#10
魔女の表情は、いつの間にか変わっていた。楽しそうに笑う。胡乱気な視線も、憎々し気な空気も、どこかに消えてしまっていた。まるでそんなものなかったとでも言うような態度で、魔女は笑いながら僕を見ていた。楽しそうに。嬉しそうに。まるで僕が、魔女の研究テーマを当てたときのような笑顔だった。
出来のいい答案を褒めるような。
美しくし上がった人形を眺めるような。
そんな顔。
そんな目。
「そうね、トレアをポラリス荒野に派遣したのは私よ。そして、暗殺者ギルドに彼女を殺すように頼んで、まあ、細かい指示も出したわね。けれど、そこまでよ。ヘイムギルの竜のことを私と結びつけるのは、ちょっと強引ね。何の脈絡もないことじゃない」
「まあ、そうですね。あの竜のことは、確実に誰かの意図によるものですけれど、あなたがやったとは言い切れない。それについては、その通りです。第一、方法の問題もあります」
「方法の問題?」
「ええ、方法の問題です。竜の仔をヘイムギルに一瞬で送り込むなんて芸当、あまり出来る人はいませんからね」
左腕に握った瓶を取り出して、床にぶちまける。《コクーンの拘束陣》。繭が解け、魔女を取り囲むようにふらりと顕現し、ぐるぐると椅子ごと拘束する。突然の魔法に困惑する魔女の顔まで、真っ白な糸で隠れて見えなくなった。
死に別れぬ者の剣を抜いて、まっすぐに魔女の首めがけて振るう。届けばおそらくは即死の刃。そして僕の刃は、魔女の首を切り裂いた。
いや、首のあった場所と、魔女を拘束していた糸を、だ。
「突然あぶないわねぇ」
からかうような声音が、背後から聞こえる。魔女の声だ。
「一体どうして突然、私に切り掛かってくるのかしら? 私じゃなかったら死んでたわよ」
「あなただから死なないだろうと思ってたんですけどね」
僕は振り返って死に別れぬ者の剣を向け、魔女を睨みつける。糸まみれで拘束されたはずの魔女は、僕の背後に悠然と立っている。
「今のでやっと確信できましたよ。あなたは転移呪文を使うことができる」
「うふふ、そうね、その通りよ。よくできたじゃない、ロイ」
《コクーンの拘束陣》。繭の糸を顕現して、特定の空間にいるモノを縛り付ける魔法。虫の糸は強く弾性があり、拘束された側は簡単にそれを破ることができない。しかし、炎や刃には弱く、相手を拘束した上でさらに攻撃を仕掛けるには使い勝手の良い魔法だった。僕では実際に繭を使ってイメージを補完しなければ使えないけれど。
そして、《コクーンの拘束陣》から外側の糸を破ることなく僕の背後に移動したその手段は、転移呪文。
「転移呪文が条件なんですよ」
「条件? 何の話かしら」
「竜の巣には争った痕跡がありませんでした。竜の仔を攫ったとしたら、普通の方法なら竜を殺すか、少なくとも戦闘不能にする必要がある。けれど、そもそも争った痕跡が無いのならば、竜の仔を攫ったその手段はおそらく転移呪文でしょう。他にも方法は考えられますが、一番ふさわしいのはそれです」
「ふうん? だとしたらあなたは、私が転移呪文を使えるから、従って私が竜の仔をヘイムギルに送り込んだとでも?」
「その可能性が高いという話ですが、ひとまず転移呪文が使えれば、竜の仔をヘイムギルに送り込むことは容易でしょう。ポラリス荒野にトレアを置き去りにすることも、きっと簡単だったはずだ」
ポラリス荒野までトレアを送り届ける。よく考えればこれも、なかなかに難易度の高いことだ。魔女がフィールドワークの行き先を知った二日後の朝に、僕はポラリス荒野に向かってルディアを発っている。そして、前日の朝に僕と魔女は顔を合わせてもいた。ルディアからポラリス荒野までは、朝が昼になる程度の時間が必要だ。間に合うかどうかギリギリだけれど、転移呪文が使えればその問題は解決する。
「けれどあなたの言うことは不思議ね。転移呪文程度、使える人はちゃんと使えるわよ? 所詮呪文なのだし。確かに魔法的要素の多い呪文だけれど、手順と適切な訓練を行えば、誰でもとは言わないまでも、そうね、千人に一人くらいは使えるわね。
まさか、転移呪文が使えるというだけで、私がヘイムギルに竜をけしかけたなんて断定はできないでしょう?」
「もちろんです」
僕は頷く。そもそも、転移呪文でも使えなければ竜と争わずに竜の仔を攫うことが難しいというだけで、この魔女には竜をけしかける理由が一つあると僕は思っていた。
「そもそもどうして竜なのか、という問題だと思うんですよ。強大な生物です。生命の王とさえ比喩され、圧倒的な膂力を誇り、街一つなんて簡単にぼろぼろにしてしまう。怒り狂えば熟練の討伐者さえ命を落とす相手です。けれど、それくらいでなければならなかったんです。
あなたがトレアを使って僕にスクロールを渡したのは、僕にこのスクロールを使わせたかったからだ。僕がスクロールを使わなければ妥当し得ない相手として、あなたは竜を選んだ。ご丁寧に保険まで付けて」
ーーそれ、持っておきなさい。お守りよ。
そういって渡された濁った色の石は、結局はエドと一緒になって僕の自殺を止めたのだけれど。それでも、あれを受け取ったのはヘイムギルに出かける前だ。だとしたらあの時、竜の炎を真っ正面から受けたとき、メディが守ってくれなかったなら、きっとあの石が発動していたに違いない。
「あなたの目的は、僕にあなたの意図を知られること無く、炎の眼のスクロールを使わせることだった」
違いますか、と。僕は魔女に問いかける。
ここまでだ。僕が用意できる材料は、ここまで。どれも決定的なものではない。魔女の意図を断言できるような材料では、残念ながらないのだ。ここまでで、それでもはぐらかされたら、そのときはもうどうしようもない。
僕の懸念とは裏腹に、魔女は嗤った。
「あは」
哄笑した。
「あはははははははははははははははははははははははははははは!」
ぞわぞわと悪寒が背中を走る。恐怖。剣先がかすかに震えていることに気づいた。楽しそうに愉快そうに口を開けて嗤う魔女。けれどモノクルの奥に見える瞳は、無機質な光を宿しているように見えた。表情と瞳のギャップが僕の神経を撫でる。
「理由は、なんですか」
僕が必死に声を絞り出すと、魔女はピタリと嗤うのをやめた。
「理由はなんですか、僕に炎の眼のスクロールを使わせた理由。どうしてここまでして、僕に?」
「理由なんて、決まってるじゃない」
魔女は年不相応に、少女のようにはにかんだ。
「これで私の研究に興味を持ってくれたんじゃ無い? |トレア[イミテーション]は妹さんによく似ていたでしょう?」
あなたの顔を真似て作ったのだけれど、と。
そこまでだった。
もうダメだった。プツンと、頭の奥で何かが切れて、心臓の下からどくどくとわき上がる衝動を、僕は押さえ込むことをやめた。心臓から、首を伝って、頭に届く衝動の波が、視線の向こう側に具現化する。寒気も恐怖もなにもかも、すでに感じてはいなかった。
「滅べ」
空気が揺らぎ、魔女の体に火がついて、一瞬だけ輝き、消し炭になった。