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テレイシアはしゃがみ込み、ヴァンクーアの足首に抱き着き、それから立ち上がり、持ち上げ、自分の頭上でヴァンクーアをぶんぶん振り回した。
どれほど重く長く巨大な旗であろうとも、旗手の力が十分であれば、一端を持つだけで振り回すことは可能だ。また、どれほどヴァンクーアの筋肉が肥大化しようとも、その筋力が凄かろうとも、生物は生物である。同じ体積の鉄の塊よりは、遥かに軽い。ヴァクーアの腕力とも脚力とも勝負せず、ただ持ち上げるだけなら、難しくはない。
なので、ヴァンクーアには及ばずとも身体能力を大きく高めている今のテレイシアなら、振り回すことは充分できる。大きな大きな円軌道でぶん回したところで、テレイシアは手を放した。ヴァンクーアの体が、虹のような弧を描いて飛んでいく。そこへ、
「雷の神様、御力をっっ!」
チャンスを待って術の準備をしていたカナエが、真上の天頂を指し、それからその手を振り下ろして、落下していくヴァンクーアを指した。他の三人は気づかなかったが、いつの間にか出現していた局地的な黒雲から、カナエの手に引っ張られるように落雷が奔り、ヴァンクーアに命中した。
雷撃の閃光に包まれたヴァンクーアの、苦悶の声が轟く。かなりのダメージになったようだ。
テレイシアは無我夢中で、ただ高く遠くへ投げたつもりだった。その方向には流れの速い川があり、その先には滝があるらしい音も聞こえるから、高所からの落下の衝撃で溺れ流されるかも、という淡い期待だった。そこへ、カナエの追撃が入ったのだ。これが深手になっていれば、それで死なないまでも、溺れ流されの確率は大きく上がる。
だが。ヴァンクーアは全身を焦がしながらも、カナエたちを睨みつけて、モンスターもかくやの力強い咆哮を上げている。空中で姿勢を整えようと動いているのが、遠くからでも見て判る。落雷の直撃でも、まだあの肉体はしっかりと機能を保っているのだ。
落ちていく先が川である以上、一度水没はするだろう。滝が近いので流れはそこそこ早いが、それだけだ。ヴァンクーアが動けるなら泳いで、あるいは浅ければ川底に足を着けて、こちらへ歩いて戻ってくるかも知れない。
カナエは歯噛みしている。
「やっぱり、弱いっ……! 今のわたしでは、あのバケモノに致命傷を与えられない……」
その時。森の中から、一条の旋風が飛んだ。「一条」の「旋風」というのは妙なものだが、そうとしか思えないものが飛んだ。確かに旋なのだが、それが細長い。
アキカズには、見覚えがある。
「あっ! あれは……」
その声が終わる前に、二条目三条目が続けざまに飛んだ。それらは、落下途中の姿勢制御で精一杯のヴァンクーアの、顔面に突き刺さった。立て続けに、三本が。
ヴァンクーアがいくら巨体とはいえ、腕の太さや脚の長さや胸板の厚さはともかく、頭部はそうそうバケモノになれるものではない。目はどうあっても眼球以外にはなれず、鼻には穴が空いている。筋肉や骨のような強化はできない。
そこに、巨大な狼の頭部を破砕できる矢が三本、命中したのである。流石に、眼球そのものや鼻の穴の中にグサリと刺さったわけではないだろうが(距離があるのでそこまではアキカズたちにも確認できない)、なにしろ破壊力を帯びた旋風を纏う矢である。頬にでも刺されば、そこで巻く風が眼球にも視神経にも鼻の穴にも気道にも押し込まれる。斬り裂かれる。壊される。
ヴァンクーアの顔面から大量の血しぶきが爆発的に舞った、直後、大きな水音と水柱を上げて、その巨体は水没した。
視界と呼吸とをぐちゃぐちゃにされた上で、流れの速い川に落ちたのである。こうなると、水泳の達人であっても泳げはしないし、どれほどの体力や筋力があろうとも活かせない。酸素がなければ、筋肉は充分に動かせない。口や喉を潰されては、魔法の呪文だって唱えられない。
ガボゴボガボゴボと、大量の空気と水とを巨体の強靭な肺に出し入れしてかき混ぜる大きな音を立てながら、もがくヴァンクーアの体が流されていく。アキカズたちは川沿いに走ってそれを追ったが、川はすぐに途切れた。そこにあったのは、思っていた以上に落差のある、滝。
「ゴアアアアアアアアァァァァ……!」
顔面が血まみれ、というより頭部全体がデコボコになったヴァンクーアが落ちていく。
しばらく、四人で上から見守っていたが、滝壺に落ちたヴァンクーアの姿を見つけることはできなかった。だが、落ちたことは間違ない。そして、浮かび上がってこない。
死んだか、仮に生きていたとしても、再び戦えるようになるには時間がかかるだろう。ドーラッグをまだ持っているかも知れない、どれほどの効果があるかも判らないが、かなりの重傷を負っている。体力だって極度に消耗しているはずだ。
とアキカズが思ったところで、テレイシアがふらついた。もう光の炎も消えており、表情からも闘志が抜けている。というより、既に半分眠っているような目だ。
「……っ……」
倒れかけたテレイシアを、カナエが抱き支え、メルが駆け寄った。カナエはテレイシアの顔色を見て、呼吸を聞きながら、そっと横たえて自分の膝枕に寝かせ、その頭を撫でた。
「大丈夫。疲れているだけよ。久しぶりに全力で必殺技を使ったらしいから、その反動でしょうね。……森羅万象山川草木、全ての命の神様……」
カナエの手から柔らかな光が溢れ出し、テレイシアに降り注ぐ。
それは日の光に似ていて、明るいが眩しくはない、力強いが熱くはない、命を育む暖かな光であった。
「……ん……ぁ」
テレイシアの目に精気が戻り、自分が横たわっていることに気づくと、体を起こした。
メルは心配そうにしているが、テレイシアはすぐに立ち上がり、頭を振って肩を上下させると、軽く笑顔を見せた。
「もう平気。カナエが言ってた通り、久しぶりに気合の精霊術を使って、ちょっと疲れただけだから。って、ね。ちゃんと聞こえてたのよ。気絶してたわけでもないの。だから心配しないで。ありがとね、カナエ」
「どういたしまして。でも、こういった術での回復は、いわば開いた傷口に蓋をして出血を抑え、足が折れたなら杖を与えたようなもの。動けはするけど、しっかり休養しないと本当の回復にはならないから、無理はしないでね」
メルは深々とカナエに頭を下げている。テレイシアが大事ないようで、アキカズも安心した。
安心して、アキカズは考える。ヴァンクーアが戦えない今の内に、この山の異変を治めることができれば、全ての精霊力・神通力が回復する。テレイシアもメルもカナエも、本来の力を振るうことができる。そうなれば、再度ヴァンクーアと戦うことになっても心強い。全員で戦えば、次こそ息の根を止められるだろう。
そう、全員で戦えば。そう思いながら、矢の飛んできた方向を、アキカズは見る。
「相変わらず、見事だった」
「あいつが全く移動できず、姿勢的にもダメージ的にも防御が困難、という状態を作ってもらえていたから。そして私が、物陰から落ち着いて狙いを定めることができたから、ですよ」
といって歩いてくるのは、弓を手にしたルノマだ。カナエたち三人は初対面なので、アキカズが既に一度、助けてもらったことを三人に説明し、互いの名を伝える。
だが、テレイシアたちのことを全てルノマに言ってしまっていいものか? と思ってアキカズが言い淀んだところで、メルが自分から言った。
「詳しい自己紹介は後にして、やるべきことをやっておきましょう。今のお話によると、貴女はモンスターを召喚する魔法陣を探し出せる、とのことですが」
「はい。ただ、思っていたより強固で、私では壊すことはできませんでした。こちらのものを皆さんと協力して破壊できれば、それから改めてあちらに向かおうかと」
「あちら、つまり結界側にあった方はすでに見つけてあると?」
「はい。この山のリューミヤク二か所にそれぞれ、あることは判っています。おそらく、その二つだけであろうことも」
リューミヤク、という言葉を出されて驚くメルに、ルノマは言った。
「完全ではないでしょうが、現代のエルフにも古代のことは言い伝えられています。私は特に、旅の中でいくつものエルフの里を巡り、色々な話を集めましたからね。例えば今、人間社会で言われている【モンスター】という名の、由来というか解釈についてなど」
「……魔法陣の場所に行きましょう。案内して下さい」
「はい。すぐそこです」
メルに促され、ルノマが歩き出し、テレイシアもそれに続く。少し遅れて、アキカズとカナエが後ろを歩いている。
エルフ同士の空気に、ちょっと入りにくそうなものを感じたからと、話の確認だ。
「カナエ」
「何?」
「モンスターの名の由来って、知ってるか?」




