#3
セイカと分かれて家に帰り着いた後で、トレアの腕の痣を調べた。
右腕だけでなく、左腕にも。更には、足にも首筋にもあった。アイラにトレアの全身を調べてもらうと、どうやら痣は全身に至っているようだった。
「アイラ、何の痣かわかる? 何かの術?」
「学校で教わった知識で考えると、これ、籠の呪文かもしれない」
「籠の呪文? トレアの体を使って、空間を作ってるってことか」
「多分そう」
料理を食べるトレアを思わず見る。おいしそうにスープを掬っているトレア。彼女が暗殺者に狙われた理由が、ほんの少しだけ分かりかけている気がする。
記憶喪失の少女。そして、突然浮かび上がった呪文。
「籠の呪文。ってことは、取り出し呪文ーーじゃないな、呼び寄せ呪文か」
「そう。でも、トレアが唱えないと。多分、籠の呪文と結んだほうがいい」
籠の呪文は、それによって小さな空間を作ることができる。ただ、その空間は魔法的に生み出されたもので、実際にこの世とつながっているわけじゃない。それに加えて、その空間はすぐに搔き消えてしまう。世界結界に抵抗するには、効果が弱すぎるからだ。
そのため、籠の呪文は、詠唱ではなく魔法式や魔法陣で用いられる事が多い。魔法式や魔法陣が残っている限り、空間は残る。この場合、魔法式を描かれているトレアの存在そのものが、空間と紐づいているからだ。
籠の呪文で生み出された空間は、そのままでは使い道が無い。そのため、何らかの媒体を経由して、その空間にものを入れたり出したりして使う。この場合、媒体はトレアの体で、ものを出し入れするのは、呼び寄せ呪文や格納呪文を使う事になる。
「呼び寄せ呪文、書ける? 多分、魔法式にして使った方がいいと思う」
「それはできる。でも、いいの? トレアが狙われた理由がわかったら、私たちも危ないかもしれない」
「それは……」
トレアが狙われた理由。僕は無意識のうちに、トレアの命が狙われていると思っていたし、その推論が間違っていたとは思っていない。でも、もしかしたら狙われていたのは、トレアの命そのものではなく、彼女が籠の呪文で隠しているーーあるいは、彼女に誰かが籠の呪文で隠している、『何か』が狙われている可能性もある。
トレアが死んでしまえば、トレア自身に支えられている空間はつぶれてしまうーーはずだ。そうすると、その何かは永遠に葬られることになる。
それを封じるために、トレアの命を狙っている。
そう考える事もできるし、籠の呪文の魔法式さえ隠されていたことを考えると、その可能性は十分あり得る。
「ごちそうさまでした!」
トレアが食事を終えて、食器をキッチンに持っていく。能天気そうな表情に、命を狙われているような深刻さはない。あるいは、僕たちに守られて安心しているのかもしれない。
僕たちだって、ただの学生でしかないのだけれど。
「トレアちゃん、ちょっとここに座ってて」
アイラが椅子をひとつだけ移動させて、トレアに座るよう促す。キッチンから戻ってきたトレアは、遊びかなにかだと思ったのか、楽しそうに椅子に座った。
「なにするの、アイラちゃん?」
「学園の課題なの、ちょっとじっとしててほしいな」
「わかりました!」
一度自室に引っ込んだアイラは、墨筆と精霊鋼の薄い板を持って戻ってきた。トレアを中心に魔法陣を描き、精霊鋼を僕に渡す。
「ロイ、これにトレアの名前を刻んで」
「わかった」
僕は儀式用のナイフを取り出すと、精霊鋼の板にトレアの名前を彫る。その上で、トレアの手を握り、記名呪文を唱える。微かに精霊鋼の板が音を立てた。
「多分大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ、トレアちゃん、これ両手で握ってて」
床に魔法陣を描き終えたアイラが、トレアに精霊鋼の板を渡す。トレアは不思議そうにしながらも、精霊鋼の板を受け取って、両手で握る。祈るような格好だ。
「今思ったけど、私よりロイの方が呪文得意なんだから、ロイがやったらいいのに……」
「いや、呼び出し呪文とか、空間論に関するやつは苦手だから……」
僕がそう言うと、思い出したような表情をするアイラ。
「そう言えばそうだった」
「ごめんね。頼むよ」
「わかった」
魔法陣の端、飛び出した三本の線の先に円を描いたものが二つ並んでいる場所に、アイラが両手をそれぞれつく。魔力を流し込み、魔法陣が起動する。黒褐色の墨が穏やかに発光し、青白く色を変えていく。
精霊鋼が再び鳴り始め、一瞬風が吹いた後、トレアの膝の上にスクロールが落ちた。
「……成功」
アイラがつぶやく。トレアは、突然自分の目の前に現れたスクロールに目を見開いている。
僕はトレアの膝に乗っているスクロールを取った。紙質は普通の羊皮紙で、そこまで厚みがあるわけではない。内容はたいした量ではないと思う。赤い封蝋が施されていて、その印璽いんじには見覚えが無かった。
「……ん、開かないな。単なる封蝋じゃないのか。何らかの封印が施されてるみたいだ」
トレアの体に封じた上で、更に封印を施している。どうやら相当危険なことが書かれているらしい。
「それ、ロイくんが持っててね」
唐突にトレアが言った。
僕とアイラはぎょっとして、トレアの顔を見る。
トレアはにこにこと笑っている。いつも通り、無邪気に笑っている。
楽しそうに。
無邪気に笑っている。
笑っているのだけれど、それはまるで、そのように作られた仮面のような、嫌悪感を感じる笑顔だった。いつもの笑顔と何が違うのか全く分からないのだけれど、とにかく嫌悪感だけが強調されている。
不気味な笑い。
「それ、ロイくんが持っててね。ロイくんが受け取ったから」
「……トレア、これを知ってるのか?」
どうして今まで黙っていた?
これが何か知っているのか?
本当にトレアは記憶喪失なのか?
「ロイくんが持っててね?」
無邪気な笑顔で何度も何度も同じ事を言うトレア。その笑顔に、僕は不気味さをいっそう強く感じる。この少女は、無邪気でごく普通の、命を狙われるなんてとんでもないような、女の子じゃなかったのか。
唐突に、ふらりと気を失ったように倒れるトレア。椅子から倒れ落ちそうになるのを、慌ててアイラが受け止める。
「ロイ、トレアはひとまず寝かせるから」
「わ、わかった」
トレアの変貌に戸惑いながら、僕たちはトレアをアイラの部屋に運ぶ。ベッドに横たえると、トレアの寝顔はいつものものだった。一定のリズムで呼吸して、胸が上下に動いている。特に変わった様子も、苦しそうな表情もしていない。
スクロールを取り出した事で、何か体調を崩したような印象はなかった。そういう呪文や、魔法も確か存在したと思う。そういった手段が取られていない事に、安堵した。どうやらトレアにこのスクロールを封印した人物は、トレアに対する害意を持っていたわけではないらしい。
そこで僕ははっとした。
トレアの記憶喪失が事実であったとしても、そうでなかったとしても、少なくとも誰かが、このスクロールをトレアに隠したんだ。そうすると、このスクロールは誰かに狙われていて、そして守るためにトレアに隠した。
このスクロールを隠した人物が、記憶を失う前のトレアなのか、それとも全く別の人物なのかは分からないけれど、今となっては、僕たちが狙われる側なんじゃないか。
トレアからスクロールが取り出されたことが、このスクロールを狙っている人物に知られたかどうかは分からない。今も監視されているのかもしれないし、あるいは完全にトレアを見失っているかもしれない。
けれど、だとしたら。
だとしたら、僕がスクロールを持っている事を、このスクロールを狙っている人物に知らせる事ができれば、トレアを守る事が出きるんじゃないだろうか。
自己犠牲的なアイディアだと分かっていても、この閃きは、魔法のように僕の思考をとらえた。
そうだ。そうすれば、トレアは安全だ。狙われる心配も無い。事情を知らない人に引き取ってもらって、幸せで安全に生活する事ができる。僕やアイラと縁を切るわけでもない。きっとその方が、トレアに取って幸福な事だろう。
だとしたら、そうすべきだ。
僕はスクロールを自分のジャケットの内ポケットにしまった。すこし胸元が膨らんで見えるけど、目立つというほどじゃないし、邪魔にもならない。
「今日はもう寝ようか、アイラ」
「ん、わかった」
「じゃあ、おやすみ。これのことは、また明日話そう」
そう言ってジャケットの胸の部分を叩いてみせる。アイラは不安そうな表情で僕を見ていたが、僕はそれに気づかないふりをして彼女の部屋を出た。
籠の呪文
呪文式によって小さな空間を制作する呪文。唱えることでも空間を制作できるが、残らないため実用性は皆無である。呪文式を描くために多少の知識が必要になる。
大抵の場合、空間の征服権は呪文式の描かれた物の所有者にあり、呼び寄せ呪文などを応用して活用する。