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明らかに血ではない、そして液体でもない白いものを口から、かつ下からではなく上から溢れさせて吐き出して、ヴァンクーアは倒れた。そのまま、痙攣もせず完全に動きが止まる。
だがそこで、テレイシアの動きも止まった。地に降り立ったところで、ガクンと膝が落ち、崩れていく。すかさず、残る二匹が襲いかかった。
「姫様!」
メルが駆け寄り抱き支え、跳び退って、辛うじて二匹の攻撃をかわした。そこへカナエが割って入ってヴァンクーアたちを食い止めるが、カナエの疲労も積もってきており、放つ火にも風にも力がなくなっている。ただでさえ大したダメージになっていなかったのが、もはや目眩まし程度、と思ったら違った。
メルとテレイシアを背に庇って飛ばした火炎が、二匹を包み込むと同時に激しく燃え上がり、二匹は苦悶の声を上げてその場でもがき苦しみ始めたのだ。ついさっきまで、一時の足止め程度にしかならず、易々と突破されていた火炎が。
カナエ自身、確かに今、火炎を放った時の、自分の内側の手応えが違うような気はした。違うというか、「本来の、いつも通り」だと感じた。この山に入る前の、いつもの、だ。
つまり……
「カナエ――――っ! やるぞ!」
アキカズが走って来る。そのアキカズを追い越して、一本の矢が飛んでくる。矢自身の五倍はありそうな、太い竜巻を纏ったそれは、ようやく火炎を振り払ったばかりのヴァンクーアの右脇腹に刺さった。と同時にそこに生えていた太い腕一本を、根こそぎぶっ飛ばしてしまった。切断ならぬ、爆断である。
腕一本を一瞬で失った魔獣が、激痛に叫び声を上げている。見れば、こちらに走って来るアキカズの後ろで、ルノマが更なる矢をつがえている。
魔獣二匹は、先程テレイシアに倒された仲間の死骸を引っ掴むと、それを持って跳び退った。その足下の地面を、竜巻の矢が大きく抉る。
アキカズがカナエたちのところに到着した時、ヴァンクーアたちはヴァンクーアの死骸を恐ろしいほどの速さで咀嚼し、飲み込んでいた。その効果であろう、根こそぎ失われていた腕が、みるみる再生していく。カナエにやられた火傷の跡など、あっという間に消え去った。
相も変わらず、底の知れないバケモノだ。だが、カナエは実感していた。例えるなら、自分は今まではドロリと濁った黒い油の中にいたが、突然掬い出されて、美しく澄み切ったサラサラの清流に投げ込まれたような。
カナエを取り巻く全てが、澄んでいる。病に臥せって苦しんでいた全ての神様が、息を吹き返している。アキカズとルノマが、残る一つのモンスター召喚魔法陣を潰してくれたのだ。山に打ち込まれていた毒を、消し去ったのである。
こうなればこっちのもの、今までずっとできなかったアレができる!
「よーし! やるわよアキカズっ!」
アキカズの目には、気絶したテレイシアとそれを庇って立つメル、そして腕一本を吹き飛ばされながらも仲間の死骸を食って再生しつつあるヴァンクーア、同じく死骸を食っているもう一匹、が見える。
再度、極太の竜巻矢が飛んでヴァンクーアたちを襲ったが、今度はそこに食い残しのヴァンクーアの死骸がぶつけられ、矢と双方が砕き合って終わった。全身の半分ほどを仲間たちに食い荒らされていたとはいえ、あの頑丈な巨躯を一本で砕いてしまう矢の、その纏う竜巻の破壊力は凄まじい。これも、ルノマが風の精霊力を万全の状態で使えるようになったからだろう。
とはいえ、今防がれたことからも、もう見切られているらしい。これ以上は通じるまい。そもそもヴァンクーアがアキカズたちに襲いかかって近接し乱戦になれば、矢がアキカズたちに当たってしまう恐れがある。
だが、もう大丈夫だ。山の精霊が、山の神々が本来の状態に戻ったのなら、そしてカナエがここにいるのなら、あんな物の怪の二匹や三匹、恐れるに足りず!
ヴァンクーアたちと対峙するアキカズの背後で、カナエの、決して猛々しくはなくただただ鋭い、刃のような祈りの声が響き渡る。
「天の神様、地の神様、人の神様、御力を……今ここに、鼎の刃を与え給え!」
天地人の神の力を結集させた、カナエの発揮し得る最高最強最大の神通力が、眩い光の奔流となってその全身から溢れ出し、怒涛の勢いで渦を巻き、アキカズを包んだ。アキカズは光の中に飲み込まれた、かに見えたが瞬く間に逆転、アキカズがその全身で光を飲み込んだ。
カナエから受け取った、至高の三大神の力が、アキカズの体内で瀑布となっている。それをアキカズは気光で舵取りし、整え、導き、流れを制御していく。腕に集め、刀に流し、刃に凝縮させる。
するとアキカズの刀が、その刃が、普段のアキカズの気光以上に強く輝き、その白光は刃と同じ形で刃の二倍、いや三倍、いやいやそれ以上、とにかく何倍も、長く分厚く大きくなった。気光の、輝光の、長刀である。
「おおおおおおおおぉぉぉぉっ!」
アキカズは大きく踏み込み、自身の身長を遥かに超える長さの、天地人の神通力の輝きを宿した太刀を袈裟掛けに振り下ろす。その一閃は、強く鋭い斬撃であるだけではなく、この世の理から外れた生物を浄化し、あの世へと送り届ける為の、神の作った通り道でもあった。
正に、神通りの力。その光が収まり、元に戻った刀をアキカズが構え直した時、その前方には纏めて両断され吹き飛ばれたヴァンクーア二匹が、四つの肉塊となって転がっていた。
胴を真っ二つにされても、這いずってまた共食いして、復活しそうな魔獣たちだったが、今は切断面から、まるで雪像が焼けるようにみるみる融けて蒸発していく。
「鼎の刃の破邪の力、もあるけど、それだけではないわね。この様子は」
やっと落ち着いて、構えを解いて、カナエが言った。
「もともと近かった肉体的限界を、引き寄せて早めたようなものだわ。戦わず、ケガもせず、安静にしていたとしても、明日の朝日を拝めたかどうか」
カナエの推論は、崩壊し消滅していくヴァンクーアを見ていると、アキカズにも理解できる。過剰なドーラッグで無理に強さを引き上げたせいで、筋肉も骨も内臓も脳も「強化」一本になり、他の全てが置き去られ、「生存」すらも放り投げてしまったのだろう。
アキカズのような、才能に努力を重ねて得た強さではない、薬物で安易に得た強さだからだ。その肉体が崩壊するのは、いわば自業自得。だが戦う為だけに生を受け、それを納得していた兵器生物としては、満足のいく最期だったのかもしれない。そもそもドーラッグの摂取は、アキカズたちの目の前で間違いなく、ヴァンクーア自身が選択していた行動だ。
「……」
考え込んでしまっているアキカズの肩に、ぽん、とカナエが手を置いた。
「やらなければやられてた、でしょ。それに、こいつが造られてから今日までの間、あるいは無事にここを出ていたらこれから先も、どれだけの人が殺されていたかも判らないんだし」
「……そうだな。一つの悪を滅ぼして罪なき人々を護った、には違いないか」
「そうそう。胸を張りなさい。あなたがどうあれ、わたしは張るわよ。どーんとね」
どーんと張れば、たっぷんっと重そうに揺れるのがカナエの胸であった。
どうあれこれで、モンスターはこれ以上出現しないであろうし、山の土も水も風も元通りになった。ヴァンクーアも今度こそ絶命した。魔法陣を作ってヴァンクーアと組んでいた黒幕はまだ健在だろうが、ここまで仕掛けを崩されては、そう簡単に再起もできまい。
この山の異変は、とりあえず解決だ。後は、事の次第を騎士団に報告して、黒幕については大がかりな捜査をしてもらうしかないだろう。テレイシアとメルの素性は言えないが、ルノマとまとめて、旅のエルフ三人組の協力を得てモンスター召喚の魔法陣を探して潰した、とでも報告すればいい。
だが、今はそれより大事なことがある。一同は、一休みして体力を回復させると、タ・イーム・マッスイィーンの結界へと歩き出した。




