#3
本当の悪意について考えてみたことがある。悪意とは何か。確か、有名な討伐者の伝記を読んだ時だったと思う。そういったことが書かれていた。
悪意は、悪意っていうのは、自分の享楽のために、他人を踏みにじるような意思のことだ。
それは例えば、無邪気に笑って蟻を殺す子供とか。
あるいは、震える妹を押さえつけて眼球を穿り返したアイツとか。
悪意がある。悪意は、確かにある。僕が悪意だと思うもの。それが、世界には少なくない数、存在している。悪意から身を守るためには、悪意を見つけ出さなければならない。それさえできれば、戦うことも、逃げることもできる。けど、それがわからなければ、ただ蹂躙されるだけだ。
僕は悪意を、未だに認識できていない。
今、僕に悪意を持っているのは、一体誰なんだろうか。
アイラ。
僕を愛している女の子。僕が愛している女の子。トレアに嫉妬していた女の子。僕を心配した女の子。僕の罪を知っていて、僕が弓を奪った女の子。罪悪感そのもの。幼馴染み。
メディ。
僕が命をかけて、命を助けた友達。知り合ってまだ日が浅い。燃えるヘイムギルを見て怯えていて、でも僕を竜の炎から救ってくれた。仲間。
エド。
僕に怒ってる、僕の理解者。僕の能力をなんだかんだ認めてくれている。僕のダメなところをちゃんと怒ってくれる。僕を殴るし、僕だって何かあれば、彼を殴るだろう。親友。
トレア。
記憶をなくしていた女の子。妹に似ている。僕が殺した。どうして死んだのかわからない。故人。
ーーああ、わからない。
誰が嘘をついて、誰が本当のことを言っているのか。
あるいは、誰もが本当のことを言っていて、真実を黙っているのか。
誰が全ての原因なのか。何が悪かったのか。どうしてこうなってしまったのか。真実に含まれるべき謎は数多く存在している。
「大抵の場合、重要なのは、適切な問いだ」
あの人の声がする。
「死人の墓を暴く時に限らず、なんでもそうだよ。答えなんて、ある程度賢かったら自然と導きだせるものだ。だから問題は、適切な問いかけだ。それがあれば、真実にはたどり着いたも同然なんだ。
逆に適切な問いがなければ、いくら考えたって無駄だよ。だから、考えるべきは、謎の構造だ。根っこにある問題。疑問。不可解な点。それが解決すれば、全ては理解できる」
ーーでも、だったら、僕が問うべきことはなんなんですか?
「知るかよ。そんなの、自分で考えろよ、少年。お前は別に賢くないし、対した能力も持ってないけど、それでも俺に出会えたことは幸運だ。自分のことは自分で考えるべき、っていう当たり前のことを教えてもらえたんだから」
ーー自分の頭で考える、ですか。
「ああ、そうだ。自分で考えろ。思い出して、検分して、可能性を考慮し、仮説を書き留め、一つ一つ検証し、不足している情報を集め、最もあり得そうな結論を導きだす。
どうだ、それはとても簡単なことだろう?」
ーーそうですね。それは、確かに、とても簡単そうだ。
「わかってんじゃねえか。大事なのは能力じゃない。そんなものは一山いくらで転がってるような、ありふれたもんさ。大事なのは、いつだってたった一つだ。それは、真実にたどり着こうとする意思、だよ。
真実にたどり着こうとする意思さえ持ち続けていれば、諦めなければ、真実にはたどり着ける。正しいことは、世界に横たわっているんだ。過去はどんな魔法でも変えられない。たとえそのことを世界中の人が忘れてしまったり、そのことがあらゆる人に誤解されたとしても、それが世界にあったという事実だけは、決してなくなりはしないんだよ。
だからな、少年。両親のことを諦めるんじゃないぞ。たとえ死んでしまったとしても、君の父さんと母さんは確かに生きていたんだ。そのことに変わりはない。二人が世界に残した痕跡は、きっと残っている。それが何であれ、真実は絶対に消えないんだ」
両親……。そうだ。村に両親の訃報を伝えたのは、あの人だったんだ。
だから、これは、あの人の話だ。僕がまだ、十一歳の時。妹の視力が失われる少し前。僕がまだ、安穏とした平穏の中で生きていた頃の話。僕の人生にとって、最初の事件。
妹のことですっかり忘れていた。なんて情けないんだ。
「じゃあな、少年。いつか再会できると良いな」
あの人はそうやって笑って、行ってしまった。
取り残された僕は考える。トレアと出会ってからのことを、一つ一つ思い出して、検証する。些細なことまで必死で思い出して、あり得そうな可能性を考慮する。それはただの苦行だった。トレアの笑顔を思い出す。妹と重ならない、トレア自身の笑顔を。妹とトレアを重ねていたことを自覚してしまった今では、トレア自身の笑顔に、トレア自身の感情を読み取ろうとしてしまう。トレアが死んでしまったことが、頭から離れない。僕が殺した。
ぐらぐらと揺れる。
最後に鏡を見た時の、僕自身の焼けただれた顔。妹に似ている僕の顔。そういえば、トレアの顔は妹に似ていたような気がする。髪の色も、目の色も、雰囲気も違うけれど……顔立ちだけは、妹に似ていた。あるいは僕に。だからこそ、僕はきっと無意識のうちに、トレアに妹を重ねていたんだろう。まるで見本でもあったかのように、トレアと妹は似ている。
アイラが殺したとしたら、僕はアイラを殺すだろうか。アイラの笑顔を思い出す。怒った顔も、泣きそうな顔も。僕に告白した、あの丘での表情も。
トレアが死んで嬉しかったと言ったアイラを、僕は嫌いなんだろうか?
例えトレアを殺したのがアイラだったとして、僕がアイラを憎むだろうか?
嫌うかもしれないし憎むかもしれない。でも、そうだとしても、僕がアイラを好きでいなくなったりはしない。アイラがどんな罪人だとしても、僕はアイラが好きだ。いつも僕を気遣ってくれて、僕を疑わずに信じてくれる。いつだって笑顔を見せてくれる。何度それに救われただろうか。
だから、僕はアイラを殺さない。
アイラがいなくなったら、きっと僕は耐えられない。アイラに二度と会えないのなら、生きているなんて無理だ。アイラを失うなんて、想像しただけで胸が痛い。会えない。死んだらもう、会えなくなる。そんなのはダメだ。アイラに生きていてほしい、そばにいてほしい、そのことに、アイラの罪がどうして関係するんだろう。
罪は裁かれるべきだなんて、どうしてそんな馬鹿なことを、僕は考えていたんだろうか。
アイラが死ぬほど苦しんでも、僕はアイラに生きていてほしい。アイラがたとえ全身を焼かれても、僕はアイラに生きていてほしい。アイラが一人で生きられない身体になったとしても、僕はアイラに生きていてほしい。例え誰を殺しても、僕はアイラに生きていてほしい。例えアイラが誰を殺していても、僕はアイラに生きていてほしい。
愚かな思い込みで、アイラを殺すところだった僕が、何を今更、考えているんだろう。
夜椿を振り返る。
罪なんて、そんなどうでもいいもののために、どうして僕は振り回されていたんだろうか。僕が妹の人生をめちゃくちゃにしたからといって、それがどうして、僕が自分の人生をめちゃくちゃにしてしまう理由になるんだろう。アイラがトレアを殺したとして、それがどうしてアイラの死ぬ理由になるんだろう。罪なんてつまらないもののために、人生を捧げることなんてない。
僕だって一緒だ。間違っていたとしても、それがどうして、僕が苦しむ理由になる?




