#10
頭の中がぐちゃぐちゃで、糸まみれになっているような錯覚に陥る。
もう全部嫌だ。
周りのすべてを壊したい。僕を壊したい。僕なんて死んでしまえばいい。そうすれば、誰も不幸になんてならない。全部なくなれば、嫌なことなんてなくなるから。
アイラも、妹も、メディも、エドも、トレアも、セイカも。みんな壊して殺して無かったことにしてしまいたい。そうすれば嫌なことなんてないんだ。悲しいこともなくなる。空しさも消えていく。
咽び泣きたくなる衝動だけが心の中で反響するような、あんな感覚はもうたくさんだ。
自分の眼窩に腕を突っ込んで、脳まで引きずり出してしまいたい。体に火をつけて、炎の中で朽ち果ててしまいたい。妹の目を食ったあの悪魔に、僕が食われればいい。アイラたちを蹂躙したこの竜に、僕が焼き殺されればいい。そうすれば、そうすれば、苦しくなんか無いんだ。
あの竜を道連れにして、ひき殺して、そして僕も死んでしまいたい。高らかに雄叫びを上げるあの竜を。妹を殺したあの竜を。ーー違う、妹を殺したのは、竜じゃない。けれど、同じだ。僕より強い生き物。だから、アレも殺したい。
胸に熱を感じて、僕は震える手でそれを取り出した。トレアが隠し持っていたスクロール。王の魔法が封じられたという、先生の言葉を思い出す。
スクロールを握りつぶす。
周囲の時間が止まったような静寂の中、目の前に赤く燃える文字で、呪文が浮かび上がる。
沸々と心を支配する破壊衝動と自殺衝動に昏迷しながら、僕は呪文を唱える。
「地平線を焼き、異界を滅ぼす始祖の炎。
世界を睥睨する昏き魔眼。
滅ぼせぬものの無い胡乱たる灼熱の使い手よ」
口だけがつらつらと呪文を読み上げる。ぼんやりと、今の僕にふさわしいな、と考えていた。
「涙は血、後悔は憤怒、光は死。
宿れ、《炎の眼》」
読み上げた。
視界が灼熱に包まれた。空気さえ焼けただれる。
竜が叫ぶ。
けれど、その音さえ聞こえない。
これがどういうものか、その事実に対する理解だけが追いついている。
翼を見る。その翼が焼け落ち、肉が蒸発する。竜の甲殻が一瞬で消え去り、むき出しの肉さえ一瞬で炭化する。光っているのか淀んでいるのか分からない。一瞬で炎は終わってしまい、後には灰だけが残る。
「ははっ!」
乾いた笑いだけが、僕の耳に届いた。誰の笑い声だろう。
「あはははっ!」
笑い声はうるさかったけれど、今は竜を潰すのが先だ。骨を焼き、肉を蒸発させ、炭を更に焼き、存在を滅ぼしていく。既に絶命していた竜は、あっという間に炎に包まれて、その影を減らし、微かに骨だけを残した。
呆気なかった。生物の王の、それが終わりだった。
ふと視界を動かすと、建物が目に入った。すると、その建物の石造りの外装が溶け始めた。ガラガラと瓦礫を押しのけて立ち上がる。振り返ると、僕が叩き付けられていた瓦礫の山が、どろりと溶けた。
ふらりと足を進める。歩ける。ふわふわとした感覚に促されて、歩き続ける。
瓦礫の山か溶岩の上かわからなくなってしまった街の中で、僕は空を見上げた。すっかり暗くなった空は、熱でぐにゃりと光をねじ曲げる。砂漠にでも立っているみたいだ。空気さえ燃えている。
溶ける。
焼ける。
揺らめく。
炎と熱のもたらす全てがここにあった。
「あはっ、あははははは! はははははは!」
乾いた笑い声。楽しそうだ。僕も混ぜてもらおうか。ぼんやりとそう考えて、その声が僕のものだと気がついた。まるで、僕じゃない別の誰かが乗り移ったみたいな笑い声は、薄気味悪かった。その薄気味悪さにぞわりとした恐怖を覚え、突然意識がハッキリする。
「え、あ……」
なんだこれ。
なんだこれ?
活火山の火口にでも降り立ったのかと思うような光景だった。ぼろぼろになった瓦礫は溶かされ、空気は蜃気楼に歪み、竜は微かな骨だけが残り、真っ赤に染まる世界の中で、僕だけが立っていた。
いったい何が起きた? いや、違う。これは、僕がやったんだ。でもどうしてこんな事ができた? あの魔法はなんなんだ? あれが、始祖の王の魔法?
それに、僕は何を考えていた?
僕が死ねばいいと思っていた。けれど、どうして唐突に、世界の方が壊れればいいなんて、アイラや妹を殺す事を想像したりしたんだ。そんなことできるわけが無い。僕にとって妹とアイラは大切な人だ。
ーー本当に?
ーー彼女たちは、僕の罪の証明でしかないじゃないか?
浮かんだ考えに背筋が震える。そうじゃない。違う。違う! 妹とアイラは、僕に取って家族だ。守るべき家族なんだ。だから、僕が死んでも守らなくちゃいけない。
「三人を、探さないと……」
ふらりとエドがいただろう方向に視線を向けると、視界に入った建物がぐちゅりと歪んで溶けた。
「え?」
魔法が終わっていない。違う、魔法を理解している僕の脳が、終わっていないのではないと伝えてくる。
この魔法は終わらない。
瞬間、恐怖が僕を支配する。すぐさま目を瞑った。呼吸が荒くなる。この状態でもしアイラに顔を合わせたら、僕は彼女を焼き殺すのか? あの竜のように、彼女を消し炭にしてしまうのか?
背中に冷水が流れたような予感がした。暗闇の中で、周囲の音だけが嫌にはっきりと聞こえる。パチパチと何かが燃える音。溶けた石が何かを焦がす音。そして、焼けた石や空気の匂い。
「ロイ……」
アイラの声が聞こえた。
「アイラ? いるのか?」
「いるよ、ロイ。大丈夫? 目、怪我したの?」
ずりずりと何かを引きずるような音が聞こえる。アイラだろうか、人の息づかいが近づいてくる。無事だったんだ。良かった。微かに安堵する。
安心して、だからこそ油断した。竜も焼き殺して、アイラが生きていた事が分かって。だから、気を抜いてしまった。
「ロイ、目、見せて」
アイラに目を触られて、無理矢理瞼をこじ開けられる。右目。そして、視界に入ったのは、アイラの右腕。
駄目だ。
そう直感するが、もう遅い。
「あああああああああああ!」
アイラの絶叫と共に、彼女の右腕は蒸発した。
「アイラッ!」
すぐに目を瞑る。強く。
「うう……あっ、くぅ……」
アイラの喘ぎ声が聞こえる。暗闇の中でアイラの声のする方に手を伸ばすが、その手は空をつかんだ。バランスを崩して膝をつく。
「アイラ、アイラ! ごめん、僕は……」
声が震える。アイラを傷つけた。腕が消し飛んだのを見た。僕が、僕がーー
また僕が奪った。
僕が奪った。僕が壊した。僕が、だから、僕なんてーー
ーー僕なんて、死んでしまった方が。
自分の体を見下ろして、目を開こうとした瞬間、暖かいものに包まれた。
「だい、じょうぶ。大丈夫だから。私は大丈夫だから、心配しないで、ロイ」
左腕だけのアイラに抱きとめられているのだと気がついたのは、彼女の声が間近に聞こえてからだった。僕の目は彼女の胸に押さえつけられて、何も見えない。だから、何も焼くことはない。
「大丈夫、大丈夫だからね。ロイのせいじゃないよ。ロイ。生きててくれてよかった。死なないでくれて、本当に……」
アイラが泣いているのが分かった。暖かい雫が頭の上から落ちてくる。
彼女は、僕が生きていることに涙を流している。
いったいどうしてそんなことができるんだろうか。
一歩間違えば、僕はアイラを殺していた。跡形も無く。そうでなくとも、事実、彼女の右腕はなくなったはずだ。腕を伸ばして、本来なら右腕のある場所を触る。けれど、そこにはやはり、なにもなかった。
「ロイ、ロイ……」
「アイ、ラ……」
お互いの名前を呼び合う。
アイラは僕の腕の中にいる。生きている。ちゃんとこうして体温もある。抱きしめることができる。いなくなってなんかない。
心が弛緩するのを感じた。
目から涙がこぼれる。
ーーアイラが生きていて、本当に良かった。
一歩間違えば死んでいたかもしれない。僕が殺さなくとも、竜に殺されていたかもしれない。やっぱり、僕たちは竜に立ち向かうべきじゃなかった。間違っていた。思い上がっていた。でも、だから、アイラが生きていてくれて、よかった。
僕は、僕も、アイラを愛している。
ずっと隣にいた彼女に、死んでほしくなんかない。生きていてほしい。こんなことに今まで気がつかなかったなんて、どうしてだろう。目の熱が引いていくのが分かった。もう大丈夫だ。直感する。アイラの胸から顔をはなして、彼女の目を見た。
涙に潤んだ瞳。ずっと見慣れた顔。煤けて、涙でぐちゃぐちゃになっているけれど、それは何よりきれいで、僕の宝物だった。
炎の眼
ーー情報は開示できません
知識封印が施されていますーー