#5
夜椿を振り返る、という言葉を教えてくれたのは誰だったか。
当たり前だと思い込んでいた事柄について、改めて疑い、それが間違っていた可能性を考慮するようなものの考え方のことを、夜椿を振り返ると表現する。夜椿は、人の頭の後ろに、頭部とは反対に向かって、まるでうなだれるように大きな花を垂らす植物だ。幻覚を見せる魔法器官を持ち、光によって影響を与え、根は人の脊椎を浸食する。寄生植物に分類される。
夜椿の寄生方法はわかっていない。そもそも、夜椿に寄生された人物はそのことに全く気づかず、周囲の人もそれを認識できない、ほぼ完全な幻影を見せることができるのだ。気づくのは、夜椿が枯れた時か、幻影が解かれた時で、寄生された段階で気づくことはほぼ不可能だと言われている。そのために、寄生経路が特定できないでいるらしい。
この夜椿の幻影を解く唯一の方法が、寄生された人物が真後ろを振り返ること、らしい。
真後ろを振り返ってーーつまり、夜椿を振り返って、初めて自分がそれに寄生されていたということに気がつくことができる。当たり前だと思っていた自分の状態が、間違っていたことに気づける。
僕が今やっていることは、正しく、夜椿を振り返ることだった。
「アイラ、あの暗殺者は本当にエドよりも強かったの?」
「ん、強かったと思う。エドに確認は……ちょっとしたくないけど、多分。一応、拮抗していたけど、最後に私たちが転移する時に、攻撃を止めたの」
「攻撃を止めた……」
「そう。私たちが殺害対象じゃないから、と言ってしまえばそれまでだけど。普通、あんな所を見られたら殺すと思う。場所も街中なんかじゃなくて、荒野のど真ん中だよ? 殺して埋めればまず気づかれない。ポラリア荒野は人が寄り付かないし」
「確かにね。そうか……それに、そもそも、トレアがポラリア荒野にいた理由が全く説明できない。トレアはあの時より以前の記憶を持っていなかった。だとしたら、ポラリア荒野にトレアと暗殺者が突然現れたことになる」
「トレアちゃんが覚えている一番古い記憶は、聞いてない、私たち」
「確かに、あんまり根掘り葉掘り聞くのもどうかと思ったけど……アイラの言った通り、トレアがなんらかの目的を持って僕たちに近づいたのなら、記憶について追求しなかったのは失敗だった」
「……ねえ、ロイ、何を考えてるの? わからないことは沢山あるけど、トレアちゃんはもういないんだよ? 私は、ホッとしたけど……でも、このことをロイに言ったら、怒ると思ってた」
「……一瞬、むっとしたけどね」
でも、今必要なのは、僕の感傷じゃない。もちろんそのことを無視できないほど、今の僕は精神の安定を欠いている。竜と戦ったあの日から、僕はぐらぐらと揺れている。それでも今、どこかで冷静な部分を残せているのは、直感的な警鐘だった。
僕の頭の後ろに夜椿はいないけれど、なにか、大事なことを見落としていて、致命的な過ちを犯したまま、それを忘れそうになっているような気がする。
直感は無視できない。これは、父さんに教わったことだ。風、匂い、色、天候、音や足跡、時間、あるいは緊張感や空気、既に目にしている様々な情報や、街での何気ない会話。そういった積もりに積もった全ての些細な事柄が、直感として這い上がってくる。だから、直感は無視できない。
直感が告げている。
警戒を止めては行けない。考えを止めては行けない。致命傷はすぐそこまで迫っている。
「でも、怒るようなことじゃないよ。それこそーー死んだ人の話だ。まだショックだけど、でもアイラがいるから」
「……あう」
ぽすん、とアイラが僕に突進してくる。
「急にそういうこと言うの狡い」
「ん? そういうことって、どういうこと?」
「……知らない」
なんなんだ。……まあいいや。
今は感じている違和感の正体を掴むことが先決だ。そのためには、わかっていないことと、わかっていることを整理しないといけない。直感は知っていることから生まれるけれど、危険は知らないところに潜んでいる。
まずは竜のことだ。トレアのこととは無関係だと判断することもできるけど、タイミングが良すぎるような気もする。一応念のために、調べなければならない。これは、明日にでもエドに……いや、メディに頼もう。あの竜が本当はどんな理由で街を襲ったのか、それについてきちんと調べる必要がある。とはいえ、これは可能性を潰す意味合いが強い。おそらくトレアのこととは無関係だろう。
そしてポラリア荒野のこと。あの場所に僕たちが向かったのは、フィールドワークの実習依頼が来たからだ。あれはギルドに所属していない学生向けに教師が発注するものなので、例えばフィールドワークで向かう先を教師が選ぶことができる。あの日の依頼について調べてみる必要がある。
三つ目はトレアの死因だ。刺された時には既に死んでいたというのが、いったいどういうことなのか。それに、空腹状態だったというのも気になる。とはいえ、騎士団が調べてもわからないことを、僕が調べてわかるかどうかは……まあ、多分わからないだろう。こういうときは、その筋の専門家を頼るのが良い。流石に医術師の知り合いはいないけれど、物知りな知り合いがいるから、その子を頼ろう。
最後は……これも、あの子をことになるけれど、目の魔法のことだ。王の断片。これについて調べれて、出自などがわかれば、あるいは何らかの意図も見えてくるかもしれない。
意図。
どんな害意があって、トレアが殺されたのか。あるいは、トレア自身も害意を持っていたのか。だとしたら、なんのために。
さっきまで、トレアのことを投げ出そうとしていたのに、アイラの言葉を聞いただけで、こんな風に前向きにものを考えられている。
そうだ、アイラの発想、トレア自身に害意があったという考えを聞いて、僕は何かに気づきかけている。だとしたら、トレア自身になんらかの意思があったと考える方が自然だ。トレアには何か目的があって、僕たちを利用したんだ。その前提で考えなければならない。
ーー死者は語らない。
ーーが、墓から真実を暴くことはできる。
「ロイ、好きだよ」
「……そういえば、アイラがあの丘で僕に告白したのって、トレアのせい?」
「うん、そう」
そうだったのか……。要するにアレは、トレアに何かされたらちゃんと身を守れってことだったのか……。全然わかんなかったぞ。
「はっきりトレアが怪しいって言うと、ロイは反発すると思ったから」
「う……否定できないな」
「イリアはロイの弱点だから。それはみんな知ってる」
イリアはーー僕の妹は、確かに、僕の弱点だ。最も弱いところだ。罪悪感も、愛情も、両方を抱いている。そしてなにより、僕は妹に怯えている。妹から視力を奪って、その上で逃げ出した僕を、妹はどう思っているのか。そのことを知るのが、恐ろしい。
「みんな知ってる、ってのは言い過ぎじゃないの」
「そんなことないよ? セイカちゃんに、どうしてロイさんはトレアを引き取ったんですか? って聞かれたから、イリアのこと教えてあげたの」
「なんで教えるんだよ……」
人のナイーブでシリアスな部分をペラペラ喋られるのはとても遺憾なのだが……。
「セイカちゃん本当に不服そうだったから、教えてあげたんだよ。妹がいて、喧嘩しちゃってて、トレアちゃんは妹に似てるって言っておいた」
「ああ、そういう感じに伝えたのか……」
「ロイの先生も、ロイに妹がいることは知ってるよ。私とロイが幼馴染みだって言ったら、故郷ではどんな風に暮らしてたのかって聞かれて」
先生ーーニーナ先生。残念な美人。紫に身を包んだ妖艶な魔女。研究テーマのわからない研究者。いい加減教えてくれても良い気がするけれど。そういえば、ユウさんやセイカとも先生の紹介で知り合ったんだった。
「そうか、あの人も知ってるのか」
夜椿
寄生植物。五感に働きかける幻想によって、身を隠す魔法器官を持つ。