きえたコトリと鏡の森
ある朝、コトリが目をさますと、世界の色がすこしだけ薄くなっていました。
カーテンの外の空も、うすい水いろ。ママの声も、なんだか遠くに聞こえます。
「おはよう」
と、コトリが言ってもママはふりかえりませんでした。コトリのことが見えていないようでした。
ママにもパパにもコトリの声は届きません。手をふっても、さわっても、まるで、空気のなかにいるみたい。
コトリはしばらく立ちつくして、ぽつりとつぶやきました。
「わたし、きえちゃったの……?」
その瞬間、部屋のすみに置いてあった鏡が、ぴしりと割れました。
光のすきまから、ひとすじの風がふいて、気づけばコトリはまよい森に立っていました。
そこはまよい森の奥の「鏡の森」と呼ばれる、だれも知らない場所。すべてが、うすい銀色でできていました。
木も、水も、空も、葉っぱも、どれもまるで鏡のかけらでできているみたいでした。
コトリが歩くたびに、地面がコトリの姿を映し、すこし遅れて、動くまねをします。
「だれか、いますか?」
その声も、森に吸いこまれて、しんと消えてしまいました。
でも、そのとき。ひとつの鏡の中にもうひとりのコトリが立っていました。
「あなたは……わたし?」
「うん。きえたコトリ。だれにも気づかれなかったコトリ。忘れられた、あなたの中のさみしさ」
鏡のコトリは、やさしく笑いました。
「あなたは、いつもだれかの話をきいてあげた。でも、自分の気持ちは……?」
コトリは、すこしだけ目を伏せました。
だれかが泣いていると手をにぎってあげたこと。おばけがさみしいとそばにいてあげたこと。けれど、自分がさみしいときはうまく言えなかったこと。
「いいの。あなたはそれでも、まちがってない。でもね、自分の声も、たまにはきいてあげて」
鏡のコトリは、コトリの手をとりました。その手はあたたかくて、なつかしくて、ふしぎな気持ちになりました。
「ありがとう」
コトリがそう言うと、パリンと音を立てて鏡がくだけました。
コトリは、家のベッドの上で目をさましました。朝の光が、やさしくカーテンからさしこんでいます。
ママが朝ごはんを作る音。鳥の鳴き声。空の色。
ぜんぶ、ちゃんとある。
けれど、心のどこかで、もうひとりのコトリが、そっと手をふっている気がしました。
その日から、コトリは夜寝る前に、森にむかって小さな声で言葉をささやくようになりました。
「きょうのわたしも、がんばったよ」
「ちょっとだけ、さみしかったよ」
「でも、だいじょうぶ」
鏡の森は、もう見えません。
でもそのささやきは、きっとどこかに届いて、だれかの中のきえかけた気持ちを、そっとつつんでいるのです。