#1
トレアという少女を色で例えるならば白だ。
僕の手を握ってにこにこと上機嫌にしているトレアを見ながら、僕はそんなことを思った。彼女についてあれから分かったことは少ないけれど、そのうちいくつかはとても重大な発見だった。
一つ目、トレアは宗教を持たない。
僕たち魔法を使う人間にとって無宗教は珍しくないことだけれど、一般の人にとって無宗教はとても珍しいものだ。それに加えて、僕たち魔法使いが無宗教であるというのも、それはそれで信仰がないわけではない。単に僕たちは英霊理論に親しんでいるために宗教に固執しないのであって、逆に言えば、魔法使いとは魔法を信仰しているにすぎない。
ルクセティスのシンボルが描かれた教会の前で礼拝に集まっていた人々を見て、トレアはアイラに尋ねた。
「アイラちゃん、あの人たちは何をしてるの?」
トレアは、信仰や宗教といった概念を知らなかった。それどころか、まるで田舎の農家の娘のように、文化的な概念を一通り覚えていなかった。彼女は主義も持たず、信仰も持たず、趣味も持たず、好みも持たなかった。
いわば、文化の無い場所で成長したかのような印象さえあった。
記憶喪失なのだからそれが普通だと思うかもしれないが、けれど彼女は、記憶喪失にも関わらず僕たちと会話をすることができているのだ。それはつまり、僕たちと会話できる程度の言葉は覚えているし、数多くの知識さえ記憶しているということだ。
要するに、彼女が忘れたのは自分に関する事柄だけで、知識は忘れていない。だからこそ僕たちとの会話が成立する。物語
エピソード
は忘れているが、意味は覚えている。例えば、食材や料理の名前はきちんとわかるのだ。
そして知識の偏りは彼女の記憶を探るヒントになる。宗教、あるいは信仰という概念を持たないという事実は、とても重大だった。
この大陸の半分を占めるカルノトーツ王国では、たいていの人は夢籠教を信仰している。けれどそれは、国土全てに浸透しているわけではないというのも、僕は感覚として知っている。
僕とアイラの故郷にも教会はあったけれど、それは信仰のための場というよりも、村の人々が集まるための場所だったように思う。もっと人の少ない村にいけば、教会がないこともあるだろうし、教会がなければ、宗教を知らないこともあるだろう。
トレアが都市の出身ということは、おそらくないのではないかと思う。
二つ目、トレアは基本的な生活能力を持たない。
見た目以上に非力なために荷物を運ぶことにも多くの体力を使うし、料理の技術も知識もない。かといって、農業の知識を持っているわけでもなく、なんらかの職能を得ているわけでもない。少なくとも、僕とアイラの見ていた限りでは。
なにより、トレアの日常の様子が、自活する能力を感じさせないのだ。背格好でいえば僕とアイラの二つ下くらいだけれど、精神年齢はもっと低いように感じられる。端的に言えば、トレアは子供っぽい。
笑ったり怒ったり拗ねたり、表情をコロコロと変えるトレアは、大切に育てられたのだろうと思う。おそらく自活する能力を持たないのも、その環境によるものだろう。
つまるところ、トレアは温室育ちのお嬢様なのではないか、という見立てが成立する。
けれど、この推測はおそらく間違いだろうと思っている。
つまり、三つ目、トレアは探されていない。
もちろんこのことについて確信を持って断言できはしない。けれど、トレアを見つけたポラリア荒野を中心に、僕たちがお世話になったハックスフッズはもちろん、周囲の村にトレアを探している人がいないか調べたのだけれど、そういった人は皆無だった。
それどころか、人がいなくなったというような話さえ聞かなかったらしい。
同級生が仕事で出かける時や、信頼できる先生のツテを使って調べた程度なのだけれど。暗殺者ギルドを警戒して、トレアのことは直接話さずに、ではあるけれど、人が一人いなくなったら、それも育ちの良さそうな女の子がいなくなったとなれば、噂話くらいは流れてもいいのではないかと思う。
これらの事実を統合すると、トレアは世間知らずで、大切に育てられた、けれど探されていない人物ということになる。
トレアの過去が持つ社会との接点は恐ろしいほどに薄い。
トレアという少女を色で例えるならば白だ。
「はぁ……」
アイラの告白の翌日。僕は自宅でだらだらと過ごしていた。あの後、僕はアイラの告白に何も返さずに、誤摩化すように帰ってきた。アイラも、なにか言葉を求めていたわけではなくて、聞いてほしかっただけなのだろう。特に何も言わなかった。
僕にアイラを受け入れる資格は無い。
そう思いながらも、アイラに縋って、アイラを抱きしめて、アイラの好意につけ込んで甘えている僕は、なんなんだろう。そもそも、学園に来たときだって、僕はアイラと一緒に住む必要なんてなかったはずだ。それでもアイラと一緒に住んでいる。そしてその上、アイラの好意は受け入れたくないなんて言っている。僕は矛盾している。その矛盾さえ、アイラに甘えて目を背けている。
自分の好意に向き合わない僕みたいな人間に、それでもたくさんのものを与えてくれるアイラの愛情は、とても重たい。粘り着く油のような愛情から、逃れたいとさえ思う。けれど、僕はアイラを拒絶して、きちんと彼女を傷つける勇気もない。
そんなことをだらだらと考えていると、ドアをノックする音が聞こえた。セイカだろう。トレアが「明日はセイカと出かけるの! ロイ君も一緒にくるの!」と言っていたのを思い出した。玄関のドアを開けると、思った通りの人物がいた。
「ロイさん、お久しぶりです」
「何日か前に研究室に遊びにきてたじゃないか。久しぶりっていうほどでもないよ」
セイカ。年齢不詳。住所不詳。僕が分かっているのは、ユウさんと同じく、先生の身内っていうことくらいだ。僕と同年代に見えるけれど、僕には必ず敬語を使う。丈の長いノースリーブのジャケットを羽織り、ハイカットのブーツを履いている。スタイリッシュな年下だ。暗い灰色の髪を肩より少し上のあたりまで伸ばしている。口を開くと覗く八重歯が印象的だ。
口癖は「女は歯が武器なので」。
「それはそうと、トレアはまだ寝てますか? 上がってもいいですか?」
「質問を立て続けにするな。上がっていいよ。セイカなら歓迎だ」
「ふうん。私なら、ですか。じゃあ誰なら歓迎しないんですか?」
「んー、エドとか」
「ああ、なるほど。エドさんは確か、ことあるごとに剣の稽古を頼んでくるご友人でしたね。面識はありませんが。メンドクサイってことですか。ロイさんはメンドクサガリなんですね。でも私のことはメンドクサがっちゃ駄目ですよ?」
「メンドクサイこと言ってんじゃねえよ」
セイカを家に招くと、彼女は勝手に椅子に座る。三度目くらいの訪問にも関わらず、勝手知ったる家だと言わんばかりだ。
「トレアを起こしてこようか?」
「いえ、大丈夫です。オカマイナク」
「あ、そ」
お構いなくと言われたので、放置しよう。とは言え、僕も特にやる事はない。と、そういえば朝食を取っていない事を思い出して、僕は立ち上がった。
「朝、食べた? なんか食べるなら、一緒に準備するけど」
「いえ、私は朝は抜くタイプですので」
「なるほど」
僕は彼女の細い腰を見て頷いた。女性的なラインのジャケットがくびれを強調していて、それがいやらしくないのは彼女の雰囲気の賜物だろう。食べないから贅肉が付かないのか。
「なにか不穏な気配を感じます」
「気のせいだろ」
僕はこちらを睨むセイカを無視して、キッチンに入った。
カルノトーツ
カルノトーツはウェルディア大陸の東側を統治する王国。
2800年頃の戦乱時代に小国として興り、戦乱時代を治めるように国土を広げ、大陸の半分を領有するに至った。