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次の日。学校帰りにキンモクセイに寄ると、ちょうど楓の木の下でマスターがスバルにえさをあげているところだった。
「いらっしゃい」
マスターはやさしげな微笑みをうかべている。
マスターは水のはいったグラスをカウンターの上に置いた。カラン、と涼しい音がした。
「ありがとうございます」
ひと口、水を飲む。
「いつも、こんなに暇なんですか?」
「いつも、ってわけじゃないけど、だいたい来るお客さんは決まってるからね。午後二時くらいに店をあけて、それから夕方まで、来るのは三、四人ぐらい。どっちかっていうとうちは夜をメインにやってるからね」
「夜?」
「うん。夜はお酒を出すの。ちょっぴりオ・ト・ナの、空間に早変わり」
マスターはウインクした。語尾にハートマークがついてる感じで、ちょっときもち悪い。
「スバルは、ここで飼ってもいいの?」
「ここで、っていうか、ぼくの居住スペースでもある、二階と奥の部屋で飼ってる。ふだんは、厨房と店には入らないようにしつけてる」
「しつけてるって、言うこと聞くの?」
「ぼくは猫の言葉がわかるからね」
マスターは真顔でそう言ってのけた。冗談ともつかない調子なので、あたしは笑うことも真に受けることもできず、さらりと話題を変えた。
「マスターって、ひとり暮らし?」
「そうだよ。ずうっと独身。だから春奈ちゃんが心配してあれこれ手伝ってくれるんだ。晴れた日は布団干したりとかね。まるっきり子どもあつかいだよ」
そしてマスターはひとしきり自分の話をした。
もともと、この家はマスターの大おばさん(おばあちゃんの妹さん)が住んでいたところだった。大おばさん自体も誰かからここを買ったらしく、いつの時代に建てられたものなのかはよくわからないらしい。マスターは夫も子どももなかった彼女から遺言によりこの家をゆずり受けたのを機に、思い切ってここを改築し長年の夢であったカフェを開いたんだって。ちなみにそれまでは建築士としてばりばり働いていたらしい(ひとは見かけによらない)。
「小春日和だねえ……」
マスターが目をほそめる。窓からやさしい秋の陽がさしこんでいる。
みゃうう、とひと鳴きして、スバルがあたしのひざの上に乗ってきた。やわっこくてあったかい。
「ああ、なんだか眠くなってきた……」
あくびをしながらマスターはよろよろ歩き、いちばん奥の、意味不明にぽつんと置かれた茶色い革張りのソファに身をよこたえた。
「お客さんきたら、起こして……」
「え? 寝るんですか? ええっ?」
なああご、スバルが鳴いた。ていうか、あのソファって、昼寝用……、だったんだ。
それからどのくらい経っただろう。スバルがあたしのひざの上で寝てしまったので、あたしも座ったまま身動きがとれずにいた。
がらんとドアがあく音。
「いらっしゃい、ませ」
えんりょがちに言った。やってきたのは樹くんだった。
「マスターは?」
「昼寝してる」
樹くんはふううとため息をついた。
「あいかわらず、自由なオジサンだなあ……」
あたしのとなりの椅子にかばんを置くと、カウンターの奥へずかずかと入りこむ。
「きみ、なんか飲む?」
「え。いいの?」
ていうかこのひと、従業員でもないのに。
「いいんだ」
あたしの心のなかを見透かしたように、樹くんが答える。
「ここ、俺の第二の家みたいなもんだし、簡単な手伝いならよくやってる。あ、ちゃんとお金は払うよ。これは俺のおごり」
はい、どうぞ。そう言って、オレンジジュースのはいったグラスをあたしの目の前に置く。ことん。
「……ありがとう」
「コーヒーも、むかし淹れかたを教えてもらったんだけど、なぜかマスターみたいに美味しくできないんだ」
樹くんは自分のグラスにもオレンジジュースをついで、レジ横にある伝票になにか書きこんだ。それから、あたしの隣の椅子に座った。
「きょうは、春奈さんは?」
「うーん。休みかな? 春奈さんは、午後の授業がない日だけここを手伝ってるんだ」
「大学生なんだっけ」
「うん。音楽の先生になる勉強をしてるらしい。つい最近まで、教育実習だなんだって忙しそうにしてたよ」
ふうん、とあたしは小さくあいづちをうつと、ジュースをもうひと口飲んだ。でも内心では、ジュースよりコーヒーの気分だな、と思っていた。うまく淹れられないんなら仕方ないけど。あたし、すっかりコーヒーが好きになってしまったみたい。十三歳にして、もうカフェイン中毒なのかな。
スバルが起きあがってのびをし、となりの樹くんのひざにとびうつる。
「ここが第二の家って?」
「ああ。俺んち、両親とも働いてて忙しいからさ、しょっちゅうここに入りびたってたの。ここで宿題やってたら、お客さんが教えてくれたりしたよ。マスターと父親が友達だって、言わなかったっけ?」
「そういえば」
あたしはうなずいた。
「お父さんとお母さん、会社員なの?」
「理容師。母さんは美容師。ふたりで床屋やってる。ここのすぐ近く」
樹くんはスバルを抱きあげて、肉球をつまんで遊びだした。スバルは身をよじって逃げようとしている。
「へえ……」
あたしは空になったグラスを両手でつつんだ。
「両親が、ふたりで一緒にいるのって、どんなかんじなんだろう……」
「え?」
「あ、いや、おんなじ職場で一緒にはたらいてるのって、どんななのかなあ、って」
こころの中のひとりごとが思わず口をついて出ていたみたいで、あたしはあわてて弁解した。樹くんがなにか言おうと口を開きかけたそのとき、ドアがあいた。杖をついたおじいさんと白髪のおばあさんのカップル。こんどは正真正銘のお客さんだ。
樹くんはあわててマスターを起こしにいった。やっと開放されたスバルは、自分の身のほどをわきまえているみたいに、にゃあんとひと鳴きして窓の外へと飛び出していった。
それからぽつぽつとお客さんがやってきはじめた。外回り中の一息、ってかんじの会社員風のおじさんとか、ぶあついめがねをかけて文庫本を読みふけっている無精ひげだらけの男のひと、とか。
「勉三さんだ」
ひげめがねさんをちらりと見やって、樹くんがこっそりあたしに耳打ちする。
「ベンゾーさん?」
「そ。キテレツ大百科の」くくっと笑う。
「似てるよね、って、春菜さんが」
「よくわかんない。コロ助ならわかるけど」
「え? 勉三さん知らないの? コロ助は知ってるのに?」
マスターがてきぱきとコーヒー豆を挽いたり注文をとりに行ったりしているのを横目で見ながら、あたしたちはそんなくだらない話をした。そして、すこしお互いのことも話した。
樹くんが星が好きで小さいころは本気で宇宙飛行士になりたかったこと、サンタさんに手紙を書いて天体望遠鏡をプレゼントしてもらったこと、あとになって、それがもとで両親が大喧嘩してたことがわかったこと(けっこう高価なものだったからね、と樹くんは笑った)、あたしが五年生までサンタさんを信じていて友達に笑われたこと、などなど。
樹くんは高校二年生だからあたしより四つ年上になるんだけど、すごく大人っぽいのかといえば、そんなことは全然なかった。物静かで落ち着いているのかと思ったら結構まぬけだったり、口調はゆっくりめだけど案外おしゃべりだったりした。




