#8
咆哮が聞こえた。
大型生物の、怒りの混じった嘶き。遠くから微かに聞こえた音だった。けれど、それを聞いた瞬間、僕たちの間に緊張と、動揺が走った。
爪を必要なだけ集めて、ヘイムギルまで戻っている途中だった。
ヘイムギルを出る前に聞いた、ウェミルさんの言葉が思い出される。
曰く、平原の北側で中型生物の焼死体が見つかったと。
平原の北側とヘイムギルの間は、数百キロハルツの距離がある。それを昼のうちに渡りきるような大型生物が、存在するのだろうか。いや、違う。存在するとしたら、その種はなんだ。そう考えるべきだ。
背負っていた囁爪の爪をその場に捨てて、僕たちは街に急いだ。小さな丘を超えたところで、ヘイムギルが見えるようになった。
思わず息をのむ。
夕焼けに照らされたヘイムギルの、決して高くはない外壁。石レンガで作られたその外壁の、北向きに開けた門から微かに見える光景。そしてなにより、夕焼けではない、赤い光が、ヘイムギルの現状を僕たちに分からせた。
「街が燃えてる……」
メディがつぶやく。心無しか声が震えていた。
金属のこすれる音がする。隣を見ると、エドがマギカソードを抜いていた。鋭い眼光は、ヘイムギルを睨んでいるようにも、それを覆う炎の空を見ているようにも見えた。
「おい、いくぞ。あそこにいるのは、竜だ」
エドに言われて、再びヘイムギルを見る。揺らめく炎と夕焼けの合間に、翼の影が見えた。爬虫類の骨張った印象が強いが、けれどそれは竜種の翼の特色でもある。そしてなにより、サイズが違う。
確かにあそこにいるのは、竜だ。そして、竜に襲撃された街が、無事であるはずが無い。エリオさんやウェミルさん、街の住民たちは、どうしているのだろうか。
ゾワリと、今度は本能的ではない怖気が、僕の背中を撫でた。
平原に囲まれたこの街で、大型生物への、ましてや竜に対する備えなどできているはずもない。そもそも、竜は理由なく街を襲わない。彼らは強いだけでなく、警戒心が高く賢い生物だ。つまりーー
背中を叩かれた。突然の衝撃に思わず喉がむせる。
「ロイ、考え事は後だ。竜がいるってことは、あれを討伐しなけりゃ街は終わりだ。まだ間に合うかもしれない。急ぐぞ」
「……そうだな、わかった。行こう」
「メディも、大丈夫か?」
エドにつられて、僕もメディをふりかえる。ギョッとした。メディはカチカチと歯をならしながら、顔を青くして震えていた。アイラが心配そうに肩を支えている。
「ど、どうしたんだメディ? 大丈夫?」
声が出ないのか、メディは何も言わずに首を左右に振る。
「……じゃあ、メディはここにいろ。動けるようになったら来い。アイラ、目印は打てるな?」
「大丈夫。先に行って。私も残るから」
「……ご、ごめん……。少ししたら、大丈夫だから」
震えながら必死で言うメディ。勝ち気なメディしか知らなかった僕は、いったい彼女に何が起こったのか全く分からなかった。炎に包まれたヘイムギルを見たからか。だとしたら、彼女はもしかして、炎にトラウマでもあるのだろうか。
炎の魔法を使うのに?
けれど、その疑問は今口にする事じゃない。僕は言葉を飲み込み、代わりに二人に声をかけた。
「ごめん、アイラ。メディ、無理しなくていいからね」
僕とエドは、アイラと震えるメディを残し、二人でヘイムギルに駆け込んだ。
肉と木の焼ける匂いが僕たちを包む。息苦しい。空気が悪いからだ。至る所に燃える建物と焼け焦げた石レンガが散乱している。熱い。すぐにじっとりと汗をかいてきた。
「上着は脱ぐなよ。肌が焼けるからな。喉も乾く。熱くても我慢しろ」
「言われるまでもないよ。それより、どうする? 謡う伽藍の支部にいくか? 機能してると思う?」
「どうだろうな。俺はあの竜のところにいくのが先決だと思うぜ。もしいくつかのギルドが機能してるなら、前線はあそこだ。行けばどうすればいいかわかるだろ。機能してないなら、誰かがアイツを止める必要がある」
「だとすると、防衛にしろ攻勢にしろ、最前線に行けば身の振り方も分かるってことか」
「そういうこと。死ななけりゃな」
エドはその言葉を皮切りに再び走り始める。僕も彼に従って走る。炎に浮かれた空が赤い。夕焼けの光も。世界が橙色と赤色に染め上げられて、黒々と蠢く竜の翼と、焼けた建物たちが、僕たちを囲んでいた。
人の姿は見えない。避難してしまった後だからか。北門の側にはほとんど死体も無かった。代わりに、北門の外に避難した人も見ない。やはり、竜は北から街にたどり着いたのか。
だんだんと肉のこげた匂いが強くなってくる。道ばたに転がっている黒い炭は見なかった事にした。ああ、そうだ。僕もああなるかもしれない。あるいは、エドやアイラやメディが。何も考えずにエドについてきたけれど、よく考えれば逃げたって良かったんだ。
いや、本当は逃げる事は考えていた。けれど、エドに何も言わなかったのは、僕の性質だ。
大通りから少し入ったところで、ぐちゃぐちゃに崩れた建物の上に竜が君臨していた。赤黒い甲殻。ぞろりと並んだ牙。大きく鋭い爪。先端に鋭い刺を持つ尻尾は、力強く揺らめいている。空に掲げた翼は逞しく、それは圧倒的強者の証明でもあるのだろう。
空に向かって、竜が再び嘶いた。
対して、わずか五人。僕とエドがたどり着いたその場所で、崩れた建物の瓦礫を踏んで立っていたのは、五人だけだった。そのうち一人、一番後ろにいる医術師の装いの女性が、こちらを一瞬だけ見る。
五人でなにかしゃべっているのが見えたが、声までは聞こえない。そして、先頭に立っていた剣士風の男が、こちらに目線だけを向けて、すぐに竜に向かっていった。
それは本に書かれるような魔法だった。
灼熱の槍が、光の刃が、一陣の雷が、無数の魔法の矢が、竜を襲う。竜はそれら全てを受け、払い、傷つきながらも倒れず、その上で炎を吹いた。
炎の息。
それを見て、予想が確信にかわる。あれは、火竜フォンドラゴンだ。魔法の炎を息に乗せて、振れる魔法を焼き付くし、鉄さえも溶かす、火炎の王。
五人は塊になって、同時に防御魔法を展開する。けれど、不慣れなのか、魔力が尽きたのか、どれも圧倒的に強度が不足している。いくつかの盾が炎を防いだが、それまで。
一瞬で竜は彼らに肉薄し、爪と牙を振るった。一人は炭になり、一人は爪に引き裂かれ、一人は食いちぎられ、残る二人は建物と共に薙ぎ払われて、瓦礫の下に消えた。
「…………」
僕とエドは言葉を失った。
思い上がりだ。思い上がりも甚だしい。どうして僕たちなんかが、それもたったの二人で、あの竜に立ち向かえるなんて考えたのか。グリフォンなんて比較にならない。絶対的強者。
生まれながらにして、王である種。
エドがマギカソードを構える。僕も、震える手でなんとか、剣を構えた。白い剣。これを受け取った日の、アイラの告白を思い出す。
あの日、僕はアイラになんて言われた?
死なないでほしいと、願われたはずだ。
竜が僕たちに気づき、こちらを向く。睨まれただけで体が竦む。絶対的強者の目は血色で、それは怒りに満ちていた。いったいどうして竜が街に入り込んだのか。その理由と、彼の怒りの色が、つながっているのだと直感する。
竜は温厚で、縄張りに僕たち人間が近づいたとしても無視するような生き物だ。それは絶対的強者の余裕と、賢さ。
けれどそれには、ただ一つの例外がある。
竜にとって唯一の禁忌。
番で一頭の子を生む彼らは。だからこそ、その子を命をかけて守る。誰かがこの街に、竜の仔を連れ帰ってしまったのだ。だからもう、この街は滅ぶ。
火竜
固い鱗を持つ翼竜。翼と足を持ち、前足は翼と同化している。
魔法器官を生まれながらに内蔵しており、巨体にも関わらず空を飛び、口内で生み出した火球を吐き出す。