後編
呆然と鏡を見つめていても仕方がない。
頼子はふらふらと芙由の元へと戻る。
「ごめん、体調悪い。帰るね」
「え! 頼ちゃん大丈夫!?」
「その既婚男、今呼び出してきてくれるのかな。来てくれたとして身重の奥さんほっぽいてよその女を優先する奴ってことだよね? そんな無責任な人ってことだよね?」
「大事にするべき人より、私のことを大事にしてくれるってことだよね?」
話が通じない。
これ以上は無理だと判断し、頼子は千円札を二枚財布から取り出して、芙由に渡すと逃げるようにその場から立ち去った。
『大丈夫?』
とだけ書かれた芙由のメールは既読スルーしておいた。
家でも会社でも何を食べても何を飲んでも味がしないのは変わらなかった。
当然食も細くなった。味がないものを無理やり食べてもつらいだけだ。
感染症を疑い検査をしたが、陰性。
「心因的なもんかなー」
自分の状況を鑑みて、頼子はそう判断を下す。
昼休みだが、食欲はない。味がしないゼリー飲料を無理やり飲み下してデスクに戻る。
今日は昼休み中の電話当番だ。
電話が鳴るたびに「死ね!」と呪いをかけながら電話に出る。
昼休みぐらいみんな休んでほしい。
今日もぐったりだ。
不在者あての電話に「折り返し」を伝え受話器を置く。
(いねーのわかってんだろーがよ! 携帯かけろ、番号知ってるって言ってたぞ、この間!)
全てが憎くて、ひたすらつらい。
「佐藤さん」
同じ部の後輩女子が頼子の横に腰を下ろして、こっそり話かけてくる。
気遣いのできる可愛い後輩だ。頼子がそう育てた。これはひそかな自慢だ。
「あの、佐藤さんが不倫相手にふられたって噂が流れてるんですけど、心当たりあります?」
気遣いができるから、普通の声量ではなく昼休み中にこっそり確認してくれる。
自分の育て方は間違いではなかった! と胸中で二、三度頷いてから頼子は今の質問内容を分析する。
(誰だそんな噂流してるやつ!!)
「え、全然、心当たり、ない……、」
「佐藤さん最近元気ないんで、色んな憶測が飛び交ってるんですけどー……、やっぱ違いますよね。ちょっと聞き込みしてみます」
後輩はできる後輩だ。
社内の同年代ネットワークをちゃんと構築して、独自の情報網を持っている。
ちなみに頼子も同じようなネットワークを構築しているが、構成員は課長以上管理職だ。おじさんばかりの情報網。社内の派閥やら人事やらには明るいが、こういう噂話にはとことん疎い。
だから後輩のような人材は超貴重だ。
「助かる、ありがとう」
「いえいえ、いつも助けられてますんで!」
こういう社内サバイバルも先輩に教わったのだ。頼子は教わってきたそれを惜しげもなく後輩に伝えてきた。
仕事は単純で、誰でもやれる仕事だが、こういう技術は長くいなければ身に付かない。
(結婚せずに長く居るのも悪いことじゃないんだよね)
そんなことを思いながらも、頼子の中で闘争心が高まっていくのを感じた。
普段の頼子はこの上なく平和主義だ。
一方的に非難されてもニコニコできるし、謝りもする。
だが、怒る時はちゃんと怒る。
(不倫してんのは私じゃないし!)
「部長、お話があります。どこかで時間をいただけませんか」
メールで伺いをたててもよかったが、口頭で伝えた。
今日はアポもなかったはずだし、会議もない。全部確認済み。
怒れる頼子は自分の使える手は全て使い、自分の思うようにことを運ぶ。
疲れるからよほどでないと使わない手だが。
「どうしたの、頼ちゃん」
部長は入社当時の頼子を知っているので頼子のことをそう呼ぶ。
今日の情勢からセクハラと訴えられかねない案件だが、頼子は別にいいと思っている。地方都市の中小企業などそんなにコンプライアンスは機能していない。だから不倫野郎がいるのだ。始末してやりたい。
会議室に入って、部長と対面。
緊張などしない。
「それがですね、ぶちょー、私が不倫して失恋したって大変不名誉な噂が流れちゃってるんですよー」
「はあ? 頼ちゃんが不倫!? ……無理でしょ」
「言い切られるのも……なんか微妙ですけど」
部長とは腹を割って話す仲だ。お互いの為人はばっちり把握している。
頼子の倫理観念は部長もよく知っているはずだ。
「不倫できるぐらいなら、その前に結婚できてるよ」
「それをセクハラっていうんですよ!」
「あ、ごめんごめん。じゃあそれとなく噂は消しとくから」
「頼りにしてます」
「ほんとでも頼ちゃんさー、そろそろ結婚したら?」
「できないって言ってんですよ! セクハラですよ! ホント。社長に言いつけますよ!」
「頼ちゃん本当に言いつけるから」
(……コンプライアンス部を勝手に立ち上げてやろうか)
一応社内にあるはずなのだが、コンプライアンス委員会。
今の頼子ならやれそうな気がした。
「佐藤さん、噂の出どころわかりましたよ。肝田さんです、営業の」
「……ほお」
頼子が席に戻ると後輩が相談を装って、報告にやってきた。
先日のトナー交換監督不倫疑惑先輩だ。
「なんか、佐藤さんああ見えて意外と既婚者好きぽいみたいなことをちらっと言ってたみたいです。佐藤さんが元気ないのは失恋のせいじゃないかって憶測と交じり合って、大変不名誉な噂になっちゃったみたいですねぇ」
後輩は仕事ができる。
(あれ、私、忍者を育ててる?)
後輩の仕事の速さに舌を巻きながらも、頼子はふと疑問を抱いたがあまり考えないことにした。
戦国時代でも、現代でも忍者は喉から手が出そうなほど欲しい人材なはずである。情報を制するものは戦いを制すのだ。会社で戦いってあるのだろうか。
と、内線電話の呼び出し音がなる。
後輩にありがとう、と伝えて頼子はさっと電話を取った。
「佐藤です」
「あ、佐藤さん、またトナー切れちゃってさー」
噂をすればトナー交換監督からの内線だった。
まず名前を名乗れ、と反射的に思ったが今はそれは置いておく。
「あーすみません、私今部長に呼ばれてまして(嘘)ちょっと手が離せないんで(嘘)周りの人に聞いてやってみてください! 大丈夫、前回教えたとおりにやってもらえれば! 簡単ですよ」
ガチャ切り。
「都築さん、営業の肝田さんだけど」
席に戻った後輩に、頼子は普通の声量で告げる。周りに聞こえるようにわざと。
「なあんか浮気相手探してるっぽいんだよね、同期の子たちに気を付けるように言っといた方がいいかも」
「そうなんですか!」
後輩も多分わざと大きな声で答える。さすが後輩。わかってる、と頼子は感動した。
「それはちゃんと大々的に伝えないとですね」
「お願いします。間違いが起きたらみんな不幸になるんで」
(社内でこんな会話が飛び交う時点でヤバい会社なんだけど、まあいいか、これで)
別に泣かされたわけでもない。ただターゲットにされただけだ、遊び相手の。
不快は不快だったがこれ以上の報復は痛み分けになる。まだこれから先も同僚としてやっていかなければならないのだから円満に終わらせたい。
ビール瓶片手に手酌飲みする大好きな先輩の教えの一つだ。
(先輩、私、先輩の教えを胸に、頑張ってます!)
頑張りすぎてどこを目指してるのか最近よくわからなくなってきたが、頑張っているのは確かだった。
(芙由の方はどうしようかな)
頼子は椅子に座ってキーボードに触れてしばし考えた。
(放置でもいいよな。あの生々しい話、多分心が拒否ってるからこんなことになっているわけで)
そもそも芙由はあんな馬鹿だったか。不倫すると頭が馬鹿になるのか、不倫という麻薬にやられたのか。
(もういいや、しばらく近づかないとこう。あれは劇薬だわ)
近づかないに限る。くわばらくわばら!
金曜日、朝から頼子は少しだけ怯えている自分を自覚していた。
ストレス源の芙由から連絡があるなら多分今日だ。
絶対断るつもりではあったが、名前を見るだけで心拍数があがりそうだ。
昼休み。ここ数日と同様にゼリー飲料を流し込んで昼食終了。やはり味がわからない。
味がしないのでこの一週間晩酌もしていない。素面状態がこんなに続くのはいつぶりなんだろうか。
自分のデスクに戻り、休憩時間が終わるまでスマートフォンでSNSをチェックして過ごす。
――と、着信があった。
うわ、と思わず跳ね上がりそうになったが、着信画面に表示された名前を見て落ち着きを取り戻した。
芙由ではなかった。
「突然呼び出してごめん! 約束してた相手がドタキャンしちゃってさー。頼子なら空いてるかなって思って!」
店に着いた途端、拝むように手を合わせ、頼子を迎えてくれたのは、芙由ではない友人、亜由美だ。
「いやいや、誘ってくれて本当に嬉しい! ていうか久しぶりに会えたの嬉しい!」
感動すら覚えながらも、頼子は既に店に到着していた亜由美の向かいに座る。
久しぶりの落ち着いた雰囲気に座るだけでもう落ち着く。
「亜由美先生、相変わらず忙しいんでしょ?」
「先生はやめてよー。まぁまぁね、最近は働き方改革とかって言ってるけどさ」
「うん、私には遠い異世界の話だけどね」
「学校にとっても異世界だわ」
亜由美はそう言ってあははと豪快に笑う。中学校の教員をやっている亜由美は高校時代の同級生だった堅実女子だ。
結婚経験者だが、唯一の離婚経験者でもある。
生まれてから低空飛行で人生を生きてきた自覚がある頼子からすれば、経験豊富な頼れる友人なのだ。会えて嬉しい、は心からの本音。
「同僚と飲む予定だったんだけど、急に生徒指導が入っちゃってさー」
「あらら、そういうのあるから大変だね」
「まあいつものことだしね。この店お酒美味しいから頼子が好きかなーって」
「思い出してくれて嬉しい! 本当に」
でもな、と頼子は思う。
味がしないからお酒も料理も楽しめないだろうな、と。
亜由美に会えただけでも、今日ここに来た価値はある。
「この店、果実酒美味しいの。果物っぽいの好きでしょ」
「そういえば、よく飲んでる!」
「自分のことなのに知らなかったの?」
さすが現役の先生である。人のことを良く見ている。
「じゃあ、あらごしみかん、ソーダで割っちゃおうかな」
「私は初っ端から日本酒飲むか」
「かっこいい!」
二人してケラケラ笑いながら注文をする。食事も適当に頼む。
すぐにお酒と突き出しがテーブルに置かれた。
突き出しはシンプルに枝豆だった。普段だったら嬉しかったと思う。
「お疲れー!」
「おっつー!」
乾杯をして、みかんのお酒を飲む。
(あれ?)
「美味しい!!」
思わず大きな声をあげてしまい、頼子は慌てて口を押える。
静かな落ち着いた雰囲気だ。大声はマナー違反である。
「それさ、前飲んだけど、日本酒のリキュールなんだって。ジュースみたいに口当たりがいいし飲みやすいよね」
「うん、みかん、美味しい。ちゃんと、みかんの味も、アルコールの味もする」
「アルコールの味って」
あはは、と笑い声をあげる亜由美に断り、突き出しの枝豆にも手を伸ばす。
両手の指で殻を押して飛び出してきた豆を口で迎える。
絶妙な歯ごたえと、強めの塩。
「こっちも美味しい」
「そんなに感動してくれると誘った甲斐があるというもんよ」
「ほ、ほんとに、美味しいよ」
ぽろりと、頼子の目から涙がこぼれた。
「え、ちょ、泣くほど感動するかー!?」
「だって、美味しい。美味しいよぉー」
一口しか飲んでいないから全然酔ってないのに、一旦堰を切ってこぼれた涙は止まりそうにない。
頼子は泣いた。思いきり泣いた。一応声は抑えた。
「うううう、美味しい。お酒も、枝豆も、美味しいよぉ!」
「うんうん、美味しいね」
「ちゃんと味がするし、落ち着いて飲めるし、美味しいよぉぉ!」
「そうだね、ゆっくり飲みなー」
亜由美は慌てることなく、ゆったりとした口調で頼子の言うことをただ同意してくれる。
それが心地よく、頼子はしばらく泣き続けてしまった。
「いやあ、ホントごめん。迷惑をおかえけしました」
「なんかストレスたまってるみたいじゃない。仕事?」
「えーと、実は」
正直に話すかどうするか少しだけ考えて、亜由美なら大丈夫か、と話をしてみることにした。
「ここ一ヶ月近く毎週芙由と飲んでて」
「芙由と? 珍しー。ああ、彼氏自慢でストレスマックス?」
「さすがに彼氏自慢だったら微笑ましく聞けるよ。さすがに」
「あ、そっか、頼子はそうだよね」
じゃあ何、と問われ、個人情報だからさ、と頼子は切り出す。
「何か芙由、不倫地獄に片足突っ込んでるみたいで」
「不倫地獄?」
その単語に亜由美の顔色が変わった。頼子はそれに気づいたが、気づかないふりをして話を続けた。
「悪いことなのはわかってるんだけど、好きなのは止められないって、ずーっと同じことをぐるぐる言ってて、聞いててつらい」
「ふうん」
「話聞いて、さすがにと思って諭してたらさ、お酒もごはんも味がしなくなってて」
「うんうん」
「何を食べても味がしなかったのに、久しぶりに美味しいのがわかって、はー何か泣けちゃった」
もう一度ごめんね、と頼子が詫びると、料理が運ばれてきた。
浅く漬けた白菜に韓国のりを和えたサラダと大根の煮物を揚げた大根カツだ。
「大根カツおいしいから、まずは熱いうちに食べなよ」
「じゃ遠慮なく」
亜由美に勧められるがままに頼子は大根カツに手を付ける。乱切りされた大根にパン粉を付けて揚げたという感じの外観のものを箸で口へと運ぶ。
口に入れると熱さの中から出汁の味がしみだしてきて、衣にじんわりと染みるように口の中で混ざり合っていく。
「うぉおおお」
「何その反応」
亜由美に笑われて、頼子も笑った。
「だって、これ、めっちゃ美味しい! 大根の可能性を感じる」
「大根はねえ、宇宙の可能性だから」
「野菜なのに揚げるとメインを張れるね」
「そう、でも肉よりヘルシー」
「最強!」
「そう最強」
みかんソーダをごくごく飲んで、今度はサラダにも手を伸ばす。
浅付けに、ごま油風味の海苔が多めに和えてあって、食欲をほどよく刺激する。
パリっとした白菜漬けの歯ごたえも楽しかった。
「やばーい、美味しい」
「やばいとしか言えなくなるの、わかる」
感想に同意してくれるのはとても大変嬉しい。
頼子はちょっとお酒が回ってすっかり上機嫌になった。好きな酔い方だ。
「あ、頼子、ここね、日本酒自慢なんだけど、おすすめは梅酒。日本酒に漬けてあるやつ、絶対好きだと思う」
「へえ、頼んでみる」
亜由美おすすめのお酒と、ちょっと肉系の料理を追加注文する。
「いいお店知ってるね、さすが」
「お褒めにあずかり光栄の至り。で、何、芙由、不倫してんの?」
「あー何か二番目の女でもいいとか言いながら奥さんに怨嗟をまき散らしてたよ」
「怨嗟って。感想が『やばい』しか出てこない人と同じ口から出た単語だとは思えないわー怖い」
「あの子、可愛いのになあ、なんでそうなるんだろ」
「背徳感とかね、変な麻薬なわけよ」
亜由美がため息交じりに言う。
「私、みんなに離婚原因言ってなかったと思うんだけど」
「あ、うん」
『離婚したんでよろしく』だけの報告だったように記憶している。
皆大人だ。自分から言ってことないことを無理やり聞き出したりはしない。
亜由美は確か職場結婚だったな、と頼子はかなり昔の記憶をたどった。結婚式をやらなかったので、旦那さんだった人と面識はなかった。
「元旦那の浮気なの」
「うそ!?」
叫んでしまい、慌てて声を抑える。
「亜由美が奥さんなのに?」
「元奥さん」
「あ、はい」
訂正してくる亜由美に、これは相当わだかまりがあると頼子は読んだ。
「卒業生に誘われてふらっといっちゃってねー」
「ふらっと。……現役生徒でなくてよかったね、で良い?」
「そうそう、正しい認識」
亜由美は感心したように言って、お猪口に口をつける。冷酒だ。
(美味しそうに飲むなあ)
話題とは違うことをぼんやりと考えて、頼子はあらごしみかんソーダを飲み干した。
「でまあ、修羅場」
「修羅場」
「その後、離婚。元旦那と教え子不倫ちゃんからたっぷり慰謝料をむしり取ったよー」
「むしり取る……!?」
「最終的に、貯金増えて身軽になってオールオッケイ!」
「そう、だったんだ。知らなかったとは言え無神経な話を――」
「あ、いいのいいの、昔の話だから」
あっさりと首を振るが、頼子はそれが亜由美の強がり半分なのがわかっていた。
注文したお酒と料理が来た。
梅酒だ。すぐに一口飲んでみる。
「おお、まろやかな! 確かに違うね、日本酒!」
「それ美味しいよね」
「すごいな、こんないい店よく知ってるよね」
「それ二回目だから」
お酒に舌鼓を打てばまた和やかなムードが戻ってくる。
豚バラネギまの串焼きも串にさしたまま豪快にほおばる。
「そのままいくのか、漢か!」
「漢字の漢でおとこと読む」
塩のおかげか豚バラの油が気にならない。そしてネギ。さっきから歯ごたえがたまらない料理が多くて感動しきりである。
「芙由に説教しとこうか?」
「現役教員の説教? 怖そう」
「専売特許だから」
ちゃんと恋愛して、結婚して、修羅場って、離婚した亜由美の経験値は、芙由のそれよりははるかに高い。
亜由美に話をしてもらえば芙由などひとたまりもないのは簡単に想像がついた。俺Tueeeプレイだ。
だけど、と頼子は思う。
何を言っても全然話が通じないからもう放っておこうと思った。
ただ、このまま放っておけば芙由は負のスパイラルに堕ちていくことは確実。
そして、亜由美の元夫とその不倫相手のように全てをむしりとられて、ぽいっと捨てられるのだろう。周りから。
(でも、今ならまだ間に合うんだよねー)
そう、まだギリギリセーフだ。かなりアウト寄りだが。
もし、芙由がむしりとられてボロ雑巾みたいになったら、頼子は今までのように美味しくお酒を飲むことができるのだろうか。
(一応相談相手に選んでもらったんだから)
「私、もう一回芙由と会ってみる」
「健康被害出てるんだから無理しない方がいいよ」
「亜由美に会って元気チャージしたから大丈夫」
ちゃんとご飯も美味しい。お酒も美味しい。楽しく酔える。
駄目になっても、復活できる。
そんな小さなことが頼子の勇気につながる。
「今、私、戦闘モードなんだよね!」
会社でも小さい勝利を得たのだ。ここまできたら「やっちゃえよ!」だ。
頼子はいつものことながら酔っていた。酔っていたから強気になれるのだ。
「そっか。何かあったらちゃんと声かけてよ」
「ありがとう亜由美先生!」
惜しみながらも亜由美と別れた後、スマートフォンを見れば、予想通り芙由から何件か不在着信通知があった。
頼子は躊躇うことなく、着信通知にリダイヤルする。
「あ、芙由? ごめん、ちょっと用事があって電話出られなくてさ。明日、昼間空いてる? たまには私にも付き合ってよ、話はちゃんと聞くからさー。ほんと! やったー。じゃあよろしくね!」
電話を切って、頼子は大きく息を吐き出した。
これで、よし。勝負は明日だ!
「え、それで芙由連れてどこに行ったの?」
久々のいつものメンツでの飲み会だ。
頼子と同じ酒量飲める声優オタクと、下戸だけど飲み会の場が好きな大食漢と、頼子の三人組。
行きつけの飲み屋で、バーニャカウダソースをかけた野菜スティックを素手で摘まみながらテーブルを囲む。
やはりこのメンバーが一番落ち着く。ホッピー片手に頼子は口元が緩むのが止まらない。
アルコール度数が低いため、ビアテイストとはいえほとんどジュースだ。酔いが回るのが遅い。
「お見合いパーティー」
「おみパ!?」
「私が経験がある出会いの場ってそれしかなかったから」
「何でその発想……」
友人たちが微妙な顔つきになる理由はよくわかった。
頼子だって、今でも本当に良かったのかと自問したくなる気持ちはある。
でもあのまま放っておくよりは何かやった方がいいのは間違いない。話合いが無理で他の何か、で思いついたのがそれだ。
「でもさ、すごかったよ。前に行ったときに一人の美人さんに人気集中してたって話したでしょ。今回は芙由が入れ食い状態で見ててなんか誇らしくなった!」
「誇らしいって……」
「芙由ちゃん、見た目は華奢で可愛いからわかる気がする……!」
「プロフィールカードっていう、気に入った人に渡す連絡先と名前書いた紙も山のように貰ってて。フリータイムも次から次へと話かけられてて、モテ子の本領発揮って感じで」
すごかったよ、本当に! とあの場の空気を思い出して興奮気味に頼子は二人に伝える。他の参加者さんには本当に申し訳なかったとは思う。まさしくおみパ荒らしだった。
「芙由は結局誰ともカップルにはならなかったんだけど、ちやほやされたのが気持ち良かったのか『なんかあんなおじさんにのぼせ上ったのかわかんなくなった』だってさ」
「うわー……」
「見事なまでの豹変ぷり……」
自尊心が満たされたんだろうな、と頼子は思っている。
手段がどうであれ不幸になりかけた人が救われたのだ。今日も酒は美味しい。
「芙由はちょっとは痛い目にあった方が本人のためにもよかったんじゃないの? モテモテで終わるって、被害に遭った頼子がバカみたいじゃない」
頼子のことを想ってくれているからこそ友人の言葉はきつい。
「モテモテ無双できるのも、せいぜいあと2、3年でしょ。それまでに芙由が変わらなかったら、悲惨なことになるだろうし」
「はー、本当に頼子って……」
「私がやったのって、別に芙由を気持ちよくさせただけじゃないんだよね。ただ延命処置しただけ。私が本当にいい人だったら、ちゃんと亜由美に説教させてたと思う。亜由美だったら芙由がちゃんと反省するまできっちり説教してくれただろうし」
亜由美に任せなかったこと、それが頼子ができる精一杯の意趣返しだった。色々思うところもある。
ただそれは頼子の中で長続きはしない、ほんの一瞬の感情であるのも確か。
これで芙由がちゃんと考えて更生したんなら、もうそれでいい。
「で、頼ちゃんの今回のおみパの成果は?」
「割と近場に酒蔵見学できる場所があるって情報をゲットしたこと、かな?」
空気を変えようとしたのか、友人の期待を込もった質問に頼子は真面目に答えた。
「それさ、よかったら一緒に行きませんか? って遠回しなお誘いだった可能性は?」
「ないない」
自己紹介カードの『最近はまっている物・事』欄に正直に「日本酒」と書いておいたのだ。今回は芙由の引き立て役だから自分を偽る必要がない。酒蘊蓄のノイズも少々あったがわりと実のある情報交換もできた。そう思えば素晴らしい成果を収めたともいえよう。
「ま、それは置いといて、私、今回のことですごく大事なことを学んだ気がするんだよね」
「だろうね」
「頼ちゃんがお酒が飲めなくなるって相当だもんね」
「一応聞いてあげよう、何」
「一つ目、不倫、駄目、絶対」
当然だ。
友人たちも「そりゃそうだ」と頷いている。
不倫は色々な人を不幸にする。全然関係のないお酒を飲むことしか趣味がないアラサーにお酒を飲めなくなるような心身的ダメージを与えたりもする。
「二つ目、私、酔えればいいとお酒の銘柄なんでもいいと思ってたんだけど、味がないのは無理だったんだよね。お酒は味も大事」
「うん、そんなの前からわかってたよね」
友人は呆れ顔で言ってくるけれど、頼子にとっては大きな発見であった。そりゃ美味しいものは好きだけど、酔えるならなんでも、ではないと気づいた時には驚いたのだ。
味がわからないと酔えるものも酔えない。
「最後、美味しい酒を飲んで楽しく酔うためには、時には戦わなきゃならないってこと」
頼子がそう告げれば、友人二人は顔を見合わせあった。
「大げさな」
「ねえ」
「私にとっては重要なファクトなわけよ。美味しく楽しくはカンタンに享受できるものじゃないってこと。奪われないように戦わなきゃならないし、意外と戦えるなぁって気づけたのも大きいな」
「珍しく勇ましいじゃん、頼ちゃん」
「だから今日は勝利の美酒ってわけです」
一番楽しいお酒が飲める場で味わうそれは、心底楽しくて美味しい。
「いいんじゃない、頼子がそう思うんなら。やっすい幸せだと思わんでもないけど」
「まあまあ、頼ちゃんらしいじゃない」
二人とも口々に言ってから、同時に頼子を指差した。
『ホッピーは美酒じゃないでしょ』
声も見事に重なった。
「勿論、もっと強いのどんどん飲むよー、今日は飲むって決めてきたからね! 最後まで付き合ってね」
「しょうがないなー」
「送るから潰れるまでいっちゃいなー」
楽しい夜は、今日もそうやって更けていく。
三十路女三部作これにて完結。
※自分の中で勝手に三部作になってる※
お読みいただきありがとうございました。
「時には戦うことも大事」
これが全てです。
また機会がありましたら別作品でお会いできたらうれしく思います。