。マスターは気にもとめてない様子で、平然とした顔で、グラスに水をついでいる。それも樹くんにじゃなくて自分が薬をのむために、だった。
あたしは、しつこく樹くんにまとわりついて無視されつづけてるスバルを抱き上げた。そのからだは、ふくふくとあたたかかい。ふいになみだがこぼれそうになって、あたしはすこしおどろいた。そういえば、あたしの胸もきりきりと痛いんだ。さっきから、ずっと。
マスターの風邪がうつった、ってわけじゃないと思う。けど、家に帰ってから少し寒気がした。あたしはオニオン・グラタン・スープを作った。たっぷりのたまねぎを、あめ色になるまでじっくりと炒めて。野菜を刻んだり、ひたすらに煮込んだり。そんな単純作業をしていたら、あたしの頭のなか、いつの間にかからっぽになるんじゃないかって。あたたかいスープを飲めば、ほっこりあたたまって寒気もなくなって、原因不明の胸の痛みも消えてしまうんじゃないかって。そう思ったの。
冷蔵庫に貼ってある、ママの勤務予定表を見やる。そろそろ帰ってくるころかな。
古賀さんの家で、「つらい」って弱音をもらしていたママ。今朝は早くからしゃっきり起きて、すっきりした顔で、朝ご飯もたくさん作ってたんと食べてた。
無理してるのかな。それとも、古賀さんに甘えて、楽になったのかな。そんな風に思うと、胃のあたりが気持ち悪くなってしまった。
八時すぎになって、玄関のドアがひらいた。ママと一緒に、冷えた夜の空気が入り込んでくる。
無言で、食事をテーブルにならべる。スープと、ごはんと、野菜いため。
「ありがとう、いつき。いつもごめんね」
「…………」
「おいしい。いつきのオニオン・グラタン・スープ、やっぱり最高」
頭がぼうっとする。
「いつき、どうしたの? 食欲ないの?」
わかんない。なんとかあたしは、湯気のたつスープをひとさじすくって口にふくんだ。
しばしの沈黙のあと、あたしは聞いた。ぼんやりとする頭の中から、ぐちゃぐちゃにこんがらがった糸の先っぽを、無造作にひとつつかんで。「ママ、仕事辞めたいの?」って。
「……辞めないよ」
「だってママ」
「どんな仕事でもそうだと思うけど、いろいろあるのよ。いちいちつまづいてたら、お金なんて稼げない。きついこともあるけどやりがいのほうが大きいし」
自分で自分に言い聞かせるみたいな言い方。
「ママ、古賀さんと結婚したら?」
「え?」
「古賀さんにだったらそんなふうに強がる必要ないんでしょ。僕に甘えて、なんて言ってくれるんだし」
「いつき。それ、どうして」
「見てたんだもん。聞いてたんだもん。だからあたし、先に帰ったんだもん。あたしがいたら、ママたち、いちゃいちゃできないでしょ」
ママは大きく目を見開いて、絶句してしまった。その顔が、みるみる赤く染まっていく。
「あたし、ここでひとりで暮らすから。ママは古賀さんちに住んだら? それで、めいっぱい甘えたらいいんじゃない? おじゃま虫のあたしなんていないほうがいいでしょ?」
言葉がどんどんあふれ出て止まらない。ママの顔が曇っていってるのがわかる。なのに止まらない。これじゃ、たんなる八つ当たりだよ。
「いつき」
あたしを呼ぶママの声が戸惑っている。
ママの顔が見れない。




