#10
トレアという少女について、僕たちが知っていることは殆どなかったし、トレア自身が知っていることも殆どなかった。ごく僅かにわかったことは、彼女が記憶を失っていること、おそらく僕たちより年下ということ、理由はわからないが暗殺者に狙われていること、そして、僕の妹によく似ていることだった。
トレアは良く笑ったし、良く泣いた。感情豊かで、それがすぐに表情に出た。人懐っこくて、僕やアイラにすぐに甘えるようになった。見た目は僕たちと一つくらいしか違わないように見えるのに、心はもっと幼いようだった。
「ロイくん、今日はトマト煮込みが食べたいです!」
食欲も旺盛で、よく料理をリクエストされた。
「ロイくんの作る料理はおいしいですから、毎日食べられるわたしは幸せ者です」
「トレアちゃんは大げさね」
「大げさではないですよ。わたしはアイラちゃんがうらやましいです。こんなに料理上手な男の人と一緒に住んでるなんて……」
「うふふ、いいでしょー」
トレアがうちにきて、六日か七日目の夕方。今日は僕が料理当番で、トレアとアイラが話しているのを聞きながらキッチンに立っていた。
窓から夕焼けの赤い光が差し込んで、キッチンを照らしている。もうすこし暗くなったら、魔煌灯に明かりを灯さなければならない。
浅鍋にトマトを放り込みながら、僕はふと昔のことを思い出す。
ーー兄さんは料理上手ですから、アイラさんはずるいです。
ーーどうして?
ーー私も、料理上手な旦那さんがいいです。料理は苦手ですから……。
ーー旦那様かー。ロイが旦那様。……うー、恥ずかしくなってきた。
妹とアイラの会話が思い出される。罪悪感で胸が潰れそうになる。
父さんも母さんも、僕と妹が幼い頃からずっと家にいなかった。優秀な討伐者として各地を飛び回っていた二人は、僕たちを故郷に預けて仕事をしていた。年に数度だけ顔をあわせる二人を、僕は確かに両親だと思っていたが、僕と両親の間に「家族らしさ」はなかったように思う。
その頃の僕にとって、家族とは、アイラと妹のことだった。
今はどうなのだろう。
ーー「家族」の中に妹はいないかもしれない。
ふとそんな考えが頭をよぎって、心臓が跳ねた。僕は、妹のことを他人にしてしまって、罪から逃れようとしているのか。
深呼吸をして心を落ち着ける。
トレアと妹は他人だ。そして、妹は家族だ。ここはルディアの僕とアイラの部屋で、ティルテリムのあの家とは違う。
そう自分に言い聞かせる。
「ロイくん、ご飯できましたか?」
いつの間にかトレアがキッチンに入ってきていた。浅鍋を覗き込んでくる。
「もうできるよ。パンを持っていって。すぐに行くから」
「はい!」
トレアが嬉しそうに頷いて、バスケットごとパンを持っていく。僕は大皿を取り出して、できた料理を浅鍋から移した。ダイニングに料理を運ぶと、トレアが待ちきれなさそうにしている。
「ロイくん、はやく食べたいです!」
「はいはい、わかったよ。あと、スープもあるから持ってくるけど、先に食べてていいよ」
バスケットの隣に大皿を置いて、スープをとりにキッチンに戻る。こっちは鍋からスープ皿に取り分けて、トレイに乗せていく。
「おいしい!」
トレアの声が聞こえる。
ーー兄さんの料理は絶品ですね。
妹の声が蘇る。
「トレアちゃん、お行儀よく食べないとだめ」
「だっておいしいもん!」
アイラとトレアのやり取りを聞きながら、僕はスープをテーブルに並べる。トレアの分を置くと、トレアはすぐに口をつけた。
自分の作った料理を美味しそうに食べてくれるのは、作った甲斐があると思う。アイラも美味しそうに食べてくれるけど、トレアほどわかりやすくはないから。
本当に、妹にそっくりだ。
妹に最後にあったのはもう四年以上前になる。だから、成長していたら、ちょうどトレアと同じくらいの背格好になっているはずだ。そのわりに、言葉遣いが幼いのは、育ちが関係しているのだろうか。
言葉遣いか……。
これはトレアの記憶を探るヒントになるかもしれない。知っている言葉や知識で出身を特定するのは、確か犯罪者の取り調べでも行ってたような気がする。機会があったらそういう専門の先生でも探してみるか……。
アイラがトレアの口元をナプキンで拭っているのが、まるで姉妹を見ているようで、それがまた、妹を連想させる。
食事を終えて寝支度を整えた僕は、ベッドに横になる。結局、トレアはアイラと一緒に眠るのが習慣になった。なぜだかわからないけれど、トレアがうちに来てからは、朝になるとアイラが隣で眠っていることが多くなった。気がする。
気のせいかもしれない。
魔煌灯で照らした部屋の中で、トレアのことを考える。
結局のところ、僕たちは詠う伽藍という中型動物を専門に扱う冒険者ギルドに所属して、生活費を稼ぐことになった。四年までは学校からの奨学金で生活していたけれど、その時の僅かな貯金も尽きていたところだったから、どちらにせよなにか仕事を始めないといけなかったし。
ディルセリア魔法学園に所属する学生は、貴族や富豪の子息などの裕福な一部を除いて、ルディアから奨学金をもらって生活することが出来る。ただし、それらはルディア銀貨として受け取り、基本的にはルディアの中でしか使えない。
どういう仕組みになっているのかはわからないけれど、ルディアの外ではあまり価値がないらしい。
最も、奨学金を受け取れるのも四年生までで、それ以降は奨学金が受け取れない代わりに学生の就業が許可される。ディルセリア魔法学園と契約を結んでいるギルドが学生を雇用し、四年間働かせる。この間は見習い期間のようなもので、ギルド側もある程度の便宜を図ってくれる。代わりに、賃金は普通よりも低い。
四人で稼げばトレア一人分くらいの生活費は稼げるだろうと思う。それに、トレアもどうやら健康な体ではあるらしいから、働いてもらうことも出来る。そうなったら、もう僕たちが養う必要なんて全く無い。
ただ、あの暗殺者のことは気になる。
どうしてトレアが狙われているのかはわからないが、身元がわからず、今のところ特別な能力も持っていなさそうなトレアを、好き好んで養う人間はいない。命を狙われているとなれば、住み込みの労働も難しいだろう。
どちらにせよ、トレアが命を狙われている理由を明らかにして、原因を断つ必要がある。そうしなければ、トレアは安心して暮らせない。僕たちの所に残るにせよ、自立するにせよ、だ。
ーー兄さまは、私のことを愛していますか? 家族だと思って、いつまでも守ってくれますか?
父さんと母さんの訃報が届いたときの、妹の泣きそうな顔を思い出す。二人きりの家族になった日に、僕は妹に誓ったはずだったのに、最後に妹を傷つけたのは僕だった。
だから、今度は、きっと助けたいと思っている。
罪滅ぼしで、自己満足なのだろうと思うと、胸が苦しくなる。自分の狡さに肺が潰れそうになる。それでも、トレアは天涯孤独だ。記憶が戻るまでは、少なくとも。
だから、僕が守ってやらなければ、いけない。
「《夜の息が明かりを呑む》」
魔煌灯の明かりを消して、僕は眠りに落ちる。
暗がりの呪文
明かりの呪文の反対呪文。明かりの呪文で点したエルゾアの光結晶を消す。