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カナエがメルとテレイシアに合流した頃。アキカズはまだ三人からは遠いところで、山を駆け上っていた。比較的視界が開けていた場所で、カナエが降りていくところを確認できているので(カナエもそれが解っていたからそのタイミングで降りた)、方角も距離も掴めてはいる。だが、やはり武装しての駆け足登山はきつい。
しかし、あの異常な咆哮。二人のエルフと、加えてカナエにも、今、危機が迫っているかもしれないのだ。急がねばならない。
そうして急ぐ途中で、アキカズはあることに気づいた。
「ん? ここは……そうだ、あの結界」
カナエが見つけ、アキカズが入口を開いた、タ・イーム・マッスイィーンとかいう結界。アキカズはいつの間にか、その場に来ていた。
とはいえ今、アキカズの前に広がるのは、何の変哲もない山中の風景だ。アキカズには何も感じ取れない、見えない、もちろん結界内には入れない。テレイシアとはついさっき会ったし、そのテレイシアの話からすると、メルもここにはいないはず。つまり、誰もいない。
となると。まだまだ正体も目的も不明な「敵」がそれを知れば、留守を狙って、アキカズやカナエがやったように、結界に入ろうとするかもしれない。もしもそれで、マッスイィーンが奪われるとか、壊されるとかすれば一大事だ。
そう思ったアキカズは足を止め、目を凝らし耳を澄まし気を張り巡らせ、辺りを探った。
「……」
周囲に怪しい気配はない。だが、いつ来るか判らない。できることなら二人が帰って来るまで見張りをしたい。しかし、その二人の身が高確率で危険な今、ここにじっとしているわけにもいかない。
とりあえず、結界は隠されているのだ。一度は少し弱ったが、もう結界の機能は回復している、とカナエは言っていた。「敵」が何者であれ、そうそう簡単には手出しできないだろう。
それを信じるしかない。とアキカズは思い至り、後ろ髪を引かれつつも走り出そうとした。が、その足は止まる。
「やはり、そうか。あの異常な咆哮は仲間を呼び集めるものだった。だから、それを聞いた仲間たちはあの地点へ向かう、と」
アキカズの前方、その視界を右端から左端へ横切るように、山の麓方向から頂上方向へと、駆け上がっていく狼の姿があった。アキカズがカナエをお姫様抱っこして跨っても楽に走れそうな、軍馬のような巨躯と脚の長さ、それに見合う筋肉を備えた狼である。狼の牙に馬の力、なかなか強力そうなモンスターだ。
今はアキカズには気づかず、あるいは無視しているのかもしれないが、ただ走っている。向かう先は、あの咆哮が聞こえた方角であり、カナエが舞い降りた地点でもある。
となれば、行かせるわけにはいかない。アキカズは刀を抜き、わざと大声を上げて、狼に向かっていった。
狼はすぐに気づき、アキカズの方を向いて牙を剥いて、襲いかかってきた。外見からの予想通り、かなりの速さで駆けるモンスターだったが、それぐらいはアキカズも予想済みだ。刀を手にして走るアキカズの、その眼に捉えられぬほどの速さではない。
『よし。これなら、やれる!』
デコボコのある斜面が足場、という程度の条件の悪さは問題にならない。最初に戦ったモンスターである双頭蛇の鷲の飛行速度はかなりのものであったし、ヴァンクーアが振り回す剣はリーチもパワーも凄かった。地を走る、素手の狼が、彼ら以上に厄介な相手とは思えない。
敵の動きを冷静に見据え、アキカズは攻撃に出た、真正面から来る狼に向かって、その眉間を貫くように刀を突きだす。狼はそれを大きく跳躍してかわし、走ってきた慣性に乗って、上からアキカズに噛みつきにきた。
だが、それもアキカズの手の内。アキカズは突きの形から刀を引かず、ただ刃を上に向けて、振り上げようとした。狼の腹か喉か、悪くても脚は斬れる。そのはずだった。が、
「何っ?」
突如、狼の背から、アキカズの腕ほどもある太さの触手が、五、六本ほど生えた。蛇のようにうねるそれは、狼自身の脚よりも遥かに長く、そして速く、本体の落下速度を追い抜いて下方へと伸びていく。そこにあるのは、刀を握っているアキカズの手、腕。
全く予期していなかった事態に、アキカズの反応が遅れた。咄嗟に刀を引こうとしたが間に合わず、うねうねと柔らかそうな見かけによらず力のある触手によって、両手両腕をガッチリと絡み取られてしまった。
刀は剥き出しだが、腕を固められてはどうにもならない。押しも引きも振りもできないのでは、どんなに鋭い刃でも攻撃には使えない。
アキカズは咄嗟に、体を後ろに倒した。背中が地面と平行になれば、必然、真っ直ぐ突き出した形で固められた刀の先端は、垂直に上を向く。狼の方に向かう。
だが、それで串刺しになるほど狼も馬鹿ではなく、アキカズの腕に絡めた触手に力を込めて押し、体をずらす。地面に背中を着けた、仰向けに倒れたアキカズから見れば、まるで巴投げをしたように狼の体が頭上方向に縦回転し、くるりと体勢を整えて着地した。
お互いの攻撃をかわしあった両者が、再び立ち上がって対峙する。どちらも無傷だが、この攻防の前と比べて大きく違う点がある。アキカズの両腕に、まだ長い長い狼の触手が絡みついていることだ。
刀での攻撃を封じながら、狼が再度、跳びかかってきた。アキカズは足を左右に大きく開き、腰を深く落としてどっしりと構える。迎え撃つ体勢だ。
アキカズは剣技の補助として、格闘技の修行も積んでいる。剣技を封じられても、戦う術はあるのだ。
跳びかかってきた狼の、大きく開かれた口。それを見上げてアキカズは、もともと落としていた腰を更に、殆ど座り込むほどに落とした。そして、気光の輝きを刀ではなく頭部、額よりも少し上、前髪の生え際辺りに集中させて……
「っせええぇぇい!」
狼の顎を、斜め下から頭で突き上げた。いわゆる「頭突き」とは少し違う、ニホンでは神事にも繋がる古い武術の、「ぶちかまし」という技である。
アキカズに噛みつくため、狼は大口を開けていた。つまり、下顎には力を込め、下へと押し込んでいた。そこへ硬く重いもの(気光をこめたアキカズの頭部)が突き上げられたのである。
顎の骨が砕ける、とまではいかなかったが、それなりの手応え、ならぬ頭応えをアキカズは感じた。狼の口は強制的に激しく閉じられ、歯の二、三本ぐらいは折れたらしく、ひしゃげた悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
狼に隙ができ、触手の締め付けが弱まったので、アキカズは素早く腕を抜いた。これでようやく、刀を自由に操れる。
狼は血を吐きながらも空中で姿勢制御し、降り立った。血を吐いたといっても、攻撃されたのは口だけで、内臓にダメージを受けたわけではないので、深手ではない。
とはいえ今の一発は、狼を怒り狂わせるのには充分だったようだ。遠くからでも判るほどに狼は眦を上げ、一段と激しい雄叫びを上げ、再度アキカズに向かってきた。背中の触手をこれ見よがしにうねらせて。
だが、アキカズは落ち着いている。先程は、全く予想外の触手の出現に驚いて不覚をとったが、一度知れてしまえば、どうということはない。あの触手の動きは速くないし、本数も知れている。次、かかってきたら、巻き付かれる前の一瞬で全てを切断する自信はある。
触手以外の、触手とは全く別の、触手以上の隠し玉はあるまい。この狼は、仲間だかボスだかに呼ばれて駆けつける最中なのだ。さっさと目障りな邪魔者を片付け、背後を突かれる憂いをなくして、目的地へ向かいたいはず。そんなこいつが、出し惜しみをするとは思えない。
次の一手で勝てる。そう確信して、向かって来る狼に対してまっすぐ駆けだしたアキカズの、
「……!」
後方から獣の声が聞こえた。今、前方から聞こえているのと同じものだ。
一瞬後には前方の狼が間合いに入るので振り向くわけにはいかない。だが間違いなく同じ声だ。つまり、同種の狼。
今ここで、前方の狼を斬りつけたら。その一発で狼の首を飛ばせたとしても、同時に背後の狼からの触手がアキカズに到達する。背後から四肢を固められ、背後から首筋に噛みつかれでもしたら、それで終わりだ。殺される。
振り向いて背後からの狼に向かっても同じこと。正面の狼だって、無傷同然なのだ。前後逆で、同じ展開になるだろう。
こうなれば選択肢はひとつ。前でも後ろでもない、横に走って、両方の狼から均等に距離をとることだ。だがそうなると、目前の一手は凌げても、次の一手では二匹同時に相手をすることになる。一匹なら、全ての触手を一瞬で斬り払う自信はあるが、二倍となると苦しい。
だが、他に方法はない。アキカズが覚悟を決め……
「あなたは後ろを!」
遠い、横方向から、鋭い女性の声が飛んできた。




