#4
目を覚ますと、アイラがいた。寝室は別なのだけれど、たまにこうして、僕の寝室に入り込んでいることがある。どうやら僕は抱きしめられていたらしい。アイラの匂いを感じて、心が落ち着く。
僕の本能的な部分には、本当の罪悪感など、ないのだろう。そのことを、僕の記憶が責める。
アイラの緩やかな拘束をほどいて、起き上がる。ベッドから出て体を伸ばすと、アイラが身じろぎした。
「ロイ……? ん……起きたの?」
「おはよう、アイラ。朝ご飯食べようか」
「……わかった」
そういってアイラももぞもぞと起き上がる。眠そうだ。アイラは朝が弱い。
「うー、ロイ、ギュッてして」
「わかった」
僕はそういって、ベッドに腰掛けるアイラの前に膝をついた。
高さを合わせて、抱きしめてやる。
アイラが僕の脇から、背中に腕をまわして、顔を僕の胸に押し付ける。匂いを嗅いでいるのかもしれないし、心臓の音を聞いているのかもしれない。
まるで、僕が生き物だと確かめるみたいに、僕の体を知覚しようとする。
僕も僕で、寝起きと同じように、アイラの匂いと、体の感触を感じていた。細身の体は、強く抱きしめると、僕の力でも押しつぶせそうだと錯覚してしまう。けれど、本当に強く抱きしめても、彼女の体はびくともしない。しなやかで、強い。
妹の弱々しい体とは対照的だと思ってしまった。
瞬間的に、僕はアイラから離れる。アイラは名残惜しそうな表情になるが、僕はそれを無視して、立ち上がった。
「朝ご飯、何が良い?」
アイラと一緒にいると、ふとした瞬間に妹のことを思い出してしまう。
そうすると、僕はアイラにそれ以上近づくことが出来なくなってしまう。額を寄せることも、抱きしめることも、僕のことを話すことも、アイラの話を聞くことも、できなくなってしまうのだ。
アイラと一緒にいることは、僕の本能にとって、とても幸福なことだ。アイラが身近にいることを感じるだけで、心が安らぐ。けれど、心が安らぐことが、同時に僕の精神を蝕む。
矛盾している。けれど、それは皮膚の下に埋め込まれた針なのだ。なでられると心地よいのだけれど、皮膚の下にある針は、僕を撫でた手にひっかかって、鋭く痛む。
「おいしいもの」
「わかった」
アイラの抽象的なリクエストにうなづいて、僕は寝室を出た。
僕が朝食を作り終わる頃にはアイラも着替えて出てきて、二人で食事した後、僕は自分の着替えを済ませるために寝室に戻る。寝室とはいえ、実際には自室を兼ねている場所で、僕の私物もほとんどそこにあった。鞄と部屋着と、外出用の装備一式くらいだけれど。
着替え終えて、二人で部屋を出る。
「今日はちょっと曇ってて、涼しくなってきたね」
「そうだね。少し寒い時期が続いたら、また鬼のように暑くなると思うと、いまからゲンナリする」
「あはは、ロイは暑いのが苦手だもんねー。でも、この分だと、明日は雨かなー。サーギアの方は雨は降らないだろうけど……」
サーギア地方は、明日のフィールドワークで向かう先で、この街から馬車で半日ほど行った場所にある。乾燥している地域で、明日の目的地であるポラリス荒野は比較的まともな気候だが、より内陸に行くと砂漠しかない。午後からフィールドワークをして、一晩泊まって、明日の朝には戻ってくるスケジュールだ。
「もしかしたら雨期に入ってるかもしれない。雨期だけは雨が降るから」
「だったらいいなぁ。私、暑いのは平気だけど、乾燥してるのはあまり好きじゃないから」
僕たちの部屋から学校までは、そう遠くない。学校とはいえ、ディルセリア魔法学園は街の各所に校舎や研究棟が点在しているため、正確にはロルクスの講堂か研究棟に向かうのだけれど。
僕もアイラも、今日は研究室にいる日だ。過疎化したニーナ先生の研究室と違い、アイラの研究室は大御所で、精霊に関する研究を行っているらしい。アイラの適正を考えると、最も順当な研究室だった。
「じゃあ、また夕方、待ってるから」
「待ってなくても良いんだけどね」
「えー、待ってるよ」
「僕を待つくらいなら、もっと有意義なことに時間を使えよ。アイラも論文書かないといけないんでしょ」
僕がそういうと、アイラは怒る。表情が険しい。僕を睨みつけて言う。
「私がロイを追いかけてここにいるの、知ってるくせに、なんでそんなこと言うのかなー」
心臓が刺されたような衝撃を受けた。
けれど、いつものことだ。
アイラといると、僕は罪悪感を感じずにはいられない。妹のことも含めて。僕は、妹だけでなく、アイラの人生も奪っているのだと思う。彼女は僕に甘い。だから、僕の愚かさを笑って許してしまう。
僕は表情を変えずに、アイラに応じる。
「わるかったよ。……じゃあ、僕は行くよ。また夕方」
「うん、またね」
謝った僕に微笑むアイラ。
笑顔を見ていられなくて、僕は彼女を視界から外した。
昨日と同じように研究室に向かうと、入り口に髪の長い女性が立っていた。見知った女性だ。先生の身内で、ユウとだけ呼ばれていた。妖艶な体つきをしている、健全な男子学生にとっては目に毒な女性。金髪に目の覚めるような青い瞳が特徴的な人で、顔立ちも大人びている。
「おはようございます、ユウさん」
僕が声を掛けると、彼女は振り返ってニコリと笑った。
「ロイくんですか。お早うございます」
「先生に用ですか? 研究室、まだ空いてないとか?」
「はい、そうなんです。だから、あの子が来るまで待っていようかと思いまして。昨晩は研究室に泊まると言っていましたから、朝ご飯を届けにきたんですが」
そういって、ユウさんは手に持ったバスケットを見せる。
あの子とはもちろん先生のことなのだけれど、先生とほとんど同世代に見えるユウさんが、先生のことを「あの子」と呼んでいると、なんというか、どちらが大人かよくわかる気がする。世話を焼く側と焼かれる側、というところだ。
ふむ。
せっかくの機会だし、聞いてみるか。
「あの、ユウさんっておいくつなんですか?」
ユウさんは上品にニコリと微笑んだ。
「ロイくん、私くらいの年代の女性に具体的な年齢を尋ねるのはタブーですよ。それに、聞かれても教えてあげません」
「ああ、いえ。すみません。先生とユウさんって、どちらが年上なんですか?」
「それはもちろん、あの子の方が年上ですよ。聞くまでもないじゃありませんか」
「へえ……それはわかりませんでした」
聞くまでもない、っていうほど年齢が離れているようにも見えないけれど。でも、ユウさんがニコニコ笑っているのを見ると、別に嘘をついているようにも見えない……気がする。僕がからかわれているので無ければ。
「でも、ユウさんって先生のこと、『あの子』って呼びますよね。普通、年上を『あの子』とは呼ばないと思うんですけど」
「ああ、それは……うーん、難しいですね。私がそのような役割だからと言いますか」
役割……? ちょっと良く意味が分からない。
僕が首を傾げていると、ユウさんはフォローするように言葉を続ける。
「それにほら、あの子は年上ですが、すごく幼いところが多いですので。身の回りのことがきちんとできなかったり、たまに感情的だったりして。悪戯も好きですし」
「へえ、悪戯好きですか。それは初耳ですね」
あの先生がする悪戯ってのは、なんというか、とても悪趣味そうだ。
「あら、ロイもユウも朝が早いわね」
声がしたので振り返ると、先生が立っていた。いつの間に。足音がしなかったぞ。固いタイルの床を足音を立てずに移動するなんて芸当、この人にできたのか。しかもヒールとか履いてやがる。
もしかしたら転移呪文でも使えるのかもしれなかった。先生は魔法使いの典型に漏れず、自分の使う魔法や使える呪文についてあまり話さない。
「おはようございます、先生。どこかに出かけてたんですか?」
研究室の鍵を開けるために先生が僕たちの隣を通った時、土のような匂いが微かにした。乾燥した匂い。本当に一瞬だけど、どうやら室内にはいなかったらしいことが分かる。
「まあ、ちょっと用事があってね。必要なものを取りにいってたのよ」
「必要なものですか? それにしては、荷物はないですよね」
「まあね。もう人に渡してきたから。それで用事は済んだのよ。……あら、ユウ、それは私の朝ご飯かしら」
「そうなんですよ。一緒に食べましょう、ニーナ。今日はチキンとチーズを使ったサンドウィッチです」
話しながら研究室に入っていく二人。棚に人体パーツの模型が並んでる場所でよく食事ができるな、と思わなくもない。辟易とする。まあ、先生は仕事柄慣れているだろうし、ユウさんも先生との付き合いが長いんだろう。
あの人達が何年の付き合いなのか、予想も想像もつかないけれど。
そんなことを考えながら、僕も研究室に入った。
魔法
魔法は、イメージの力によって現象を具現化するものである。呪文と違い、強いイメージ力が必要になる。また、イメージを補完するだけの体験や、精神的な適正が必要になる魔法も数多く存在する。例えば、精神が健康な者は、残虐な魔法を用いることが出来ないことがある。