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『夫婦の寝室』

作者: ミオ
掲載日:2026/08/27

夫がリビングのソファーで寝るようになったのは、いつからだっただろう。


最初は、ただの一時的なことだと思っていた。


妻は深く考えなかった。


夫婦の寝室に、ダブルベッドがある。


だから、明日になれば戻ってくる。


そう思っていた。


けれど、翌日になっても夫は寝室に戻らなかった。


一日。


一週間。


一か月。


一年。


気がつけば、リビングのソファーが夫の寝床になっていた。


妻は、それでも夫婦生活が終わっているとは思わなかった。


朝になれば、


「おはよう」


と言う。


食事を作れば、


「ご飯できたよ」


と声をかける。


夫が仕事から帰れば、


「おかえり」


と言う。


それだけで、妻には十分だった。


同じ家に住み、同じ名字を名乗り、夫婦として暮らしている。


だから、自分たちはまだ夫婦なのだと思っていた。


夫が寝室に入ってこないことも、


「疲れてるんだろう」


「仕事が大変なんだろう」


「そのうち戻ってくる」


そうやって、自分に言い聞かせていた。


夫は何も言わなかった。


寝室に入らない理由も。


妻と距離を取る理由も。


もう以前のような気持ちがないことも。


ただ、静かにソファーで眠った。


妻は、その背中を見ながらも、夫の心が自分から離れていることには気づかなかった。


いや。


本当は、薄々気づいていたのかもしれない。


気づきたくなかっただけだった。


ある夜、妻はリビングを通りかかった。


ソファーで眠る夫の横には、夫の枕と毛布が置かれていた。


それはもう、一時的な寝床ではなかった。


夫にとっての「自分の場所」になっていた。


妻はしばらく、その光景を見つめた。


そして、小さく笑った。


「変なの。夫婦なのに」


眠っている夫には、その声は届かない。


その頃にはもう、夫の中では妻は「一緒に暮らしているだけの人」になっていた。


妻はまだ、夫を「愛する夫」だと思っていた。


二人の間にあるものの名前が、いつの間にか全く違っていた。


妻は夫婦の寝室を見る。


二人で選んだベッド。


二人で買った家具。


二人で始めた生活。


そこには、昔の二人が残っている。


けれど、今の夫はそこにはいない。


夫は毎晩リビングのソファーで眠っている。


そして妻は、その意味を理解しないまま、夫婦という形だけを抱えて眠る。


やがて夫は言った。


「もう、別れよう」


妻には、その言葉が突然だった。


「どうして?」


夫は少し黙ってから答えた。


「もう、気持ちがない」


妻は絶句した。


そんなはずはない。


だって、ずっと一緒に暮らしていた。


毎日顔を合わせていた。


ご飯だって作った。


夫婦として生活していた。


そう思っていた。


けれど夫にとっては、その「ずっと」は、愛情の証拠ではなかった。


むしろ逆だった。


夫は何年も前から、少しずつ妻の隣から離れていた。


寝室から出て。


ソファーに移り。


会話が減り。


触れ合うことがなくなり。


心の中でも、妻から離れていた。


妻は、その一つ一つを「夫婦生活の変化」だと思っていた。


夫は、その一つ一つを「別れへの準備」だと思っていた。


二人は同じ家に住んでいた。


けれど、見ていた未来は違った。


最後まで妻は、夫がソファーで寝ていることの意味をわからなかった。


夫にとってあのソファーは、ただのベッドがわりではなかった。


妻との間に引いた、境界線だった。


妻がそれに気づいたときには――


夫はもう離婚と、その家から出ていくことを決めていた。

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