#1
「い、いや。違うんだよアイラ。これはーー」
「ねえセイカちゃん」
底冷えする声。冷たい目。暗い青色の双眸がセイカを見る。そこには何の感情も見えない。まるで、モノを見るような無機質な目だった。
あの目は、ダメだ。
震えそうになる喉を叱咤して、強引に声を出す。セイカを立ち上がらせて、アイラに近づきながら。
「アイラ、落ち着いてくれ。君が想像してるような事は何もないから。だからーー」
「想像してるような事って、なに?」
くるりと、無機質な視線が僕を見る。恐怖に身が竦む。なんだ、これ? どうしたんだ一体。今までもこんな風に嫉妬する事は多かったけれど、でも、今のこれはいくらなんでもおかしい。違和感がある。まるで、死人の脳薬を飲んでいた僕の逆だ。
感情が増長している?
「ねえロイ。私が何を想像したのか、教えてほしいな。ねえほら、教えて? 私はあなたたち二人が何をしてると思ったの? どうしてロイは、私がそう思ってるって思ったの? なんで? ロイは私の考えてる事が想像できたのよね。それって、ねえ、そう言うことをしていたから、だから、疑われないように、思わず言っちゃったのかな? それって、隠したってことは、私にばれると嫌なことなんだよね?」
アイラに首を掴まれて、引き寄せられる。至近距離で、無機質な目が、感情を殺したような目が、僕を観察している。まずい。今間違って目が発動したら、アイラの眼球を焼き払ってしまう。今、僕の精神はヤバい。ぐらぐらと不安に揺れている。
けれど、目は発動しなかった。
「なに? どうかしたの、アイラーーえ? 何この状態。修羅場?」
メディが遅れて部屋に入ってくる。足音は二人分だった。おそらく、アイラとメディの二人だけだろう。エドはさっさと帰ったのか。この状況で男子一人ってのはまずい気がする。ーーいや、そういうのを抜きにしても、アイラがおかしい。
「メディは黙ってて」
アイラの鋭い声が響く。メディが気まずそうな顔で一歩引く。
「それで、ロイ。一体この女と何をしてたの? 朝はあんなに不安がって、目隠ししてたよね? それで、この女をわざわざ呼び寄せて、私は街から出て行けって、そう言ったよね?」
そんなこと言ってない。竜の調査に向かったのはアイラの独断だし、僕は何も強要していない。どうしてアイラの中でそういうことになったのか全くわからない。一体どうなってるんだ。
「そっか。そっかそっか。そういうことなんだ。ロイはこの女を呼び寄せるために、わざわざ目隠しを使ってたんだね。本当は目のことなんて、関係ないんだ。だって今、あの魔法、発動してないもんね? じゃあ、私の腕を焼いたのも、私が嫌いだから?」
「そんなことない!」
「知ってる」
間髪入れずに返されて、僕は今度こそ絶句する。二の句が告げない。アイラの表情はなくて、目は虚ろだ。吸い込まれそうなアイラの青い目は、何も見通せない濁った水面のように思えた。
「だけど、この女の方がいいんだよね、私よりも」
アイラが僕の首を離して、僕はふらりと一歩後ずさる。自然と、アイラとセイカの間から身を引くことになる。視界の隅に、怯えた様子のセイカが映る。
「わたしよりこれの方がいいんだね。じゃあ、これ、殺しちゃったら、私が一番になる?」
ゾワリとした。
ーーだからロイが苦しんでるのは、悲しい。ロイと一緒にいられると幸せ。他の誰が一緒でもいい。それがトレアでも、イリアちゃんでも、メディでも、エドでも、エリーゼちゃんでも、誰だっていいの。ロイが一緒にいたい人と一緒にいてくれれば、それで私も嬉しいの。
かつてのアイラ自身の言葉と、全く逆のことを言っている。これは、一体なんなんだ? これがアイラの本心? だとしたら、どうして今、それがこんな風に発露しているんだ?
「ちょっと、アイラ、落ち着いて!」
メディがアイラとセイカの間に立って、アイラを抱きとめる。
「メディどいてよ。メディもその女の味方なの?」
「味方とか敵とか、そういうことじゃないでしょ! アイラ、今すぐ呪文を解きなさい! 今はロイよりあなたの方がまずいわよ!」
呪文? 一体何の話をしているんだ? それに、僕よりアイラの方がまずいって……。確かに、今の僕はトレアが死んだ直後に比べて安定しているし、今のアイラは著しく精神の安定を欠いている。それが呪文の効果なのか……?
だとしたら、少なくともその呪文は打ち消して、アイラの精神状態を落ち着かせるべきだ。
その考えは、次のアイラの言葉で消し飛んだ。
「うるさい。黙れ。やっと、やっとトレアちゃんがいなくなって、二人きりの生活に戻れたのに。どうしてーーどうして、いつもロイは私以外の女の子と一緒にいるの?」
ーーなんだって?
今、アイラは、なんて言った?
「メディだってそう。なんであなた、ロイに助けられたの? どうしてロイはあなたを、あんなにぼろぼろになってまで助けたの? そんなのズルい。ズルいよ。ねえ? 私はそんな風に助けられたこと、一度もないんだよ? いつも、いつも、いつも。私はぼろぼろになったロイを抱きしめることしかできない。
イリアだって。どうして今でもロイを苦しめてるの? 私よりも、ずっとずっと沢山苦しめてる。そんなのズルい」
アイラの言葉に、メディも固まる。目を見開いて息を呑む。
「私がロイを一番苦しめたいのに。私がロイを独り占めしたいのにーー。
トレアちゃんも、イリアも、メディも、そこの女も、ニーナ先生だって、全員ロイの前から消えちゃえば良い。みんな死んじゃえば良い」
それは、余りにも醜い、独白だった。
「私、トレアちゃんのこと、嫌いだった。ロイに心配されて、私はロイと二人きりじゃなくなった。だから嫌いだった。ロイはトレアちゃんを家族だって思ってた。だから私もそう言った。でも、私はトレアちゃんのこと、嫌いだった。早くいなくなれば良いのにって思ってた。そしていなくなって、すごくすごく嬉しかった。
でもトレアちゃんは、死んでもロイを苦しめた。なんで? そんなのズルい。いつだってロイが一番苦しいのは、私じゃない、他の人のこと」
「……っ! もう、いい加減にしなさい!
《汝の天秤のうち心理を量る器、垂れる重み、その源泉、あるいは理性を守る識者の殻、欠けた一端、その行方、リブラの理に従い、有り様を正せ》」
メディが呪文を唱えると、アイラががくりと膝をついた。そして、僕の中に、罪悪感が蘇る。後悔が、恐怖心が。立っていられなくなり、僕はふらりと倒れて、壁にもたれかかった。心臓が早鐘を打つ。手が震えて、寒気が酷い。悪夢を見たときのような不安が、恐怖が、僕をぐるぐると支配する。
「あ、う? わ、わたし」
アイラが混乱から復帰したのか、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「アイラ? 大丈夫?」
「あ、メディ? うん、大丈夫。ごめんなさい、ひどいこと言った……」
「いいのよ。仕方ないもの」
そう言ってメディがアイラを抱きしめる。なんだ? 何が起こってるんだ?
こいつら、何言ってんだ?
「ロイさん! 大丈夫ですか? 顔色がひどいです……」
セイカが僕を心配して近づいてきた。下から僕を覗き込む。精悍な顔が、僕を観察する。どんな表情をしているのか、よく見えない。僕の視界は歪んでいた。涙が止まらない。自分では制御できなくなっていた。
トレアは死んだ。
どうして僕はトレアの死の真実を知りたがった? もう、放っておいてよかったじゃないか。どうだっていいだろう。そんなこと。知ったところで、後悔する。直感の警鐘なんて無視して、知らない振りをして生きていくべきだった。それで死ぬのなら、それでも良かった。僕はとっくの昔に、生きることに疲れていたんだ。
いつもいつも、死にたい気分だった。なんで、こんなに前向きだったんだろう。
どうして僕は死ななかったんだろう。
それは、ああ、そうだーーただ、アイラがいたからだ。それだけ。それなのに、だとしたらーー僕は、一体何を信じていたんだ?
「アイラ、答えてほしいことがある」
誰かの声が聞こえた。誰の声だろう。
「トレアを殺したのは君なのか?」
それは、致命的な、問いかけだった。