『夫婦の寝室』
夫がリビングのソファーで寝るようになったのは、いつからだっただろう。
最初は、ただの一時的なことだと思っていた。
妻は深く考えなかった。
夫婦の寝室に、ダブルベッドがある。
だから、明日になれば戻ってくる。
そう思っていた。
けれど、翌日になっても夫は寝室に戻らなかった。
一日。
一週間。
一か月。
一年。
気がつけば、リビングのソファーが夫の寝床になっていた。
妻は、それでも夫婦生活が終わっているとは思わなかった。
朝になれば、
「おはよう」
と言う。
食事を作れば、
「ご飯できたよ」
と声をかける。
夫が仕事から帰れば、
「おかえり」
と言う。
それだけで、妻には十分だった。
同じ家に住み、同じ名字を名乗り、夫婦として暮らしている。
だから、自分たちはまだ夫婦なのだと思っていた。
夫が寝室に入ってこないことも、
「疲れてるんだろう」
「仕事が大変なんだろう」
「そのうち戻ってくる」
そうやって、自分に言い聞かせていた。
夫は何も言わなかった。
寝室に入らない理由も。
妻と距離を取る理由も。
もう以前のような気持ちがないことも。
ただ、静かにソファーで眠った。
妻は、その背中を見ながらも、夫の心が自分から離れていることには気づかなかった。
いや。
本当は、薄々気づいていたのかもしれない。
気づきたくなかっただけだった。
ある夜、妻はリビングを通りかかった。
ソファーで眠る夫の横には、夫の枕と毛布が置かれていた。
それはもう、一時的な寝床ではなかった。
夫にとっての「自分の場所」になっていた。
妻はしばらく、その光景を見つめた。
そして、小さく笑った。
「変なの。夫婦なのに」
眠っている夫には、その声は届かない。
その頃にはもう、夫の中では妻は「一緒に暮らしているだけの人」になっていた。
妻はまだ、夫を「愛する夫」だと思っていた。
二人の間にあるものの名前が、いつの間にか全く違っていた。
妻は夫婦の寝室を見る。
二人で選んだベッド。
二人で買った家具。
二人で始めた生活。
そこには、昔の二人が残っている。
けれど、今の夫はそこにはいない。
夫は毎晩リビングのソファーで眠っている。
そして妻は、その意味を理解しないまま、夫婦という形だけを抱えて眠る。
やがて夫は言った。
「もう、別れよう」
妻には、その言葉が突然だった。
「どうして?」
夫は少し黙ってから答えた。
「もう、気持ちがない」
妻は絶句した。
そんなはずはない。
だって、ずっと一緒に暮らしていた。
毎日顔を合わせていた。
ご飯だって作った。
夫婦として生活していた。
そう思っていた。
けれど夫にとっては、その「ずっと」は、愛情の証拠ではなかった。
むしろ逆だった。
夫は何年も前から、少しずつ妻の隣から離れていた。
寝室から出て。
ソファーに移り。
会話が減り。
触れ合うことがなくなり。
心の中でも、妻から離れていた。
妻は、その一つ一つを「夫婦生活の変化」だと思っていた。
夫は、その一つ一つを「別れへの準備」だと思っていた。
二人は同じ家に住んでいた。
けれど、見ていた未来は違った。
最後まで妻は、夫がソファーで寝ていることの意味をわからなかった。
夫にとってあのソファーは、ただのベッドがわりではなかった。
妻との間に引いた、境界線だった。
妻がそれに気づいたときには――
夫はもう離婚と、その家から出ていくことを決めていた。




