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キンモクセイに星が降る  作者: せせり
キンモクセイ
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 湯気でくもった窓ガラスを指でふいたら、そこにだけ藍色の夜があらわれた。十月の、透明な夜。あたしは玉ねぎを炒めている。六畳間がみっつにダイニングキッチンつきの、あたしたち母子のささやかなお城は、甘くて香ばしいにおいでいっぱい。

 玉ねぎはかなりかさがへって、つややかなあめ色になった。もう、このへんでいいだろう。玉ねぎの鍋に、水とコンソメキューブをひとつ入れる。ひと煮立ちさせてからカップにそそいで、フランスパンをうかべてチーズをたっぷりのせる。

「いいにおい。オニオン・グラタン・スープでしょ?」

 ママが奥の部屋からのっそりとはい出してきた。みどり色に白い三本ライン入りの、よれよれのださいジャージにグレーのトレーナー。ウェーブのとれかかった、ぼさぼさの長い髪。ぶあついレンズの黒ぶちめがね。目の下にはうっすらとくまができてて、美人がだいなし。ムスメのあたしが言うのもなんだけど。

 スープをあたためたオーブンの中へ入れながら、あたしはうなずいた。

「あたり。できあがったら起こすから、それまで寝てて。ひどいよその顔、幽霊みたい」

「それよりいつき」ママはちょっとだけ、むっと顔をしかめた。「今、何時?」

「八時。夜の」

「うそ? どうして起こしてくれなかったの? ああ、せっかくのお休みなのに勿体ない」

「だってママ、きのうから具合悪そうだったじゃん。感謝してよ、寝かせといてあげたんだから」

 ゆうべ、仕事から帰ってきたママは、ただいまあと言うやいなや、そのまま玄関に倒れこんでしまったのだ。あたしはあわててママを抱き起こした。おでこをさわると少し熱かった。ママはあたしの手を払いのけて、「だいじょうぶだから」なんて強がりを言った。まったく、どっちが親だかわかんない。

 オーブンが鳴る。ミトンをつけた手であつあつのカップを取り出す。フランスパンの表面がかりっときつね色に焼きあがっている。中はスープがしみてとろとろのはず。上出来だ。パスタもちょうどゆであがったところだ。

 あたためたトマトソースをパスタにからめる。トマトソースは、先週の日曜につくった残りを冷凍保存しておいたもの。ママの仕事は看護師で、時間が不規則だからあたしもこうして家事を手伝う。

 パパはいない。あたしがちいさい頃、亡くなった。

「おいしい。いつき、ウデ上げたね」

 ふうふう言いながらスープを飲むママ。湯気でめがねがくもっている。オニオン・グラタン・スープはママの大好物で、風邪で食欲がないときでもこれなら食べてくれる。

 深まりゆく秋の夜、湯気のたつスープを飲むことの幸せ。からっぽの胃に熱い液体がおりて、そこからじんわりと体中がぬくもってゆく。

 ママは前髪をゴムでしばっている。まるで中学生。現役中学生のあたしがそんな風に思ってしまったことがなんだかおかしい。

「何? にやけちゃって。キモチわるい。知ってる? 思い出し笑いする人って、スケベなんだってよ」

 ママがじろりとあたしを見る。何それ、とあたしはわらいながら答えた。

 満たされている。唐突に、そう思った。

 この瞬間、この空間。あたしは満ち足りている。うんと小さい頃、家族でどこかへ出かけた帰り。車の中で寝てしまったあたしを誰かが抱っこして部屋にはこんでくれて、夢見ごこちでそのぬくもりを感じている、そんな遠い日の記憶に似ている。もしかして、あの時抱きあげてくれたのは、今はもういないパパだったのかもしれない。

 ママはテーブルにほおづえをついてぼうっとしている。熱、まだあるのかな。

「あーあ。情けないなあ。まさか熱まで出しちゃうなんて。ひさしぶりだからなあ……」

 ママのひっそりとしたつぶやきが耳にとどいた。

「なにが、ひさしぶりなの?」

「ん」

 ママはスープをゆっくりとかきまぜる。

「あのね。じつはママ、告白されちゃってさ」

 むぐ、とパスタが喉につまりそうになった。あわてて水を飲む。

「こく、こく」

 こくはくって、アレだよね。恋とか愛とかそういうやつ。ママは赤い顔してため息なんてついてる。

「ママ、そのひととおつき合いすることにした」

 何度も何度もまばたきをくりかえす。たしかにママは独身で、そりゃ今はこんな恰好してるからアレだけど仕事に行くときはそれなりに綺麗にしてるし、白衣姿だってさまになってるし、あたしっていうコブがついてるのをのぞけば、客観的に見てモテないこともないのかも、とは思う。だけどパパが亡くなってから今まで約十年、そんな浮ついたはなしは一度もなかった。

 仕事と、あたしを育てるので、せいいっぱいだったの。たぶん。

「今度ね、いつきにも会ってほしい」

「って、いきなり?」

 ママはうなずく。

「いつきから見たらどんな感じかなーって、そのひと。ママはね、ママは、素敵なひとだと思うんだけど……」

 歯切れがわるい。なんだか、クラスの女子に相談を受けてるみたいな気分。

「つっても、そのひととつき合うって、もう決めてるんでしょ?」

 パスタを巻きつけたフォークを口へはこぶ。味が消えた気がする。

「どうしようどうしよう。勢いでうなずいちゃったの。後先なーんにも考えてなかった」

 そんなこと言われても。しっかりしてよ、ママ大人でしょ。もうアラフォーでしょ。パパと結婚する前だってそれなりにレンアイしてきたんでしょ。

 ママの彼に会うだなんて、いったいあたし、どうすればいいの。まさか、その彼と結婚したいとか言い出したりしないよね? そのひと、あたしのパパ候補だったりしないよね?

 凪いだ水面に小石が投げ込まれたみたいに、あたしの満たされた小さな世界にしじまがひろがった。

 あたしは今の暮らしでじゅうぶんしあわせなんだ。お父さんがいなくてさびしいね、大変だねって人は言うけど、これがあたしの日常で、ほかの生活はしらない。ほかの生活はいらない。

 

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