「お前との婚約はビジネスだ」と公爵令息に毎晩言われ続けたので、契約満了の朝に綺麗さっぱり失踪しました 〜手遅れだと泣き叫びながら国境を封鎖しても、私は隣国の魔導工房で楽しく暮らしています〜
「クラリス。勘違いするなよ。お前と私の関係は、あくまで対等な利害の一致――純粋なビジネスだ」
深夜の執務室。書類の山にペンを走らせるクラリスの頭上に、婚約者であるキース・フォン・ローゼンバーグ公爵令息の冷淡な声が降ってきた。
華やかな夜会から帰ってきたばかりの彼は、瀟洒な夜会服の襟元を緩めながら、ワイングラスを傾けている。その瞳には、寝る間も惜しんで領地の決算書と魔導具設計図に向き合うクラリスへの感謝も労いも、ひとかけらも宿っていなかった。
「お前が我が家の財政と特産魔導具の開発を立て直す代わりに、我が家はお前の実家の負債を肩代わりし、三年間の生活を保障する。それ以上の感情を私に求めるな。私には社交界にふさわしい、真実の愛を捧げるべき相手がいるのだから」
キースの言う「真実の愛」とは、先ほどまで彼がエスコートしていた男爵令嬢のことだ。
社交界ではすでに、公爵令息キースの隣には常に愛らしい男爵令嬢が侍り、地味で無愛想な婚約者クラリスは屋敷の奥で帳簿ばかり睨んでいる「冷え切った書類妻」として嘲笑の的になっていた。
「はい、承知しております、キース様」
クラリスは顔を上げず、淡々とペンを走らせながら答えた。
声に揺らぎはない。怒りも、悲しみも、嫉妬すらない。
なぜなら――この『ビジネス』は、まさに今夜の深夜零時をもって、契約満了となるからだった。
三年前。没落寸前だったクラリスの実家を救うため、天才的な魔導具開発能力を持っていた彼女は、ローゼンバーグ公爵家と「三年間の期限付き婚約契約」を結んだ。
契約書には明確に記されていた。
『乙は、甲(ローゼンバーグ家)の魔導技術の革新および負債整理を三年以内に完遂すること。完遂の暁には、甲は乙に違約金なしでの完全な自由と契約解消を認めるものとする』
クラリスはこの三年間、文字通り命を削って働いた。
キースが「ビジネスだ」と突き放すたび、彼女は内心で(ええ、助かります。仕事相手に情を挟まれるほど面倒なことはありませんもの)と胸を撫で下ろしていたのだ。
カチリ、と掛け時計の長針が重なり、零時を告げる鐘が遠くで鳴り響いた。
「……終わりました」
クラリスは最後の書類に自署の魔力印を捺し、綺麗に整頓して机の中央に置いた。
公爵領の特産品となった『永久蓄電式・環境魔導炉』の完成設計図と、向こう十年分の黒字を保証する運用計画書。そして、自らのサインを記入した『契約満了に伴う婚約解消届』。
「おい、何をぶつぶつ言っている? 明日までに隣国の交易関税の計算も終わらせておけと言ったはずだが」
「いいえ、キース様。私の仕事はすべて完了いたしました」
クラリスは立ち上がり、完璧な角度で淑女の礼をとった。
「三年間、大変お世話になりました。それでは、失礼いたします」
キースは眉をひそめ、「ふん、勝手に休め。明日も早いのだからな」と不機嫌そうに手を振った。
それが、彼がクラリスに向けた最後の言葉となった。
翌朝、午前十時。
遅い朝食を終えたキースは、不機嫌そうに眉を寄せて執務室へ入ってきた。
「おい、クラリス! 朝の珈琲はどうした! 今日の定例会議の資料がまだ手元に届いていないぞ!」
返事はない。
普段ならとっくに資料を完璧に揃え、湯気の立つ珈琲を用意して待っているはずの女の姿が、どこにもなかった。
「……クラリス?」
机の上に歩み寄ったキースの目に飛び込んできたのは、整然と並べられた書類の山と――その一番上に置かれた、青い封筒だった。
『契約満了および婚約解消のご報告』
手紙を開いたキースの視線が、流麗な文字の上を滑る。
《キース様。
契約書第十二条に基づき、本日をもって我が身分保障および貴家への技術提供期間が終了いたしました。
私に割り当てられていた給与の未払い分はすべて実家の負債返済に充当し、領地の魔導炉計画もこれにて引き継ぎ完了となります。
私物の整理は昨夜のうちに済ませましたので、私が貴家に残したものは一切ございません。
貴方のこれからの人生と、真実の愛のお相手との幸福を心よりお祈り申し上げます》
「は……? 契約……解消……?」
キースの頭が真っ白になった。
慌ててクラリスの私室へ走る。
扉を開けると、そこには愕然とする光景が広がっていた。
家具以外の私物が、跡形もなく消え去っていた。
彼が「対外的な体裁」のために買い与えた高価なドレスや宝石は、値札をつけたまま全て棚に整然と並べられ、一針たりとも持ち出された形跡がない。彼女が持参したボロボロのトランク一つ分だけが、綺麗に抜け落ちていた。
「嘘だろ……? おい、冗談だろクラリス!?」
その時、青ざめた顔の家令が息を切らして駆け込んできた。
「き、キース様! 大変でございます! 領都の中央魔導炉が突然停止いたしました!」
「何だと!? クラリスが残した設計図があるだろう、すぐに技師に再起動させろ!」
「それが……無理なのです! あの炉は、クラリス様の特異魔力波形を【鍵】として循環するよう組まれておりました! 設計図通りに作動させようにも、彼女の直筆魔力署名による週一回の同期承認がなければ、即座に安全ロックがかかる仕様になっております!」
「な……に……?」
「さらに、隣国のグランベル帝国から緊急の親書が届いております! 『我が国の筆頭魔導工学顧問として迎え入れたクラリス・フォン・ベルン嬢への身柄引き渡しについて』と……!」
ガタガタとキースの膝が震え出した。
「お前との関係はビジネスだ」
「それ以上の感情を求めるな」
「真実の愛を捧げる相手がいる」
自分が浴びせ続けてきた冷酷な言葉の数々が、鋭い刃となって己の胸を抉り抜く。
あいつは、怒っていたのではない。傷ついていたのでもない。
ただ冷徹に、残酷なまでに完璧に――言われた通り「ビジネス相手」として自分を見切り、満期が来るのを秒読みで待っていたのだ。
「ああああああっ!! クラリス! クラリスぅぅぅっ!!」
キースは絶叫しながら自らの髪を掻きむしった。
「国境を封鎖しろ!! 騎士団を全員出せ! どんな手を使ってでも連れ戻すんだ! あれは私の妻だ、誰にも渡すものか!!」
だが、遅すぎた。
氷雪が溶け去るように、彼女の痕跡は公爵領から完全に消え去っていた。
その頃、隣国グランベル帝国の帝都。
木漏れ日が差し込む広々とした特注工房で、クラリスは優雅にハーブティーを口に含んでいた。
「ふぅ……なんて静かで、素敵な場所かしら」
作業台には、帝国が国家予算を投じて用意した最高級の魔導具用ツールと鉱石がずらりと並んでいる。
徹夜の書類仕事も、誰かの冷たい嫌味に耐える時間もない。ただ純粋に、自分の愛する魔導工学の探求だけに没頭できる夢のような環境だった。
コンコン、と控えめなノックとともに扉が開き、長身の青年が入ってきた。
銀色の髪を後ろで束ね、知的な眼鏡の奥から温かな琥珀色の瞳を覗かせているのは、グランベル帝国の第二皇子にして帝国魔導院総監――レオンハルト殿下だった。
「クラリス、調子はどうかな? 何か足りない器具や、取り寄せたい素材はあるかい?」
「レオンハルト様。これ以上ないほど充実しております。私のような亡命同然の技術者を、こんな最高位の顧問として迎えてくださり、感謝の言葉もございません」
クラリスが立ち上がって礼をとろうとすると、レオンハルトは慌ててそれを制し、困ったように眉を下げた。
「やめてくれ、頭を下げるのはこちらの方だ。君が三年前に学会で発表した論文を読んだ時から、私はずっと君の才能に焦がれていた。あの愚かな公爵領から君を救い出せる契約満了の日を、どれほど首を長くして待っていたか」
レオンハルトはクラリスの前に歩み寄ると、彼女の手をそっと包み込んだ。
キースのように尊大に命令する手ではない。壊れ物を扱うように、心からの敬意と熱を込めた手だった。
「クラリス。私は君の技術を愛している。だがそれ以上に――理不尽な環境でも気高く成果を出し続けた、君という女性そのものに心を奪われているんだ」
「え……?」
「契約などという無機質な言葉で君を縛るつもりはない。ただ、どうか私の隣で笑っていてほしい。君が創り出す世界を、誰よりも近くで守らせてくれないだろうか」
「真実の愛」とやらを盾にされ、誰からも価値を認められなかった三年間。
その傷跡を優しく溶かすような、本物の温もり。
クラリスの頬が、ふわりと桜色に染まる。
「……私の創る魔導具は、少しばかり手がかかりますけれど……それでもよろしいですか?」
「もちろん。一生をかけて、君のすべてを愛し抜くと誓うよ」
窓の外では、隣国が血眼で国境を捜索しているという噂が風に乗って聞こえてきたが、クラリスの耳にはもう、遥か遠い異国の昔話のようにしか届かなかった。
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