#13
雨の季節にさしかかった未雨月。僕とアイラはダリデ海を横断する船に乗っていた。二つの大陸に囲まれたこの海は、ルディアの南側に面している。謡う伽藍への依頼で、ダリデ海に点在する島の一つ、キース島への生態調査に向かっていた。
曇天の中、僕とアイラはあてがわれた船室で寄り添って座っていた。僕にもたれかかるアイラの体の重さが心地いい。疲れていたのか、眠ってしまったアイラを起こさないように、僕は本を読んでいた。
《ニーナの人形理論》を記した原典の複写、それを蓄積する本の蔵に取り込んで、なんとか読破しようと四苦八苦している。あれから、先生に対する怒りも何もかも失った僕は、本来の日常を取り戻し、安穏と過ごしている。
結局のところ、僕が感じていた直感による警鐘は、先生と契約を結んだあの日から感じなくなってしまっていた。やっぱり、僕は無意識のうちに先生を疑っていて、だからこそ先生の真意が見えないうちは、言いようのない不安を感じることしかできなかったんだろう。先生を恐れていた。端的に言えば、そいういうことだ。
契約によってなぜだか僕が貰い受けたセイカも、エドもメディも、今はいない。セイカはルディアの新しい部屋で留守番。そして、エドとメディはヤクーナの森に現れた狼の群れの退治にかり出されている筈だ。基本的に四人一組で依頼を受けるとはいえ、例外もある。あくまで基本は基本らしい。復帰したウェミルさんの隊に、二人が加わっている形だった。
それで、暇になった僕とアイラが比較的簡単な調査依頼を受けて、こうして船に乗っている。
平穏な日々だった。何もかもが元通りというわけではないけれど。
僕の心はずっと楽になっていた。
罪悪感が消えたわけじゃない。今でも、妹に会いにいこうとは思えない。僕は臆病だ。けれど、死にたい気分になるまで落ち込むようなことは減ったし、少しずつ前向きに、たとえば剣を鍛えたり、こうして知らない土地に出向いたりしている。一ヶ月前の僕には考えられないことだろう。
結果的には。
そして、僕にはこれが全て、先生の策略だったように思えてならない。そもそも、先生がスクロールを手に入れたとしたら、入手場所はルディアの地下迷宮のはずだ。あの日、僕が先生からポラリス荒野宛のフィールドワークの依頼書を受け取った次の日の朝、先生は埃っぽい土の匂いを纏って、転移呪文で現れた。あの匂いは……確証はないけれど、地下迷宮の匂いなんじゃないだろうか。
だとしたら先生は、ポラリス荒野のことを知ってからスクロールを手に入れたことになる。スクロールを手に入れたから実行したなんて言っていたけれど。本当は、僕を見かねての荒療治だったのではないか。そう思えてくる。
それで何人ものヘイムギルの人が死んで、アイラは腕を失って、エドやメディも危険にさらされたのだから、たまったものではないけれど。
それにもう一つ。セイカのことだ。
暗殺者にトレアの殺害を依頼した時、事細かに指示を出したと言っていた。僕やエドたちを殺さないことや、トレアをいつ殺すのかといったことを含んでいるんだろう。それはつまり、暗殺者に僕たちの情報をあらかじめ教えておく必要があったことを意味している。だから、暗殺者が妙な気を起こして僕たちを狙っても守れるように、セイカを僕につけた。
暗殺者のことがないとしても、たくさんのイレギュラーがあり得ただろうと思う。そういったイレギュラーに対応するためにセイカがいた。セイカとトレアの仲がよかったのは最初から仕組まれていたことだった。というのは、少しこじつけすぎるかもしれない。
セイカとユウさん。
ーー私がそのような役割だからと言いますか。
ーーいえ、血の繋がりはないですが、系譜の繋がりがあるのですよ。
あの二人も、先生の人形だった。そういうことだ。
「ほんと、どこまで考えてたんだか」
一体あの人の頭の中はどうなってるんだろうか。エリーゼが王の断片について知らなければ、僕は先生が全ての黒幕だと気づくことができなかったに違いない。
「ん……うぅ……?」
アイラが身じろぎして、うっすらと目を開けた。ぼんやりと僕を見たかと思ったら、両腕をふらふらと伸ばして僕に抱きつく。じっと目と目を合わせて、アイラが首を傾げる。
「ロイ、何考えてるの?」
「先生のこと。あの人、本当に食えないなと思って」
「私、あの人嫌い」
言いながら顔をこすりつけてくるアイラ。猫みたいだ。作り物の右腕と、生身の左腕に、僕はされるがままになる。アイラの右腕は誰が見ても普通の腕にしか見えない。本当に、恐るべき技術だ。もうちょっと人形っぽい腕でも、背徳的な良さがあるかもしれない。……いや、まあ、うん。
それはいいとして。
「でも腕のことは感謝してるけど」
「そうだね。正直、今もアイラの腕が元通りじゃなかったら、僕はどうなってたか」
「多分だけど、意外と平気だよ、ロイは」
アイラがさらりととんでもないことを言う。
「なんで?」
「イリアの目のときも、動揺してたし辛そうだったけど、結局、ルディアに逃げてきただけだから。ロイは辛いと逃げちゃうもんね」
辛辣な評価だった。事実なので何も言えないけど。
でも、こういった辛辣なことをアイラが言ってくれるようになったことも、僕たちの関係が改善したからだ。
「ねえアイラ」
「ん? なーに」
「今度、一度故郷に帰ってみようか。妹にーーイリアに会いに。で、怒られに」
「私は怒られるのは嫌」
ですよねえ。いや、うーん。なんと言ったものだろう。
「一人だと心細いからさ。ついてきてほしいんだけど」
そう言ってお願いすると、アイラは一度体をはなして僕をみる。そして、にへらと笑う。
「そこまで言うならいいよ。ついていってあげる。
村に帰るの、ひさしぶりだねー。みんな元気かな」
「元気かな。といっても、僕、村の人で今でも顔を覚えてるの、アイラの両親くらいなんだけどね」
「えー。ロイっては薄情」
「いや、暇だったのって僕たちくらいじゃん。小さい頃だったし」
「そうだけどー」
アイラが楽しそうに僕に引っ付く。僕はされるがままになる。こんな風に楽しそうにしているアイラを見るのも、ここ最近になってからだった。いままでは、僕を抱きしめるときも、どこか悲しそうというか、沈んでいたような気がする。最近はそういった感じが無くて、随分明るくなった。
僕は、アイラを抱きしめても、妹のことを思い出さないことが増えた。それに、アイラを抱きしめ返すこともできるようになった。
「ロイ」
「なに?」
「好きだよ」
「ああ、僕も」
「幸せだよ」
「僕もだよ」
「あんなに私を嫌がってたのに?」
「あの時はほら、僕がアイラを受け入れるの、間違ってるって思ってたから」
「今は?」
船の中。僕は誘うような表情で尋ねるアイラを抱きしめて、小さく呟いた。
「ーーーー」
THE IMITATION is Broken.
To Be Continued...