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雨は降りつづけ、月曜日の昼すぎになってようやく雨足が弱まった。帰りのホームルームが終わるころには、しとしとと細い針のような雨に変わっていた。
げた箱から靴をとり出す。コンクリの床も、その上に置かれたすのこもじっとりと湿って、あちこち上履きの足跡が残って汚れている。
日のささない、どんよりと暗い校舎を出て傘をひらく。
秋のおわりを告げる、つめたい雨。背中から首すじにかけて、ぞくぞくと寒気が這い上がってくる。この季節の雨は好きじゃない。
美里はピアノの日だからママが車で迎えに来ていた。あたしはひとり、銀杏並木を下った。道路脇では、水をたっぷり吸った落ち葉が汚らしく踏みつけられている。
「おーい、坂本さん」
呼ばれて振りかえると、黒い、一ヶ所骨の折れた傘をさした羽村君が小走りで近寄ってきていた。
「あれ。部活は?」
「やすんだ。おれ、塾の日だから」
「ふうん。あ、こないだはありがと。キテレツ大百科」
「もう、ぜんぶ読んだの?」
「ううん。まだ途中」
あたしはどうしても、樹くんの言っていた「勉三さん」がどんなひとなのか気になって、羽村くんに単行本を借りたのだ(羽村くんは藤子・F・不二雄の熱烈なファンらしい。なかちゃん情報)。
「おれって、星野スミレみたいな子が好みだったんだ」
「星野スミレ?」
「パーマン三号。パー子の正体。アイドルだけど実はおてんばで気が強いんだ」
「気が強い子がすきなんだ」
にんまり笑う。
「なかちゃんみたいな?」
「中根は関係ないよ。だいたい、好みと、実際にすきになる子って、ちがうもんだし」
羽村くんは下を向いて、もごもごと怒ったような声で言う。
「坂本、は、どうなの。好みのタイプとか、あんの?」
「好みのタイプねえ。考えたこともないなあ」
「ふうん。めずらしいな。女子って、こういう話ばっかりしてるんじゃないの?」
「そんなことないと思うけどなあ。なかちゃんなんて部活の話ばっかだよ」
「あのさあ坂本」
いきなり羽村くんはこっちを向いた。羽村くんの傘のはじっこがあたしのみずいろの傘にあたってしずくが飛ぶ。
「さっきから、なんで中根のことばっか、言うの?」
「え。だって羽村くんって、なかちゃんのこと」
「ちがうよ。それ、すっげえ誤解。ほんとにほんとに誤解。中根はほんとに純粋に、トモダチなんだ。その、けっしてそういうイミで好きなわけじゃないから。じゃな」
羽村くんは一気にそれだけ言うと、雨のなかを猛ダッシュで駆けていった。
あたしは目をぱちくりさせて、その、きゃしゃなうしろ姿を見送っていた。
キンモクセイの手前にある、神社のあたりで樹くんと出くわした。
紺色の傘をさして、背中をまるめて歩いている樹くんを見つけたとき、一瞬だけどまわりから音が消えて、なぜだか、みょうにこころもとない気持ちになった。
ゆうべのメールには、ちゃんと返信をもらっていた。いつでもどうぞ、って。
あたしに気づいた樹くんが片手をあげる。
「いつきちゃん。なんかあった?」
「……どうして?」
「元気ないみたい」
「……べつに」
「店、行かないの?」
「あ、えっと、行きます」
樹くんは首をかしげて、それから、ふふっとわらう。
「ねえ、これ、見て」
自分の傘をあたしに差し出す。あたしは自分の傘をたたんでその中にもぐりこんだ。紺色の半球に、蛍光イエローのシールが点々と貼ってある。大きい丸、小さい丸、星型のシールもある。
「これ、プラネタリウム? 星座早見盤?」
「ま、そんなとこ。これは十二月の夜空。まだ製作途中だけどね。あとは星を線で結んで、星座のなまえを書き込むだけ。店でこういう傘見つけてさ、でも高くて、自分で作ったほうが安上がりだな、って」
樹くんは傘をゆっくりと回転させた。
「あー、でも結構たいへんだった。傘の骨が集まってるとことかさ、貼りにくくって」
くくくっとわらう。なにがおかしいのかな。
「樹くんって、いつもひとりで、こんなことばっかりしてるの?」
「……やっぱ、へん?」
樹くんはいきなりまじめくさった顔になって、なにやら考えこんでしまった。へんなの。
「ね、宇宙って空気ってないんだよね? じゃあ、星と星のあいだには何もないの?」
「何もないわけでもないらしいよ。星間ガスとか宇宙塵とか……。それにね、宇宙のほとんどはダーク・マターやダークエネルギーっていう、っていうなぞの物質に満ちてるんだ。まだその正体はわかっていない」
「ダーク・マター? 世界征服をねらう悪の幹部みたい」
樹くんは、ぶっ、とふき出した。
でもたしかに、夜空が暗いのはなにもないからだと思ってたけど、そうじゃないのかも。あたしは「ほんとになにもない」状態ってのがうまく想像できない。宇宙がはじまる前、そこは「無」だったってテレビで言ってるのを見たことがあるけど、「無」ってなんなんだろう。ほんとに「無」だったら「無」っていうものすらないはず。ああ、頭がこんがらがってきた。
プラネタリウム傘から出て、自分のみずいろの傘をひらく。
外はつめたい雨。樹くんの頭上には星空、あたしの頭上には雲ひとつない青空が広がっている。
キンモクセイに着いたとき、ちょうどあたしたちと入れ替わるようにして、わかい男の人が出て行くところだった。黒いジャケットに細身のジーンズ。けっこうかっこいい。美里が見たらキャーキャー騒ぎそう。でも、その端正な顔はきょうの空のようにどこかくもっていた。
「めずらしいね、あんなかっこいいお客さん」
小声で樹くんに話しかける。樹くんはなにも言わず、口を真一文字に結んで、けわしい顔つきで、傘を、星の降る夜空をとじた。なんだか胸騒ぎがする。




