#8
「あら、随分と久しぶりじゃない。目を怪我したとセイカから聞いていたけれど……それ以上に、なんというか、男前ね?」
扉を開けて入ると、そこはいつもと変わらない雑然とした研究室だった。特に変わった様子もない。強いて言えば、僕の使っている机の上にも、大量の本が山積みになっているところが、なんというか、時間の経過を感じさせる。
《ニーナ・テメノスの研究室》。ロルクスの実験棟の、三階の一番奥。エドと分かれた後、僕はその足で人の寄り付かないこの場所に赴いた。
紫色のドレスローブ。赤紫の瞳。モノクル。妖艶な体つきの美人。研究室の一番奥のテーブルで、にやにやと楽しそうに僕を見ている魔女。紫色の口紅に彩られた唇が、笑みに歪んでいる。
魔女を見て思う。とぼけた人だ。そして、食えない人だ。今となってはもう、人かどうかも定かじゃない。
「お久しぶりですね、先生。目は別に怪我をしていたわけじゃないんですよ」
僕は研究室に入り、扉を閉める。あらかじめ用意しておいた意味停止の呪文を指先で使って、扉を閉め切る。扉は扉として機能しなくなり、壁と変わらなくなる。呪文なので完全ではないけれど、これで人が入って来ることができなくなった。
「顔はどうしたのよ顔は」
「ちょっと自殺しようとして、その時に顔面に傷を負ったんですよ。傷のある男ってかっこ良くないですか?」
「……まあ、傷は男の勲章っていうけどね。自分でかっこいいっていうのは、結構かっこわるいわよ」
素っ気ない対応だった。けれど、まあ良い。僕も雑談をしにきたわけじゃない。
「それで? 聞かせてちょうだい。一体、話っていうのはどんなことなのかしら?」
僕は対峙する。紫色の魔女、ニーナ・テメノスと。
研究室のテーブルを挟んで立つ僕と、優雅に座る魔女。エリーゼの時と同じ、主人と客人の位置関係。
僕は目を瞑り、頭の中を整理する。どの順番で話すべきか、検討して、会話の流れを計算する。
「いえ、ただの答え合わせですよ。まず、トレアが殺されたことから話しましょうか」
「殺されたというのは、物騒な話ね。トレアというのは、誰かしら?」
首を傾げてみせる魔女。帽子のてっぺんからつま先まで演技だと丸わかりだけれど、ここで追求してはいけない。僕は魔女に、聞きたいことがあってここまで来ているからだ。
ーー何に巻き込まれてるのか知らないけど、どうしょうもなくなったらちゃんと頼りなさいよ。学生の面倒を見るのは、一応私たちの仕事でもあるんだから。
ヘイムギルに向かう前の魔女の言葉を思い出す。何に巻き込まれているのか、少なくともこの時点では僕たちの事情をーートレアを保護したことを知らないと、この人は言っていた。だから、トレアという名前がここで突然出たとしても、何のことだかさっぱりだ……。そういうこと、なんだろう。
「トレアは、ポラリス荒野で僕たちが保護した女の子ですよ。暗殺者に狙われていたところを助けたんです」
「それはまた随分と危ないことをしたのね? どうして暗殺者に狙われてるような女の子が、ポラリス荒野なんかにいたの?」
「それは僕にはわかりませんよ。それに、暗殺者っていうのがわかったのは、エドがたまたまその暗殺者が使う魔法に心当たりがあったからで。そうでなければただ女の子が襲われているだけとしか思わなかったでしょうね」
「エドは変なことを知ってるのね」
「ええ、まあ。僕もそう思います……」
深呼吸して話を戻す。本題は暗殺者のことじゃなくて、トレアのことだ。
「それで、僕たちはトレアを保護して、ルディアに連れて帰りました。僕とアイラの部屋に居候させることになって、そのことを知っていたのは、僕たち四人と、トレアとすぐ仲良くなったセイカだけです」
「へえ、あの子にも友達ができたのね。良いことだわ」
白々しく頷く魔女。僕はわき上がってくる怒りと吐き気を必死で押さえて、話を続ける。
「けれど、トレアは殺されました」
「…………」
「おそらくは暗殺者の手によって、ですが」
両腕と心臓と肺。その四カ所を刃物で貫かれて死んでいた。けれど、トレアの死の原因は刃物ではない。
「当然、騎士団が調査に入って、その要請で神殿の医術師が動きまして。その結果、不思議なことを聞いたんです。どうも、トレアは刺されたとき、既に心肺が停止していた可能性があるそうなんですよね」
ーー殺害に使われた武器は不明でして……その、医術師も首を傾げていて。どうやら、刺されたときには既に心肺が停止していた可能性がある、と。
殺害に使われた武器が不明である点は、死者への問いかけ呪文で見当がつく。もう一つの情報ーー刺された時には既に心肺が停止していた可能性、についてはどうだろうか。可能性だから、もちろんそうじゃなかった場合もある。確定的なことは何も言い切れないだろう。けれど、これはきっかけだった。
僕がこの発想にたどり着いたのは無数の情報の集約によるものだけれど、それでもこの言葉はとても大きな意味を持っていた。
「思ったんですよ。突拍子もないことですけれどーー違うんじゃないかって。
トレアは刺された時、既に心肺が停止していたのではなくて。最初から、僕たちが出会った時から、生まれたときからーー心臓も肺も動いていなかったんじゃないかって、思ったんですよね」
医術師がどうやってその疑問を持ったのかわからないけれど、着眼点としては十分だった。
そしてもう一つ。
ーーあの娘は、何も食べていなかったようです。何か心当たりは?
去り際に騎士が僕たちに尋ねた言葉。
ーー私も専門家ではないので、はっきりと理由まではわかりませんが、医術師曰く、何日も食事を取っていないかのように内蔵の中がきれいな状態だった、と。
「内蔵も、何日も食事を取っていないような状態だったそうです。おそらくトレアは、食べるたびに吐いていたんじゃないかと思います。消化機能を持たないから。体内に食べたものを蓄えることはできても、消化吸収ができないなら吐くしかありませんし」
「まるで、トレアという人が人間ではないような言い草ね」
ああ、そうだ。その通りだよ、魔女。
食事をとった痕跡がなく、解剖しても人間と見間違いようが無い。刺されると血を流し、ころころと表情を変え、家族がほしいと言う。呼吸をしていて、心臓も鼓動しているのに、それが動いていないと断じられてしまう。
「そうですよ」
僕は言う。精一杯の虚勢を張って。
「トレアは人間ではありません」
「へえ? 人間じゃないなら、一体なんなのかしら? その、トレアというモノの正体は、なんーー」
「その前に」
僕は手のひらを魔女に向けて、言葉を遮る。話の順番を再度整理しながら、言葉を続ける。
「先に整理しておくべきことがあります。いつかの問答の続きになりますけどーーあなたの研究テーマについてです、ニーナ・テメノス」
「ふうん? そのことについてもわかったのね?」
「いえ、順序が逆です。そのことについて思い出して、だからトレアが人でなく、なんなのかということに気がつきました。
僕は一度、確かにそれを目にしていたんです。にもかかわらず、見落としていた。別物に気を取られてしまって。答えは既に知っていたんですよ」
「私の研究テーマについて?」
「ええ。僕がこの研究室に来たのは、単にあなたの評判や人の少なさを意識して選んだものです。研究室の紹介資料にも、おおざっぱな方向性さえ記載されていませんでしたけれど、僕は全く気にしなかった。書いていなかったということは、意図的に隠していたんでしょうけれど……。それでも、完全に隠蔽していたわけではありませんし、できるわけもない。
《ニーナの人形理論》。あなたの書いた魔法書の原典は、この世界に既に存在している。この本の存在を、この世界のあらゆる場所に複写のあるこの本を、完全に隠しきることはできなかった。
先生、あなたの研究テーマは、人形です」
黒睡蓮の匣。西区の商店街の裏通りとも呼べる区画。僕が今腰に吊るしている、死に別れぬ者の剣。アイラに贈られた不折の剣。これを手に入れた時、僕は黒睡蓮の匣の本棚にさまざまな魔法書の原典の複写が並んでいるのを見ていた。
ーー《ウィルの位相空間論》、《エルゾアの光結晶論》、《ニーナの人形理論》、《トレイリアの魔法彫金論》、《アーサーの剣魔法論》……。
《ウィルの位相空間論》の著者がウィル・ハーミットソードであるように、《ニーナの人形理論》の著者は、ニーナ、という名を持つ人物であるはずだ。ただ名前が重複しているだけとは思えない。ここ、ディルセリア魔法学園において、たった一人にも関わらず一つの研究室を与えられるような人物が存在して、同時にその名を持つ別人が魔法書の原典を執筆したなんて、そんな可能性は極々僅かだ。
僕の言葉を聞いた魔女はーー楽しそうに、嬉しそうに、嗤っていた。
「すばらしいわね、ロイ。偶然とはいえ、私の研究テーマにきちんと行き着くなんて。それも、魔法書の原典以外にも根拠を持った上で、こう言っているんでしょう? あなた、思ったよりずっと良いわよ」