彼が変わったわけ その3
『俺と別れてください』
言った……言ってしまった。
中学に入って人生初の彼女ができ(ただし強制的に)、そして昨日――付き合いだして一カ月たった後に最悪の形で別れることとなった。
普通の男なら凹むところだろうが、この男は違った。ふん、ふんと鼻歌交じりに歩いているとすれ違った主婦が気味の悪そうな顔して見ている。今はそんなことも気にならない。それほど機嫌がよかった。
やっとあの性悪女と手が切れたのだ。これが喜ばずしてどうするのか。
ああ、なんという解放感。自由って素晴らしい! ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そう思っていた時もあった。
今は最底辺まで沈んでいる。
別れたことは喜ばしい。
だが、公衆の面前であんなことを言ってしまったのだ。あの花蓮が引き下がるとは思えない。花蓮は学校のヒエラルキーの頂点に位置する人物。そして自分に楯突いた者を決して許さない。
自分が気に入らない者は潰す――花蓮が恐れられているのはその容赦のない性格のせいだ。
数時間前までは晴れやかな気分で過ごせていたのに、だんだんと自分が何をしてしまったのか理解すると、気分は一気に沈んだ。
一応、脅しはかけておいた。あれが花蓮に通用するかどうかは正直微妙だ。
そのまま引き下がってくれるか、自分んちをどうにかできる家などないと思われるか……。体裁を気にしてくれればいいが、あそこまで怒らせたとなると、何かしらしかけてくると思っていたほうがいいのかもしれない。
春火は本気で家同士の対立にまで持ち込もうと思っているわけではない。あくまで牽制の意味で言ったので、花蓮に本気にされたらそれはそれで困ることになる。そもそも男女間のもつれで家の力を借りるというのも情けない気がした。どっかの誰かさんは使いたい放題だが。
まあ、どちらにせよ今うだうだ悩んでも仕方がない。次学校で会ったとき、花蓮がどう出るか、それからだ、と春火は久しぶりの穏やかな時間を満喫した。
そしてやってきた登校日。春火は重い足取りで学校へと向かった。
ああ、行きたくない。
だらだらと重い足取りで学校へ行き、そして昇降口で下履きから上履きへ変えようと延ばした腕を止めた。
上履きはあった。だがズタズタに切られていて履ける物ではなくなっていた。
――虐め。
やっぱりこうなったかと春火は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。先制攻撃を受け、早くも帰りたくなってきた。
教室に入ると、それまで騒がしかった教室は一瞬静かになった。そしてひそひそと声を潜めて話すクラスメイトたち。クラスメイトに目を向けると、みな慌てて目を逸らす。
花蓮と取り巻きはニヤニヤしながら春火を眺めていて、それを見た春火は怒りがふつふつと湧き上がるのを感じた。
「あら、御堂くん、どうしたの? 足元スリッパだけど、靴はどうしたのよ」
「……」
「なに? どうしたの?」
「君がやったのか?」
「なんのことよ」
「……いやなんでもない」
「ふ~ん、そう」
「……」
「なによ」
「いや、なんでも」
この顔だけで誰がやったかなんてバレバレじゃないか。あくまで白をきるか
昨日の脅しは効果がなかったようだ。しかし、花蓮たちの態度が少し気にかかった。何故こんなにも余裕があるのか。
花蓮の性格から、花蓮自身ではなく、誰か他の人間にやらせた可能性が高い。それならばれてもいたくもかゆくもない、ということだろうか。
いや、それでも、昨日はあれだけ家のことに反応していたのに、家以外に何か強い後ろ盾でもあるのだろうか?
考えても今の春火にはわかるはずがなく――花蓮たちと目を合わせたあと、何事もなかったかのように目を逸らした。
これから自分はどうなってしまうんだろうか。
これでも軽い方だろう。
報復の手段などいくらでもある。無様に許しを請うようなことにはなりたくない。取り乱さないよう、心づもりをしておいた方がいいのかもしれない。
おそらく、物に対する以外で物理的手段を用いることはないと思うが……。
幸い教科書等は家に持ち帰っているため被害にあうことはなかった。その日は靴が犠牲になっただけで、そのあとはひたすら無視されるという苦行を強制されたがそれだけですんだ。
しかし花蓮がそれだけで終わらせるはずもなく。
はじめは靴がなくなり、シカト、机がなくなり……じわじわと首を絞められていった。
花蓮は春火が音を上げて自分に謝罪してくるのを待っているようだった。
みんながみんな、花蓮と同じように春火を貶めていたわけではないが、誰も花蓮を止められない。そんなことをすれば次のターゲットは自分になってしまうからだ。
担任に相談することを考えたが、花蓮の親の知り合いだと聞いたので諦めた。すでに春火が何をされてるのか気付いているだろうに、何もしない時点でありえないこととなった。
花蓮は飽きっぽい性格でもあったので、しばらくしたらすぐに飽きるだろうと、少し期待していたのだが、虐めはなかなかなくならなかった。
花蓮が飽きるか、春火が音を上げるのが先か――おそらくどちらかになるだろう。
それまでずっとこの状態が続くのかと思うと気が滅入る。しかし暴力は受けていないし、これで音を上げたら相手の思うつぼだと春火は意地になってひたすら耐えた。
それがしばらく続いたころ、いい加減しつこいな、とうんざりしていたある日。
放課後、授業が終わって帰り支度をしていると、花蓮が取り巻きを連れて春火の席までやってきた。
今度は何なんだ。
取り巻きたちに囲まれ、春火が訝しげに見ていると、それを見た花蓮は鼻をならし、見下した目で、
「ねえ、御堂くん、私もそこまで鬼じゃないのよ。自分が何をしたのか理解してるわよね? 自分の非を認めてちゃんと謝罪してくれたらまた付き合ってあげてもいいわよ?」
「はあ?」
自分の非って……アホかこいつ。
ここまで馬鹿だとは思わなかった。別れて正解だ。
遠巻きに見ていたクラスメイトたちも流石に呆れた顔をしている。
いつもの花蓮ならこのような目立つことはしなかっただろう。なかなか自分に屈しない春火に痺れをきらしたようだ。悪目立ちしても、(春火を除いて)自分に逆らう気力のある者などいないのだから、どうとでもなると思っているのかもしれない。
滑稽だと思った。
「なんで俺が悪いんだ? 君に許してもらって、どうなるわけ? また君と付き合えって? ごめんだね。俺は君が大嫌いだといったはずだ。君みたいな自分のことしか考えられない子と付き合うなんて、まっぴらだ」
「なんですって!?」
花蓮は怒りで真っ赤になった。
二度も恥をかかされたのだ。春火は全く悪くないと胸を張って言えるが、そんなことは勿論彼女には関係ない。
「お高くとまってんじゃないわよっ!」
花蓮の声が教室に響いた。
開いていたドアや窓からなんだなんだと野次馬が集まってくるほど大きな声だった。これには春火も呆気にとられた。
殴られるか……と思いきや、花蓮は不敵に笑った。
「後悔しても知らないから」
その日はなかなか寝つけられなかった。
次の日からぴたりと虐めは止まった。そして不思議なことが起こるようになる。
ふと気づくと視線を感じるようになったのだ。今までのねっとりとした視線や嫉妬の交じったもの等、いつもの視線ではない、もっと別の視線だった。
何だろうか?
視線だけでなく、階段を下りていたら、誰かに突き落とされたこともあった。
とっさに手すりを掴んだので難を逃れたが、気味が悪いことに春火以外誰もいなかった。
それ以降も気味の悪いことは続く。
手を引っ張られたり、足を引っ掛けられたり、決まって春火が一人でいるときに起こるのだ。何故こんなことが起こるのかさっぱり分からなかったが、花蓮が関係している気がした。
だが、そう時をおかずして春火の疑問は解決されることとなる。
ある日、春火は屋上に足を運んでいた。
虐めがなくなったとはいえ、急にクラスメイトと仲良くなれる筈がなく、昼休みは屋上で過ごしていた。
富裕層の生徒たちはオープンテラスのある食堂に行くことが多いため、屋上に来ることは滅多にない。屋上を憩いの場として集まっている一般家庭の生徒たちには春火を敵視している生徒はほとんどいない。ということで春火にとっても憩いの場となっていた。いつ行ってもまばらではあるが人がいるので安心していた。
簡単な昼食をとり、転寝をしようとフェンスにもたれると、頭上から声を掛けられた。
「あの……」
目の前には見知らぬ女子生徒。
同じ学校の生徒ということ以外何も分からない面識のない子が春火を見下ろしていた。相手は自分を知っているようだ。何だろう、と首を傾けていると、女子生徒が手に持っている物を見てギクリと体を強張らせた。
女子生徒は手に可愛くラッピングされたクッキーを持っていた。
そのクッキーと女子生徒の真っ赤な顔を見て、女子生徒が何をしたいのか春火は瞬時に理解した。
「あの……私のこと知らないと思うけど……私、隣のクラスの者で、そのう……」
頬を赤らめ、もじもじしながら熱っぽい目で春火を見ている。
自分が虐められていることを知らないわけではないだろうに。勇気あるな、この子、と呑気に感心した。
そのとき、ひんやりとしたものを肩から感じた。氷に触れられているような――反射的にぶるっと体が震える。
不審に思って目を向けると、青白い手がのっかかっていた。
「え?」
なんで手が。でも自分はフェンスによりかかってて、後ろに誰かいるはずもなくて……。
後ろを見ようとした瞬間、春火は金網ごと後ろに引っ張られていた。
ガゴンっ。
「なっ!?」
フェンスにギシギシと押し付けられて痛い。ものすごい力だ。肩がちぎれるんじゃないかというぐらい。
肩を掴んでいた手をなんとか振りほどき、反対方向に走って振り返る。
金網の一部が凹んでいて、外れかかっていた。
下手をすれば大参事になっていたかもしれない出来事に、あたりは騒然となる。
避難する者、教師を呼びに行く者、騒いでいる生徒たちをよそに春火は信じられないといった顔でフェンスを見ていた。正確にはフェンスの先にあるものを。
誰だ?
そこには女の子が立っていた……というより、宙に浮いていた。
春火と同じ学校の制服を着ていたが見たことのない女の子だった。何か歪な、人の形をしているのが不思議な女の子だった。
口角は上がっており、目が細まっている。とても嫌な、とても気持ち悪い笑顔だ。春火はこの顔に見覚えがあった。
花蓮だ。
人が苦しんでいるのを眺めているときの顔だ。
しかし花蓮そっくりというわけではない。一部だけ――どこが、とはっきりとは言えないが、なんとなく花蓮に似ていると感じた。
くすくすくす。
女の子は小さく笑ってそのまま消えた。張りつめていた空気が飛散する。春火はそのままへたり込んだ。
「おい、大丈夫か、おいっ」
気が付くと数人の上級生らしき生徒たちが自分を心配そうに見ていた。ついさっき春火にクッキーを渡そうとしていた女子生徒は腰を抜かして座り込んでいる。大丈夫か、と皆口々に春火を心配したが、誰も女の子には気付いていない。
その後の行動は無意識によるものだった。
春火は走って教室に戻り、カバンをひったくってそのまま教室の出入り口へと向かった。その際、クラスメイトと談笑していた花蓮と目が合い、彼女は酷薄な笑みを春火に向けた。花蓮が春火に何か言葉を発した。
離れていたので聞こえなかったが、ぱくぱくと動かす口の形から、
『ば~か』
頭にカッと血が上り、目の前が真っ赤に染まる。
怒りで花蓮を殴ってしまいそうになったが、グッと我慢して教室を飛び出す。もう学校どころではない。花蓮の勝ち誇った顔に頭がおかしくなりそうだ。
家に向かう電車の中で必死に頭を回転させた。
――虐めは終わっていなかった。
無我夢中で電車に乗るまでの間、走っているのに後ろからヒタヒタと後をついてくる音がしていた。
絶対にいる……。
おそるおそる外に目を向けると、窓ガラスに先程の女の子が映っていた。勢いよく後ろを振り向いたが、何だよ、と怪訝そうな顔をしたサラリーマン風の男性しかいない。
あの時の――肩を掴まれた瞬間氷のような冷たい感触がまだ体に残っていた。人の手とは思えない冷たさだった。
まるで死人のような――、指先が震えた。
――生きている人間じゃない。ということは、つまり……というかやっぱり…………。
――化け物――幽霊――といわれる『何か』――。
恐怖でガタガタと体が震えだし、冷や汗がとめどなく流れる。
どうすりゃいいんだよ、あんなもの!
夢だと思うにはリアルすぎた。
掴まれた肩をごしごしとこする。
なんでこんなことになったのだろうか。
あの顔から花蓮がやったことだというのは分かった。だがあんなものに手を出すなんて信じられない。
花蓮の余裕はあれのせいか、と納得した。たしかにあれならどうにかできそうにない。花蓮を疑ったところでどうにもできない。
しかし、あんなものどうやって?
最近クラスでオカルトが流行っていたが……あれ絡みなのだろうか?
どれだけ大人ぶっても所詮は子供ということで、誰かが持ってきたその手の本に皆興味を示し、色々本を見ては試しているクラスメイトがいた。勿論みんな遊びのつもりなので少しも信じていない。暇つぶしだったはずだ。それだというのに。
非科学的なことは信じない春火だったが、実際に体験してしまっては否定することはできない。あまりのショックでいっそのこと死んでしまおうかとも思ったが、なんとか思いとどまった。
自分は悪くない。
こんなことで死ぬなんて、亡くなった母に申し訳たたない。父も悲しむだろう。後を追うことも考えられる。
父に相談というのも、身内絡みでそれなりに権力はあるらしいがやめたほうがいいだろう……泥沼になる気がする。
ならどうするか……花蓮に謝罪するか?
それも何の解決にもならない気がした。転校も考えたが、その場合、父に理由を話さなければならない。
そしたら――、
物騒な考えも浮かんで、頭をふった。
いや、そもそも花蓮個人ならともかく、あの気味の悪いものが相手となるとどうしようもないではないか。
生きている人間ではないのだ。
花蓮を怒らせてこんなことになったのだから、花蓮をとっちめても何も変わらない気がする。
さっきは危なかった。
あのとき逃げなかったら屋上から真っ逆さまに落ちて死んでいただろう。もしも、のことを考えてぞっとした。
このままでは殺される!
顔から血の気が引いた。
――こんな、こんな顔じゃなかったら。
今まで意識して口に出さないようにしていた言葉が頭の中に浮かび、すぐに母に対する罪悪感でいっぱいになった。
その時。
ジャカジャカジャカ。
酷く耳障りな音がした。
外に目を向けると女の子と目が合ってしまうので、目を合わさないよう、ずっと俯いていたら気分が悪くなってしまっていた。だからなのか、音がする方に反射的に顔を向けていた。
顔を向けた先にいたのは、ひょろっとした体躯の男性だった。
頭にはヘッドフォンを付けており、かなりの音量で他の乗客からの白けた目に臆することもなく音楽を聞いている。肩には何か楽器の入ったケースを下げており、見た目もかなり奇抜な人物だ。
視線に気付いた男性が春火の方へと顔を向けた。男性と目が合ってしまい、春火は固まった。
――あっ。
――あれがあった……。
見た瞬間、昔母から聞いたある話を思い出した。
男性が不審を抱いた顔をしていたが、春火はそれどころではない。
春火の目は男性の顔に固定されていた。
春火は小さく「これだ」と呟いた。
そして――。
「いらっしゃいませ~」
「いらっしゃいませ!」
「どのようなものをお探しですか?」
「あ、あの! これ! これやってみたいんですけど! これ用の化粧品ってありますか?」
「はい?」
春火を見て美少年!! と認識するやいなや、店員が無駄のない動きで即座に春火の元へとやってきた。だが、目の前に出された物を見て目を点にした。
見せられているのは一冊の音楽雑誌。春火がここに来る道中本屋で買ったものだ。
「え? え?」と雑誌と春火を交互に見る店員から信じられないといった声があがる。
「へ、へヴィメタル?」
春火が頷くことで肯定を示すと、店員は狼狽した。
我ながらアホだとも思ったが、要するにこの見てくれが悪いのだ。色目使われるわ、嫉妬されるわ、逆切れされるわ……碌な目に遭わない。
付き合いたくもない奴と付き合うはめにもなるし。
もううんざりだ。
なら、この見た目をどうにかするしかない!!
――ということになったのだ。
昔母がしつこい男を諦めさせるためにいかついメイクをしたと話していたのを思い出したのだ。
自分の顔に執着していたようだったので、某映画の悪役のメイクをして会うと、ぽかんとした顔をされたという。あの時の顔は傑作だったと母は笑っていた。根本的には何も解決していないのだが、相手に自分の意思を思い知らせる手段としてはよかったと話していた。
その時の母と今の自分とでは状況が違う。
でも花蓮にも通用するのではと思った。こんなアホなことをする男を相手にするとは思えなかったのだ。
虐めが悪化する可能性も考えたが、今は無視した。今のままだと花蓮の前では強がるのも難しい。絶対に屈しないという意思表示にもなるだろう。
女の子は後回しにすることにした。
非科学的な物に対する対処法なんて思いつくはずがない。
「え――と、失礼ですが……よろしいので」
「はい」
「あの、ですが、しかし――」
「これがいいんです」
「お客様の(素晴らしすぎる)お顔が――」
「これがいいんです」
「あ――」
「これがいいんです」
「………………はい、かしこまりました。少々お待ちください」
春火は客ということで面と向かってやめてくれとも言えず、それならと店員たちは「こっちのメイクはいかがですか」となんとかして春火に考えを改めさせようとした。春火はそれらを愛想笑いで受け流しつつ、ふと視線を感じて後ろを振り向くと、顔を不愉快そうに歪める女の子が目に入り、急いで店をあとにした。そのとき、店員が「もったいない」とか、「ショック~」と、ヒソヒソと話していたが、勿論無視した。
家に帰る途中、ピアスやついでに革のチョーカーも購入した。髪は色々試して金髪に染めようとしたら父に「春美(母)譲りの綺麗な黒髪があ!!」と泣かれてしまったので、面倒臭いが洗い流せるタイプのスプレーで染めることにした。
父からはしつこく見た目を変えることになった理由を聞かれたが、イメチェンとだけ言って無理やり納得させた。
――その夜。
学校で起こったようなことはなかったが、夢の中で春火は女の子に追いかけ回されていた。笑いながら暗闇の中を追いかけられた。
キャハハハハ。
青白い手が延ばされ、首を掴まれ、
「うわっ」
あまりのことに飛び起きた。近くにただならない気配を感じ、その日は徹夜となった。
そして次の日。
本を見たり、ネットで見たりと悪戦苦闘しながらもなんとかメイクをして学校に行くと、学校は騒然となった。
クラスメイトは勿論、他のクラスの生徒も、上級生も、遠巻きに春火を見てはヒソヒソと話した。
当の花蓮はというと、あんぐりと口を開けて春火を見ていた。が、我に返ると爆笑しだした。
腹は立つが、まあ、当然の反応だろう。
他の生徒も笑い出すかと思いきや、誰も笑わなかった。花蓮とその取り巻き以外、他の生徒は真っ青な顔をしていた。何故か泣いている子もいた。担任からは今すぐ辞めるよう言われたが、「虐めを避けるためです」と言ったら顔色を変えてあっさり承諾された。
春火はどんなに笑われても、表情一つ変えずにただ黙っていた。
花蓮が「馬鹿じゃないの!?」と罵ってきても無視した。
花蓮は春火が謝罪するのをひたすら待っていたようだ。それは春火も分かっていたのでずっと黙っていた。すると次第に絡まれなくなった。
やはり見た目か、見た目なのか。春火はうんざりした。
当然この顔はかなり恥ずかしかった。
しかし見た目を変えた途端、告白されることはなくなり、やたら注目を浴びることはなくなった。変な意味で目立ってはいたが。
実は、一度だけメイクなしで学校へ行こうとしたこともあった。
花蓮に絡まれなくなり、たまにはいいだろうと、いつものメイクをせずに外へ出ると、見知らぬ女性に追いかけられた。花蓮と付き合いだす前はたまにこのようなことがあったのだが、いろいろあったので完全に忘れていた。
なんとか撒いたあと、試しにメイクをした状態で再び女性の前を通りかかると、素通りされた。少しも春火だと気付いていないようで、近寄りたくないのか完全にいないものとして扱われた。
呆れたが、このメイクの効果は絶大らしい。
再びメイクをして外に出ることが習慣となり、メイクをすることが身を守る手段として定着した。
もう、中学卒業するまでこのままでいいかな、と開き直ってしまっていた。
虐めはなくなったが、女の子は春火に憑いたままだ。
屋上での件以来、何故か学校に現れることはなかった。家にいる時だけ頻繁に春火の前に現れた。おかげで夜眠れなくなり、学校で、というより家の外で仮眠を取ることが習慣になってしまっていた。
そして現在――。
……?……。
……………………???………………ガボッ。
苦しい…………?
「うっ!?」
春火は水の中にいた。
深く湖の底に沈んでいるような感覚。
春火は仄暗い底から無数に伸びる手に引っ張られていた。細い手の割に物凄い力で体を掴まれ、引きはがそうとしてもびくともしない。
当然パニックになる。
息がっ……やばいっ……死ぬっ!!
意識が遠のきそうになって、
「春火!!」
「………………あ……え?」
気付いたら目の前に父がいて、春火はいつの間にか風呂に入っていた。服着たままで。
「ゴホッゴホッ……え……………………ふ……風呂?」
「春火大丈夫か!? 病院に! いや、それより救急車を――」
「あ……だ、だいじょう……ぶ……」
「ほんとに大丈夫かい? 驚いたよ。出前が届いたから呼んでも返事がないし。風呂から声がしたから何かと思って来てみたら溺れてるし」
いつの間に自分は風呂に入ったのか。しかし、溺れたというか、あれは……。
息子が呼吸を整えるのを見て安堵した父は風呂の中をきょろきょろと見回した。
「どうしたんだよ?」
「……春火一人だよな?」
「え? 一人だけど……」
「いや、女の子の声が聞こえたからさ……誰かいるのかと思って。でもいないし、父さんの気のせいだったか……」
「……」
嫌な予感がして、視線を下げて「ひゅっ」と息をのんだ。
お湯の中には女の子がいた。
女の子はニヤリと笑うと、そのまま沈んでいって消えた。
幸春には女の子が見えていないらしい。春火の視線の先を不思議そうに見ている。
花蓮とは中学を卒業してから会うことはなくなったが、それでも女の子は引っ越し先にも憑いてきた。原因であろう花蓮は未だ根にもっているのだろうか。
まさか俺が死ぬまで……なんてことはないよな。
折角温まっていた体が震えだす。
試験が終わったというのに、家で寛ぐこともできない。
学校が始まる月曜までこの女の子と付き合わなくてはならない。
今日も徹夜か……と春火は溜息をついた。