#12
「あなたのそういった歪みを見て、無理矢理叩き直してみようかと思ったのは本当よ。とはいえ、それはあなたのためではなくて、私が見て楽しむためなんだけどね?
ちゃんと保険も打ったじゃない。あの石だけじゃないわ。他にもいろいろと」
僕が炎の眼を使って自殺しようとした時、僕の命を守って砕けた石。あれは元々、ヘイムギルに向かう前にお守りとして受け取ったものだった。竜を魔女がけしかけた以上、あのお守りは、僕を竜から守るために渡したものだったということになる。
「セイカだって、暗殺者があなたもろともトレアを殺そうとした時に備えて、わざわざあなたを守るように指示しなおしたのよ。あの子の守護する対象を書き換えるのは、ちょっと面倒なのよーー」
あの日。神殿でセイカに食われようとしていた黒い影。あれは、トレアを殺した暗殺者だった。
「でもまあ、あなたの怒りはもっともね。私だって、あなたくらいの年齢だったら怒ってたと思うわよ。そうねーーだから、ここは魔法使い同士、契約を交わしましょう」
「あーー? 契約? 誰がおまえとそんなものーー」
「内容だけでも聞きなさいよ。感情は感情、会話は会話、よ」
「黙れよ。なんで僕がお前とーー」
「一つ目の譲歩は、アイラちゃんの腕よ」
魔女が言い放った言葉に、耳を疑う。アイラの腕が、契約における譲歩……?
「……どういうことだ」
「あら、私との契約に興味はないんじゃなかった?」
「黙れ。答えろ。アイラの腕ってのは、どういう意味だよ」
「簡単なことよ。私が人形製作の技術と魔法を使って、アイラちゃんの右腕を作ってあげるわ。それをくっつけてあげる」
「く、くっつけるって……そんなこと、できるわけが」
なんだよくっつけるって。余りにも軽い言い方に目眩がする。
「本物の魔法使いの前で、『できるわけない』とか『ありえない』とか、そういう種類の言葉は言わない方が良いわよ。かっこわるい。
まあ、完全に元通りとはいかないでしょうけれどね……。弓の技術は数段落ちるとは思うけど、使えるようになるってだけでも、あなたにとっては嬉しいことなんじゃない? これは、多分あなたがアイラちゃんの腕に対してできる、最も良い贖罪よ」
それはーー悔しいが、その通りだった。
どんなに言葉を重ねて謝ったところで、どんなにアイラが僕を許したって……結局のところ、失われた腕は戻らない。戻らないから、罪の償いようが無い。いや、償う方法なんていくらでもあるけれど、僕の問題は償いじゃない。アイラの腕を見るたびに、きっと僕は後悔に苦しむ。この先、永遠に。そして、苦しんでいる僕を見て、アイラもきっと苦しんでしまう。
アイラは優しいから。
「魔法使い同士の契約だものね。その技術を差し出すのは、いわば礼儀のようなものよ」
魔女は僕のことなんて気にもかけない様子で、言葉を続ける。
「そしてこの技術のかわりに、あなたは私にこれまで通りの対応をすること」
「これまで通りの対応……?」
「そうよ。簡単な話よ。あなたは私の悪戯に気づかなかった。たまたま私の研究内容を知っただけで、王の断片のスクロールのことも、トレアを私が作った理由も、竜の仔をさらったことも、暗殺者ギルドと関わりを持ったことも、何一つ気づかなかった」
「ふざけるなよ。そんなことで僕の怒りがーー」
「あなたの怒りなんてどうでも良いーー。契約が成立すれば、その怒りなんて意味がなくなる。どんなに内心で怒りを煮詰めていてもね……。これは、そういう契約よ」
いつの間にか、動きを封じられた僕の正面に魔女が現れる。転移魔法だ。現れた魔女は、その手に黒い紙を持っている。白く厚みのあるインクで文字が書かれ、意匠が施されたその紙は、どうやら契約書のようだった。
「ティロネの契約魔法よ。この契約は、契約に違反する行動に繋がるような感情を排除し、契約に従う行動を促すような感情を増強するわ」
感情操作の魔法。しかも、契約書ということは、効果が切れるまで永遠にそれが有効になる。
「ああ、それと、セイカもあげるわよ。弄くって壊すなり、愛玩人形にして愉しむなり、好きにしたら良いわ」
背後の魔女がそう僕の耳元で囁くと、黒い契約書に一文が書き加えられた。
「そうね、その代わりに、卒業までは研究所の掃除をお願いするわ。私、整理整頓は苦手だけど、雑然としているのも好きじゃないのよ」
魔女は嘘みたいな条件を追加する。四つの契約条項が書かれた黒い契約書。正面の魔女が突然指を持ち上げ、指先が落ちた。血がどろどろと流れ始める。痛がる素振りも見せずに、魔女は契約書に血判を押す。
「さあ、ロイ、これであなたの怒りは静まり、アイラの腕は元通りよ。全てがこの契約書によって解決するわ。私は秘密を、あなたは感情を、それぞれ相手に差し出す契約よ」
息を呑む。真っ黒い契約書が、そこに記されたその記述が、無機質な圧力を放っている。考えろ。この契約は、交わすべきか、交わさないべきか。この魔女は油断ならない。罠が隠されている可能性がある。ーーいや、そもそもこうして悩んでしまっている時点で、僕は既に術中にはまっているようなものなんだろうけれど。
でも、アイラの腕が戻ってくるのなら、これは安い契約じゃないか?
怒りは既に燻っていた。確かに僕は魔女を許せない。トレアのことだって、許すことはできない。でもーーアイラの腕と引き換えならば、そんなものは全部どうとでも飲み込める。こんな契約書の感情操作に頼らなくても、アイラの腕のためなら、僕自身の怒りなんてどうでもいいことだ。
ここで魔女を殺しても、アイラの腕は戻らない。そもそも、僕にはもう魔女を殺す手段がない。完全に動きを封じられてしまっている。だとしたら問題は、殺されるか、契約を結ぶかのどちらかだ。
そして、どちらかしか選べないのなら、答えなんてもう決まっているようなものだ。
「この契約書は、お前の人形一体じゃなくて、全てと僕とで契約することになるな?」
「ええ、もちろんよ。それも条項に書き加えましょう」
魔女の言葉に従って、黒い契約書に五つ目の文が書き加えられる。
「血判を押した後で項目を書き加えても有効なのか」
「あなたの血判によって契約書は効果を発揮するわ。だけれどまあ、気になるなら作り直しても良いわよ?」
「いや、いい」
魔女はあくまで誠実だった。僕が一人で怒って、一人で騒いでいるだけ。この魔女は、本当にただの悪戯で、トレアを生み出し、竜をけしかけ、何人もの命を奪い、僕に炎の眼を使わせ、アイラの腕を吹き飛ばし、セイカを僕に差し出そうとしている。
害意がない。
けれど、どこまでも悪意に溢れている。
僕は息を呑む。そして、口を開く。
「この契約、飲んでやる」
ニタリと笑う魔女の口元が見えた。
そうやって、僕はこの日、紫色の魔女に敗北した。