#2
暗い青色の瞳が、僕を見つめる。それの表情は、苦しそうに歪む。なるほど、苦しそうなその表情は、見ていてとても嬉しかった。
歓喜。
「アイラ、もう一度聞くよ。君がトレアを殺したの?」
誰も動かなかった。セイカも、メディも、アイラも、僕も。動く気配がない。たとえ俯いていても、その視界にセイカの怯える顔だけしか映っていないとしても、鋭敏になった僕の聴覚が、そのことを教えてくれる。
無音の時間が流れた。
「ーー殺してない。殺したのは、私じゃない。でも、感じたことは、本当」
「だったらどうして、ヘイムギルからルディアに戻った時、僕のあの場所に誘ったんだ? アレがなければ、トレアを助けられたかもしれない。
君は何らかの方法でトレアが死ぬような細工をしていて、その時間稼ぎのために、僕をあの場所に誘ったんじゃないのか?」
「な、何言ってんのよロイ? 落ち着きなさいよ。あなた、混乱してるのよ。呪文がーー」
「黙れよメディ。僕は冷静だ」
頭は冴えていた。はっきりと。目の前にいるモノの、化けの皮を剥いでやらなくてはならない。そうしなければ、またいつ人を殺すか知れたもんじゃない。警鐘の正体はきっとこれだったんだ。
憤怒。
そう言えば、トレアの死の可能性として、冷気を検討したけれど……例えば、水魔法を使えば、窒息死させることもできるかもしれない。あるいは、隠しているだけで、アイラは氷魔法も使えるのかもしれない。水魔法と氷魔法はイメージが違いから、使えないこともないだろう。そうすると、トレアを刺した凶器は、氷で作ったナイフかなにかだ。
アイラは、僕がトレアに妹を重ねていることまでわかっていて、その上で殺したんだ。どうやったらそんなことができる。トレアには、なんの罪もないのに。だとしたら、昨晩言ったことは、トレアに僕の疑いを向けさせるための、誘導だったのか。
屈辱。
「ロイ、冷静になって、お願いだから。ちゃんと謝る。説明もする。だから、とにかく冷静になって」
「僕は冷静だって言ってるだろう」
「いえ、ロイさん。冷静じゃないです。とても冷静な人のする表情じゃありません」
「表情? 何を言ってるんだよ、セイカ。そんなこと、問題じゃないだろ。大事なのは、アイラがトレアを殺したっていう事実だ」
「それは事実じゃない……違う。ロイ、お願いだから、話を聞いて」
「いや、もう十分だ」
もう良いんだ。もうたくさんだ。全部なくなってしまえば、もう僕は苦しまない。生きている理由もなくなる。だから、死んでしまえる。全部、全部全部全部! まとめて滅ぼしてしまえば良い!
ーー破壊衝動。
アイラを見ようとして顔を上げた。僕の目の前にはテーブルがあった。
僕の部屋にあるテーブル。メディの向こう側にあったはずのそれが、宙を舞って僕に迫っていた。
セイカの叫び声が聞こえる。
焼き払う。薄っぺらいテーブルなんて、一瞬で消し炭になった。スカスカになったそれを、殴って砕く。煙が視界を塞ぐ。数秒。それが霽れると、三人は消えていた。
扉を焼き払う。延焼なんてしない。黒い煙になって、一瞬で消える。空気が歪む。
扉の向こう側を見る。アイラとトレアと、三人で食事をした場所だ。エドやメディが来たときもあった。そういえば、五人で一度だけ、一緒に座ったことがあった。
幻のような光景だと思う。あの時は、エドと喧嘩をしてたか。もったいないことをした。ぼんやりとそう思う。
後悔。
そのテーブルも、煙になった。
息が苦しい。空気が悪いからだ。煙ばかりになった空気は毒になるって、何かの本に書いてあったのを覚えている。確かにこの息苦しさは、まるで神経毒のようだ。一度だけそれを浴びた経験を思い出して、そう思った。
扉が閉まった。玄関だ。それも焼き払った。視界をずらす。壁が溶けていく。どろどろと溶かしてみるけれど、どうやら逃げ切られたらしい。
僕は目を瞑る。
「ふう。ああ、死にたい」
口をついて出た言葉は、自殺志願者のそれだった。
テーブルは、多分、メディあたりが魔法を使って投げたんだろう。爆発を上手く使えばそういうことができそうな気がする。叫び声を上げたセイカに反応して動いたのか。アイラは多分、引っ張られるままに逃げ出したと思う。なんだか人間みたいにショックを受けていたのがおかしかった。
化け物のくせに。
あれ? そうすると、メディやセイカもまとめて殺そうとしてた僕も、化け物ってことか。
「ーーま、いいか。もう」
そうだ。もういい。死ぬから。
もうたくさんだ。トレアをアイラが殺して、アイラを僕が殺すよりはーー僕がここでさっさと死んでしまった方が、楽になる。アイラのことが好きだし、大切だから、だめだ。もう嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
僕は目を開ける。視線の先が焦げ始めた。どうやら、先ほどより威力が弱まっているらしい。この目、破壊衝動に反応するんだな。なんとなくそんなことに思い至る。単に精神が不安定なだけじゃ、発動しないらしい。アイラがいなくなって、衝動的な破壊欲は薄れていた。あんなに人を壊したいと思ったのは、多分、初めてだ。人でない悪魔になら思ったことがあったか。僕は妹が目を齧り出されたあの光景を思い出した。けれど、何も感じなかった。
結局のところ、もう僕は、終わっていたんだ。完全に。詰んでいた。どうしようもなかった。真実なんて、碌なもんじゃない。
ふらふらと歩いて、洗面台に入り、鏡を見る。
白い髪。青い瞳。妹に似た顔立ち。能面のような表情。僕は僕の顔が嫌いだ。見ていると死にたくなってくる。僕は鏡から目を逸らさず、そのまま、まっすぐに僕自身の顔を見る。皮膚が爛れ始める。痛みを感じる。視線を体に向けると、首もとから、同じように爛れ始めた。なるほど。炎の眼とはいいつつも、この魔法の本質は、熱であるらしい。
僕は目に力を込める。アイラの右手を蒸発させる熱。それを、僕自身の頭部に向ける。
ーーパリン
ジャケットの胸ポケットで、何かがはじける音がした。そして、代わりに僕は生きている。
あれ?
どうしてまだ生きてるんだろう。
もしかして、自分を殺すことはできないのか? そういう制約がある?
いや、違う。だとしたら、そもそも僕の皮膚が焼けたりしないはずだ。さっきの音は……ああ、そうだ。思い出した。
ーーそれは、致命傷を一度だけ避ける魔法具なの。念のため持っておきなさい。今回は不要でも、いつか役に立つわ。荷物にもならないしね
そう言われて、先生から小さな石をもらったんだった。今、その効果が発動したんだろう。
だとしたら、もう一度やれば、ちゃんと死ねるはずだ。
先生。そういえば、先生の研究テーマ、それがわからないままなのは、少しだけ心残りかもしれない。結局のところ、あの紫色の魔女は、何を研究していたんだろうか。なんとなく、それが気にかかる。どうしてだかわからない。直感が警鐘を鳴らしている。
頭を振って、それを無視する。
もうそんなことは良い。
結局のところ、僕が死ねば全て終わる話だ。世界のすべてを滅ぼすことと、僕が死ぬことは、僕にとって全く同じことだから。だから僕は、今から、大嫌いなこの世界を滅ぼすんだ。
再び鏡を見る。鏡は真っ黒に染まっていた。僕の顔は映らない。
「ーーうん?」
疑問。
どうして鏡が、僕の姿を写さない?
「歯ぁ食いしばれよ、ロイ」
声が聞こえた。
顔面に衝撃が走る。
殴られた。
この痛みは三度目だ。
ああ、もう、めんどくさいな。死なせてくれよ。
吹っ飛んで、シャワールームのドアをぶち破る。痛い。ーーいや、あんまり痛くないな。どこかで痛覚が麻痺してしまったのかもしれない。さっきまで、火傷、痛かったのに。
「何しにきたんだよ、エド」
立ち上がり、目を使ってエドを睨みつける。それでも、僕はエドから目をそらさないし、エドは僕から逃げようとしない。なぜだか僕の熱は、エドには通じていない。魔眼対策の魔法具でも持っているのかもしれない。けれど、周囲の空気を熱することは止められていなかった。
「何しにきたって、そんなの決まってんだろうが」
僕の視線と、熱のすべてを無視して、エドが答える。
「殴りにきたんだよ」
近づいてきたエドに胸ぐらを掴まれて、再び殴られた。四度目だ。
ああ、めんどくさいな。放っておいてくれ。
エドに熱が通じないのなら、他の手段でいくしかない。僕はエドから目を離し、壁を、柱を、睨みつける。子気味良い音をたてて、それらが炭になり、ぎしぎしと建物が音を立て始める。
エドも僕が何を仕様としているのか悟ったんだろう。再び僕に近づいてきた。だけど、もう遅い。もう終わりだ。
がくり、と。
意識が混迷する。思考が胡乱になる。何も見えない。聞こえない。
何をされた?
ぐらぐらと、思考がバラバラに分解される。立っているのか座っているのかもわからない。エドだ。なにかしたんだ。どうしてエドは、僕の目のこと、知ってるんだ。熱だって通じなかった。なんなんだ。影の魔法のことも。どうして? 何を知ってる?
疑問が次々と浮かんでくるが、それらはすぐに混乱に飲み込まれて、僕は眠るように意識を手放した。
ーーまた死に損なった。
そんな声が、聞こえたような気がした。