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お昼休みの教室のベランダで、ヒコーキ雲をさがす。空は真っ青で、一点のしみもない。雲どころか、小鳥すら飛んでいる気配はない。
「いーつき」
美里が後ろから抱きついてきた。ひゃあ、とあたしは小さく悲鳴をあげた。
「おどかさないでよ」
美里はいつも腕を組んだり抱きついてきたり、やたらスキンシップをとりたがる。あたしは正直、そんなに誰かとべたべたくっついていたくないんだけど。
「さいきん疲れてるね。甘いもの食べたほうがいいよ」
はい、と、あたしの口になにかまるいものをほうりこむ。甘くて、すっぱい。
「パインあめだ」
美里がふふっとわらった。
「美里。あたしにもちょうだい」
なかちゃんがやってきて、あたしのとなりに、手すりにもたれかかるようにして座った。
「こんなとこに座ったら、汚いよ」
「大丈夫。おしりはつけないから」
「それじゃヤンキーずわりじゃん」
美里のせりふとなかちゃんのせりふが、あたしのわきをすりぬけて飛び交っている。あたしがついた長いため息が青い空に溶けていく。
「いつき」
なかちゃんがつぶやくようにあたしの名を呼ぶ。
「お母さんがレンアイしてんのって、やっぱ微妙なかんじ?」
「うん」あたしは手すりにほおづえをついた。
「やっぱあたし、態度に出てるよね?」
なかちゃんが、ふふっ、とわらう。
そうなんだ。あたし、ママとどんどん普通に話せなくなってる。頭ではね、ママの人生だし、自由にしたらって思うんだけど。古賀さんもきっといいひとなんだろうって思うんだけど。
コドモなのかな、あたし。
「あー、ちょっとわかるかもだなー。ウチのママの教室にね、若いイケメンが通いはじめたらしくって」
美里が言う。美里のママは、自宅でお菓子教室を開いている。素敵ママなんだよね。
「すっごい舞い上がってるのー。うち、パパが単身赴任でいないじゃん? だからってさー。浮かれ放題でさー。つーか生徒なんだし若い男だからってひいきするのって、どうなの? 万が一ママが浮気したら、もう絶縁してやるんだから」
そこで美里は、いきなりころっと笑顔になった。
「で・も・さ。実際、その人見ちゃったら。まじイケメンでっ。あたし好きになっちゃった。どうしようっ。シャカイ人だよっ」
「まーたいつもの病気がはじまった」
なかちゃんはあきれ声を出す。
「ごめんねいつきー。あんたの悩み相談だったのに」
「病気ってなによ」美里はぶうたれる。
「とにかくっ。あたしも彼に恋しちゃったから、ママの気持ちわかるようになった。ていうか、ママはライバルなのっ。うん、負けられない」
なかちゃんは今度は何も言わず、両手をひろげて肩をすくめてみせた。
あたしは無言で、口のなかでうすく小さくなったパインあめを、かりりと噛みくだいた。
恋すればママの気持ちがわかる、か。ま、ありえないな。
放課後。なかちゃんは部活に行き、あたしは美里につかまって、えんえん例の彼への思いを聞かされてしまった。気が付けばもう陽は傾いていて、きょうはもうキンモクセイに寄る時間はなさそうだった。
だけど、まっすぐ家に帰る気にもなれない。どうせだれもいないし、ママが帰ってきてたとしても嫌だし。
なんとなく、学校そばの川の河川敷におりて、座る。せせらぎの音がする。すこし、寒い。マフラーをぎゅっと巻きなおす。
かばんから、いちまいのポストカードを取り出してながめる。樹くんにもらったものだ。なんなく持ち歩いてる。じぶんの机にしまってたら、もしかしてママに見られちゃうかもしれない。あたしの引き出し、調べてないとも限らないもん。そんなことしないひとだと思ってたけどさ。あたしの電話番号、古賀さんに勝手に教えてたわけだし。
土星の画像のポストカード。だれにも触られたくない。なんでかな。たんなるポストカードなのに。
黒、白、茶色の、くっきりとしたコントラスト。ふるいレコードのように、星のまわりをくるくるとまわっているんだろうか、土星のわっか、って。
写真で見る土星は思ったより無機質な、人工物のような雰囲気をまとっている。精巧にできた模型みたい。そう感じるのは、きっとこのわっかのせいだ。シャープすぎる、しぶい色みのレトロなしま模様。
ふとポストカードをひっくり返すと、下のほうに小さく文字が書き込まれていた。ひょろひょろとたよりない筆跡の英単語の羅列。携帯のアドレスだ。
樹くんの? 樹くんの、だよね?
そう思ったとたん、いきなり心臓が早鐘をうちはじめた。
どうしたの? しっかりしろ、あたし。
「いつきちゃん?」
やわらかい男のひとの声がする。樹くん。樹くんのことを考えていたからって、まさか、ほんとうにあらわれるなんて。
「……古賀、さん」
どきどきしながらふり返ると、川沿いの遊歩道に立っていたのは、樹くんじゃなくって古賀さんだった。間違えちゃうなんてありえない。でも、たしかに樹くんの声だと思ったのに。
古賀さんは遊歩道からはずれて河川敷に下りてくる。両手に、エコバッグを提げている。
「きょう、お仕事休みなんですか」
「うん。僕の家、このへんなんだよ。通勤はたいへんだけどね」
はは、とわらう。古賀さんってひとり暮らしなんだよね。夕ご飯の材料の買い出しの帰りってとこかな。料理、じょうずなのかな。
結婚してたこと、あるのかな。ふっと、そんな疑問がうかぶ。古賀さんの過去のはなし、ママも話さないし、あたしは当然知らない。聞いちゃいけないことなのかなって思う。
「ママも、古賀さんの家に、遊びに行ったりするんですか」
かわりに、こんなことを聞いてみる。
「ときどき、ね。いつきちゃんも今度おいで。ごはん作ってあげるから」
ふうん。そうなんだ。ママったら、いつそんな時間つくってるんだろう。
古賀さんはふんわりと笑う。
「春になったらみんなで花見に行きたいね。夏にはバーベキュー。今の季節は、もちろん、星だよ」
星。そうだ、古賀さんは本職なんだよね。
「古賀さん」
「ん?」
「惑星の写真って、どうやって撮るんですか。その、素人が」
「けっこう手軽に撮れるよ。こういう写真だったらね」
そう言って古賀さんはジーンズのポケットから自分の携帯を取り出して、画面を見せてくれた。
「これは?」
「金星だよ」
「三日月かと思った」
ほそいほそい、銀のゆびわみたいに光る星。
ほかにもあるよ、そう言って古賀さんは画面をスクロールした。
「あっ、月」
これは金星とちがって、表面の、クレーターのでこぼこした陰影までくっきりと写っている。藤校の文化祭で、樹くんから買ったのと似てる。
「望遠鏡のレンズにカメラのレンズをあてて撮ったんだ。簡単だろ? お客さんも喜んで撮っていくよ」
「……望遠鏡。一般の、それも、こどもが持ってるような望遠鏡じゃ、こういうのって撮れないんですか?」
「月ならわりときれいに撮れるよ」
ということは、樹くん、あの月の写真は自分で撮ったのかな。
「古賀さん。土星は撮れますか? わっかのしま模様まで、くっきりはっきりと撮るの」
たとえばこういうの、と言って、ちらっと土星のポストカードを見せた。一瞬だけ。
「うん、望遠鏡にもよるけど。僕のとこではウェブカメラで追いかけて、あとで画像処理してるんだ。この写真もそうじゃないかな? あ、それとね、そのわっか。模様っていうかすき間なんだよ。ちなみにわっかの正体はね……、あ、ごめん、どうでもいいか」
知らず知らず熱く語りはじめていた自分に気づいて、古賀さんはきまり悪そうに笑った。あたしもつられて吹き出しそうになり、あわててほほの筋肉をひきしめた。
「それよりいつきちゃん」
こほんと、咳払い。
「はい」
「敬語は使わないでいいからね」
「……はい」
「今みたいに、何か知りたいことがあったら、気軽に電話をかけてもかまわないよ。理科だったら得意だし宿題も教えてあげられるかも。ほかの教科は無理だけど」
「どうも」
「まゆりさんは、今日も遅いのかな」
鼻歌をうたいながら、古賀さんは、あたしを家まで送ってくれた。
なんか、みょうな感覚だった。このひとは、ママの彼で。未来には、パパになるかもしれないひと。ママを変えちゃったひと。なのになんだか。ママ抜きでふたりでいると、そんなに嫌な感じじゃないかも。
ぶんぶんと首をふる。ぜったいに心を許すもんか。
そう固く決意した。はず、なんだけど。




