前編
「ごめんね、忙しい時に」
「いえいえ、これも私の仕事なんでー」
ニコニコ笑顔でコピー機のトナー交換をしながら、頼子は内心イライラしていた。
月初め、第三営業日が会社の締め日である。
色々と作成しなければならない書類に追われながらも、鳴り響く内線電話を取ってみれば、
『コピー機、トナー交換になってるんだけどー』
「知らん、自分で交換ぐらいしろ!!」
と、怒鳴り返せないのが頼子を頼子たらしめるものである。
「すぐ行きます~」
と返事をながらも、席を立ち呼ばれたコピー機へ直行。複合機が動かないと困るのは一人だけではない。
誰かがやらねばならないのだ。
「最近のコピー機ってすごくってー、交換トナーの段ボール箱にも、本体表示パネルにもわかりやすく交換方法が記入されてるんですよねー。私もこれ見ながらじゃないとできないんですけどね、えへへ」
背後で監督でもしているのか、棒立ちでただ見ているだけの男にそう話かけながらも、乱暴にバンと音を立てながら複合機のパネルを閉じた。
「お待たせしましたー」
「ありがとう、助かったよー佐藤さん」
「いえいえ~、今度やってみてくださいね! トナー交換! 簡単すぎてびっくりしますよー」
交換後のトナーをアルミの袋に雑に放り込み、段ボール戻しながら頼子はその棒立ち男に告げる。
営業部の頼子よりも少しだけ年上の男だ。一応先輩。これがお年を召した上司だったら「まあ仕方ねえな、アップデートできてないんだよな」と納得できる。というか、そういうお年を召した上司の方が説明書を見ながら自分で何とかする率が高い。
素直に「やってもらって申し訳ない!」と詫びを入れたくなるほどだ。
で、頼子よりも下の世代、若い連中も自分でやる率が高い。教えればすぐ覚えてやってくれる。
なぜか、頼子よりもちょっと上の世代だけ、やってもらって当然という態度でなぜか交換をする頼子の監督までしてくれるので癪に障るのだ。この会社だけかもしれないけれど。
頼子が一番尊敬していた先輩が、
「営業や現場の人は私たち事務のこと"ずっと室内にいて座って仕事できるんだから楽だよな"って思ってんだから、なるべくニコニコして、お願いされたら快諾して、そういう人たちをいい気にさせておいてあげれば仕事が円滑にいくから。それだけで信頼関係もできるし、ちょっと困った時もお願いが通るからね」
と、ビール瓶片手に自ら手酌しながら処世術を教えてくれたのだ。
「いちいちつっかかってると敵が増えるし、いいとこなしよ。笑顔なんて無料だし、戦って消耗するより嫌な思いも少ないし。たまにお菓子ももらえるし、お酒もおごってもらえる!」
「お酒も!?」
頼子はそこに食いついた。
「うまくやれば社長も会長も手のひらでころころできるわ。そう、佐藤さんなら絶対できると思うの! 一緒に頑張ろう!」
「はい!!」
入社して2年目、尊敬する先輩と語り合って頼子は自分の方向性を定めたのであった。
あれから7年。先輩は3年前に転職して去って行った。
なんでもできる頼れる笑顔の事務員、佐藤頼子(31歳)は締め日であっても笑顔でトナー交換に応じるのであった。
「そういえば佐藤さん、お酒強いんだって?」
「あはは、やだな、どこで聞いてくるんですか、そんな情報」
「俺さ、珍しいお酒取り揃えてるいい店を知ってるんだけど、今度一緒に行かない?」
誘われて、頼子はじっとそいつの左手の薬指を見る。確か既婚者だったはず、と思っての確認だ。薬指には指輪がしっかりはめられている。
独身でもこういう誘いをかけてくる奴は酒蘊蓄を思いきり語るタイプが多いので頼子としてはなるべく回避したい。
「私、質より量なんですよね」
「へえ、一度その飲みっぷり見てみたいな」
「そろそろ親睦会ですよね。今年はなんと、カニ! ですって!」
立場上知っていた情報を頼子は惜しむことなく提供する。
どんな手を使っても話は逸らす。
「あ、やばい! 私まだ伝票処理終わってないんでした! 今月件数多くて! じゃ、トナー交換、次回は是非チャレンジしてみてくださいね!」
早口でそれだけ言って急ぎ足でデスクに戻る。
既婚者の誘いはめんどい。あからさまに非難すれば「そんなつもりなかった」とか言われるのは目に見えている。
(はあ、そういう後腐れない遊び相手としては最適ってことか、死ね)
なんだか情けなくなった。
誰かの本命になることなく、こういう扱いを受けるとなると流石に落ち込む。
(大事にされたいだけ、なんていうつもりはない。もうそんなに若くないことはわかってる。お酒を! お酒を楽しく飲ませてくれる人だったら高望みはしない)
怒りにまかせて頼子がエンターキーを強くたたけば横にいた後輩がびくっと肩をすくませた。
結局残業か、と頼子は着替えながら小さくため息を漏らす。
残業は毎月のことだ。残業を前提とした仕事配分がおかしいと常日頃思っているが何も改善しない。入社時からずっとだ。
(まあ、いい。明日は金曜日だし)
この際仕事のことは頭から追い出そう。
いつもの通勤スタイル、つまり超カジュアルスタイル、もっと言えばニットとジーンズに着替え終えて、室内履きもスニーカーに履き替え、スマートフォンを取り出した。
何もないだろうな、と思ったが1件メッセージが入っている。
送り主の名前を見て、
(なんだろう激しく嫌な予感がする)
いつもつるんでいる高校時代の同級生グループメンバーの1人ではある。高校時代は同じグループで行動していたが、卒業後は1年に1回、会うか会わないか。
元々華奢でかわいい子だったが、大学デビューを経て彼氏を最優先するタイプに変身。彼氏は何度か変わったけれど、途切れることなくすぐ次の彼氏ができる、頼子たちのグループにはそぐわないほどのモテ子。
(そろそろ、結婚報告かな)
仲間内の『堅実美人』と『お母さん的な存在女子』の2人に結婚を先越されてから、ほどほどに疎遠になっていたが突然コンタクトをとってくるのはそれしか考えられない。
「今は、しんどい」
対する頼子はとにかくモテない。彼氏がいなかったわけじゃない。一回酒を飲み交わしたら彼氏から飲み仲間にクラスチェンジしただけだ。
『彼女にしとくのがもったいない』と言われたのは今でも黒歴史だ。ふつうは逆だろ。『友達にしとくの勿体ない』そういわれたら落ちる。絶対落ちる。
そのモトカレは今でも飲み友達だ。こちらも年に1度会うか会わないかだが。
向こうもフリーだが、『彼女は飲み活の足かせ』という言葉に既に恋心は爆破した。あまり頻繁に会わないのは泣き上戸だから。酔って泣くやつ面倒くさい。
そいつ以外に色っぽい話などなくこの歳になってしまった。なった挙句に既婚者の遊び相手に選ばれてしまった。超しんどい。
しんどいけれど、と、頼子は考えを改めた。
「人の幸せ報告は、周りを幸せにするもの! だから幸せのおすそ分けをもらいに行こう!」
酔っていないが、素面でも若干思考が酔いどれだ。
ちょうど明日はいつものメンツとの飲みの予定はない。珍しく二人とも都合が悪いらしい。
何より、頼子が思っている以上にショックが大きかったようだ。一人で飲みに行こうと思っていたが、一人で飲むには寂しかった。
『頼ちゃん 明日の夜暇だったら遊んで?』
というメールに対し、
『暇です。どこ行く?』
と返信を入れた。
「わあっ! 頼ちゃーんっ! 来てくれてありがとぉお、嬉しいよお!」
待ち合わせ場所で顔を合わせた途端、両手を包み込むよう掴まれ熱烈歓迎をされて、「なるほど、これが女子力か!」と頼子は素直に感心していた。
「芙由、待った?」
「ううん。今日ちょっと早く終わっちゃったから」
首を振って気を使わせないようにか言ってくる友人、芙由は普通に可愛い。
30越えてもかわいいのはなぜだろう。頼子は少しだけ凹んだ。
一応昨年末ボーナス様で購入したおしゃれなスカートとふんわりニットを着用してきたが、ファーのついた白いコートをかわいく着こなすこの友人の前では引き立て役にもなれない気がする。
「それならいいけど、どこ行くの?」
「今日はおしゃべりメインでいきたいから、にぎやかなとこがいいな」
「うん、じゃあ行こ」
で、なんでファミレスなんだろう。
心底疑問に思いながらも頼子は、ソファー席に腰を下ろした。
最近のファミレスは案内もなく好きなところに座っていいらしい。
ちょうど席が空いていてよかった、と芙由はかわいい顔で笑った。
(まあいっか。ファミレス飲みでも。安くてたくさん飲めるって天国じゃん!)
ポジティブなところが頼子の長所である。
テーブルに設置されているタブレットを手に取ろうとしたら、先に芙由が手にとった。
「頼ちゃん、何にする?」
「メニュー見ないとわかんないから、芙由が先に頼んでよ」
「あ、そっか。ゴメーン、いっつも注文係だったからつい」
ドジっ娘アピールと気の利くアピールもできるとは、恐るべし、これが女子力か……!
完全に打ちのめされて頼子は紙のメニューを手に取る。
多分本人からしたらいつもやっていることでアピールしているわけではないんだと思う、と自分に言い聞かせながら。
(お酒は意外に充実……! やるなファミレス!)
生ビール推しな雰囲気だが、ここはサワーでスタートを切ろう。
あとは定番のフライドポテトを頼んでおけば間違いない。
芙由から手渡されたタブレット端末で素早く二つを注文して、頼子は芙由を見た。
「頼ちゃん、全然変わんないね。高校時代に戻った気分になるー」
「そう?」
それは誉め言葉かくさしてるのか。正解がわからずただ曖昧に頼子は首をかしげるにとどめた。
なんだろう、愛想笑いをする気にもならない。
「まだみんなと集まってるの? みのりんにも会う?」
「みのり、は」
先日「女に生まれた時点で地獄!」と呪いの言葉を放ってきた、仲間内で唯一子持ちの友人の姿を思い出して少しだけ言葉に詰まってしまった。
「元気。子ども、かわいい」
何だか片言みたいになってしまったが、問題ないだろう。
別に芙由はそれを聞きたいわけではなさそうだ。何かを話したいが、いきなり本題というのも……、という遠慮なのはわかる。
「芙由、話したいことあるんでしょ? 彼氏となんかあった?」
前置きは面倒くさい。頼子は促す。早く頭の中がお花畑がハッピーな話を聞かせてもらって自分も幸せな気分に浸りたかった。
「うん、彼氏とは、あんま変化なしなんだけどぉ」
芙由は今の彼氏と付き合って5年目になるはず。記憶が正しければ、の話。
昨年会ったとき、「4年も付き合ってるのに結婚のけの字も出てこないよー」と嘆いていたんだっけ。
「逆プロポーズすれば」とか「結婚資金貯金すれば」とか「お試し同棲しちゃえば」などと多種多様な提案をされていたが、結局「でもでもぉ」と否定されて終わっていたはず。
多分、芙由は『ロマンチックなプロポーズをされて、愛される結婚』がしたいだけ、と友人が渋い顔で言っていたのが印象的だった。
「最近、会社の人に言い寄られてて」
「ほう?」
「ちょっとぐらついてる」
女子っぽい悩みの告白と同時に、ロボットが注文の品を運んできた。
(今ファミレスってこうなってるんだ! かわいいなごむ!)
そんな場合ではないのに、呑気な感想を抱きながらも頼子が運ばれてきたものをロボットからおろした。
「受け取ったよ」ボタンを押せば、厨房へと一目散だ。かわいい。
(今度、改めて来たい、ファミレス。お母さんはきっと好きなやつ、ロボットちゃん)
母親と好みは似通っている。親孝行がファミレスでご馳走というのはどうかと思うが、再来を誓った。
「じゃ、乾杯」
「お疲れ様」
レモンサワーの頼子に対し、芙由は赤ワインだ。
小さなグラスの中身をちびちびと飲む。勿論レモンサワーは豪快に飲む。もう酔わないとやっていけない話だな、とさわりだけで判断した頼子はハイペースで飲んだ。
まずくはない。薄くもない。及第点だ。
「会社の人に口説かれてるって?」
「そう。ねえ頼ちゃん、私どうしたらいいと思う?」
知 ら ん が な !
思わず口から出そうになったその言葉を飲み込めるぐらいにはまだ素面だ。
「えー、その横恋慕野郎――あ、えっと会社の人、芙由のタイプなんだ?」
「実はそう」
えへへとかわいく笑う。
わかりやすくイケメン高スペック大好き女子だった気がする。
そしてちゃんと好みのタイプを捕まえてくる高スペック女子だ。
(今回も乗り換えかー)
芙由の今の彼氏は、割と堅実な仕事をしている出世頭の高身長で若干オレ様入った男である。
「その強引さもちょっと意地悪なとこも大好き!」と付き合いはじめた頃、延々惚気られ悪酔いしたのは嫌な記憶だった。
「カレと違って、何をするにもスマートで優しくって、お姫様扱いしてくれるの」
(三十路女がお姫様扱いで喜ぶって地雷だよ!)
まだ口には出さない理性はある。
だが何となく勘が働いた。
「その人さ、もしかして、既婚者?」
「えー、えー、なんで!?」
頬を紅潮させて両手を大きく振る様に、頼子は自分の勘が外れたと思いちょっとほっとした。
が、
「なんでわかるの!? 頼ちゃんすごーい!!」
「ま じ で ! ?」
力を込めて聞き返す。
こんなふわふわで、可愛くて、彼氏がいつもちやほやしてくれるようなモテ女子が既婚者なんかにぐらつくか!?
頼子は世界が崩壊していくような錯覚を覚えた。
理解ができない。したくない。
ジョッキを握りしめ飲み込む。冷たい。しゅわしゅわ。落ち着かない。
「だって、そんな気が利くタイプってたいてい既婚者だよ!?」
だって奥さんが教えてるから。鍛えてるから。躾けているから。
たまに、前カノがしっかり躾けてから放流パターンってのもあるから100%ではないにしろ。
「えー、そうなのー?」
そしてそういう躾けられた男にいいようにされたいわゆる『フリン女』は独身男は色々な意味で雑すぎて物足りなくて、別の既婚者に走るという負のスパイラルだ。
「だって、奥さんが支えてあげてるから心の余裕があって寛容に見えるだけだし、服のセンスがいいのも奥さんのセンスだよ。ちゃんとハンカチ持ち歩いてるのも、靴下に穴が開いてないのも、靴がしっかり磨かれてるのも奥さんの力だよ!?」
「えー! 頼ちゃん、あの人のこと見たことあるの!?」
「ねーよ!」
思いきり否定してしまった。もう言葉を抑える理性は吹っ飛んだ。頼子は酔っぱらっている。
しかし、芙由はこんなに頭のネジがゆるい奴だったっけ?
「家に帰れば奥さんがいるから遅くまで遊んでいられるし、経済的な余裕があるのも奥さんが稼いでいるからだよ!」
今や共働きが当然の時代である。
たいてい奥さんも働いているのだろう。働いて生活費を稼いで貯金して、なんとか生活を回している傍らで夫がよその女の子と遊んでいたら、しかも稼いだお金を女の子に課金してたら、もう笑えない!
しかも子どもがいたら? 『ほんとに殺意が芽生えたよ』と育児は全て押し付けてくる夫に対し笑顔で語っていた友人を思い出す。家事も育児も全て押し付けて、若い子とよろしくやってたら……?
結婚もしていないのに、頼子は嫁視点だった。
(ないわー。本気でありえない!)
「ええ、でもぉ、奥さんより私の方が大事って言ってたしぃ」
(生まれ変わったらワンオペフルタイム兼業主婦になるように呪いをかけたい……!)
この世で一番孤独でつらい仕事だと聞く。そうやって自分のやったことの報いを受ければいいのに。
頼子は再びジョッキの取っ手を掴んでレモンサワーをぐびりとあおる。
「あのさ、芙由、自分を大事にしなよ。幸せになんてなれないよ。少なくとも奥さんを不幸にしてるんだからさ」
「違うの! 別に私奥さんから彼を取りたいわけじゃない! 」
「???????????」
理解が追い付かず、頼子はジョッキをテーブルに戻した。
「奥さんがいてもいいの。私を好きって言ってくれれば!」
「???????????」
やはり理解ができなかった。
頼子は首を傾げる。
「奥さんがいるから余裕があるんでしょ。余裕があるから私をお姫様扱いしてくれるんでしょ? じゃあ奥さんがいて、私を大事にしてくれればいい」
「……はい? あ、いや、じゃあ彼氏はどうするの?」
「彼は、今は考えたくない。だって、私に冷めてるっぽい。会社の人ほど熱を感じないもん」
「5年も経てば熱も冷めるよ。逆にずっと熱い方が心配になるわ」
「じゃあ、どうすればいいの! 好きになっちゃいそうなの! 悪いことだってちゃんとわかってるもん。だけど止められないじゃない! 好きってそういうことでしょう?」
(全然わからん!)
恋や愛とは程遠い生活をしている頼子である。明確な答えなどない。
(あー、でも、そうか)
酔いからか、経験不足からか、頼子は間違った方向へ思考の舵を切った。
「そうだね、落ちちゃうものは仕方ないのかもね」
「頼ちゃん!!」
芙由が涙目で頼子を見つめる。その上目遣いに「女子力強ぇええ!」と感心する頼子。
「私、どうすればいいんだろ。好きになっちゃうよぉ、駄目ってわかってるのに!」
「つらいね……」
同情を込めた声音で言って、頼子は芙由を慰めた。
思えばこれが全ての過ちのはじまりであった。
頭が痛い。
土曜日の朝。
友人、芙由を目いっぱい慰めて解散して帰ってきて泥のように眠って、朝、である。
結局レモンサワーしか飲んでいないが、芙由と二人で号泣するほどには酔っていた。
記憶はとんでいない。
頼子は寝返りを打った。
頭が痛かった。悪酔いである。
(嫌いな飲み方だ……)
自己嫌悪だ。人生で一番嫌いな時間。嫌な朝。
目を閉じてもう二度寝を決め込んだ。
「あんたまだ寝てたの?」
正午になる手前の時間に起き出してリビングに行けば母が呆れた顔をしていた。
「お母さん、最近のファミレスってさ、注文、かわいいロボットが運んでくるんだけど」
「知らなかったの? あれかわいいよね。あれ見たさにランチにファミレス行くようになっちゃった」
既知であったか。
頼子は少しがっかりした。母と二人でファミレスに行きたかったわけではないが。
芙由からメールが来ていた。
『頼ちゃん、昨日は聞いてくれてありがとう。すごく嬉しかったし、心強かったよ。また相談に乗ってね』
どう返信するか悩みに悩んで、一日寝かせて、
『あんまり早まらないで。自分大事に』
とだけ送っておいた。
週末。
今度は居酒屋だ。
目の前には芙由。
昨日――金曜日の夜、頼子に泣きながら芙由が電話をしてきたのだ。
「もうダメかもしれない!」
と。
仕事の疲れで魂が飛んでいた頼子は適当に慰め、話は明日聞くから、と切り上げた。
そしてその明日、つまり本日土曜日の夜、頼子は芙由とまた向かい合っている。
「昨日仕事帰りにドライブに誘われてね」
(のこのこついてくなっての、チョロすぎる!)
「夜景が素敵なとこがあるから連れてってあげるよーって。彼の車、私の好きな車なの」
(外車かよ! んでもって口説き方古すぎ!)
「夜景が有名な山に連れていかれて、車の中でしばらくぼーっと夜景を見てて、そしたら、キスされそうになっちゃって」
(そりゃ車ん中乗っちゃえばOKって勘違いする奴多いだろうよ)
「嫌って言ったらやめてくれたけど……でも、やっぱ好きだって、言われちゃって、で。しちゃった」
「馬鹿か――――!!」
まだ乾杯もしていない=飲んでない=素面 なのに、思いきり頼子は叫んでいた。
「だから、自分大事にって言ったじゃん! なんでチューすんの!? っていうか何で車乗るの!?」
「だって、好きって言われたら、……逃したくなくなっちゃう」
「…………」
たまに芙由は頼子の知らない言語を話すように思う。
逃したくないって日本語だけど、何を言っているのかわからない。
「車に乗らなかったら、キスしなかったら、嫌われちゃうかもしれない」
「いいじゃん、嫌われて万歳でしょ!?」
「……嫌われたくないのぉ」
また芙由の目には涙が浮かぶ。
「だって、だって、好きなんだもん、もう好きになっちゃったんだもん!」
「??????????」
また頭の中にクエスチョンマークが飛び交って、頼子は混乱した。
ようやく来た生ビールのジョッキを乾杯もせずに豪快に吞む。
酔おう。駄目だ。酔おう。
で、ほろ酔いの気持ちよさで全部忘れよう。
(なんか同窓生なのに、気持ち悪い!)
「いや、芙由。芙由はその既婚者よりも若いし、同性の私から見ても可愛いんだから、もっと自信もちなよ。そのやらしい既婚者よりもいい男捕まえられるって」
(私と違ってな!)
思いついた自虐にひっそり笑いを漏らす。ちょっとだけ酔いが回ってきた、本調子はこれからだ。
「その既婚者ずるいじゃん? いいとこどりじゃん? そんなやつごめんじゃん?」
「でもでも~」
「そんなずるい奴に芙由の時間費やす必要ある? 私たち割ともう崖っぷちなんだよ?」
「だけど、だけど、好きなんだもん~」
「芙由だって普通に結婚したいんでしょ? その既婚者とは絶対結婚できないよ」
「結婚は望んでないもん。でも結婚したい――!」
「じゃあもう結論出てるでしょ!」
まだ「でもでもだって」を繰り返そうとする芙由に、頼子は畳みかけようとして、めまいを感じ口を閉ざす。
「ごめん、なんか酔った。トイレ行ってくる」
芙由に断り中座してお手洗いに向かう。
気持ち悪いものをすべて吐き出して、大きく息を吐いた。
(やばい。なんでまだ一杯飲み切ってないのに)
ちょっと疲れすぎているせいか。今までなかったのに。
(もしかして、歳!!??)
後始末をして芙由のところへ戻った。
ソフトドリンクで芙由の「どうしよう、どうしよう」の堂々巡りに付き合う。
諭したり宥めたり、色々な手法を試しても「でも」「だって」「好きなんだもん」「どうしよう」のサイクルにハマる。
(面倒臭い)
最後には、既婚者彼の素敵なところを語りまくる芙由の言葉を聞き流しながら、明日は何をしようかなと明日への希望を思い描いているうちに解散することになった。
「頼ちゃん、ちゃんと話聞いてくれるし、叱ってくれるから好き。聞いてくれてありがとう。またね」
割とすっきりした顔で去っていく芙由とは対照的に頼子の顔色は悪い。
(せめてZOOMで在宅飲みにしたい……、こんなに人を叱るのはじめてだ……)
後輩にだって叱ったことないのに……、と、ため息を漏らす。
とにかく帰宅することにした。
翌日の日曜日は体調不良で寝込んで一日が終わった。
そして翌週末。再び土曜日の夜。
先日とは違うファミレスで、凝りもせず頼子は芙由と向き合っていた。
今日は最初からドリンクバーである。メロンカルピスが甘くておいしい。
お腹もすいていたからタラマヨディップ付きのフライドポテトをパクパク食べる。濃厚で美味しい。
「お願い頼ちゃん、話聞いて!」でのこのこやってくる頼子も悪い。でも聞いてくれなければ死ぬ! と言わんばかりのテンションの電話は断れる気がしなかった。
(で、あれか? 体の関係もっちゃった、どうしよう、とかじゃねえの?)
無言でフライドポテトを食べ、メロンカルピスをぐびぐび飲みながらも頼子はもはやさぐれていた。
もう何を聞かされても驚かないつもり。たとえ『彼の子どもができたの』とか言い出しても。
「……またドライブに行っちゃった」
「ホテルでも行った?」
「何で頼ちゃんわかるの?」
「あのさ、自分を大事にしろって言ったよね?」
「うん、断ったよ、ちゃんと。だって安売りはしたくないから、もうちょっとじらさないと、だよね」
「?????????」
出た、芙由の意味不明語。
「じらすって、やるつもりなのか!」
「やりたいけど! やれないでしょ! まだ!」
(もう何を言っても無駄かもなー)
と、頼子は半分匙を投げた。
「頼ちゃん、飲もう、飲まなきゃやってらんないよ」
「はあ? いいけど」
ここもタブレットで注文だ。
頼子も芙由と同じ赤ワインを注文した。
「彼の奥さん、妊娠したんだって」
「はあ?」
「奥さんがエッチさせてくれないんだって」
「はあ?」
「奥さんよりも好きって言ってたくせに、奥さん抱いてた。奥さん抱けないから私に手を出そうとしてきた」
「はあ?」
「悲しいよぉ」
「はあ?」
目の前でぽろぽろ涙を流す芙由に、かける言葉はない。
(はあ? 既婚者ゲスすぎだろうが! そんなこと浮気相手に言う!?)
だが、これで芙由の目も覚めたことだろう。
ちゃんと断れたのは偉い。次は彼氏との話し合いかな。
店員さんがグラスワインをふたつテーブルに置いていった。
ここにはロボットはいないようだった。
友人がフリン沼に沈んでいくようなことにならなくてよかったと、と安堵しつつもワイングラスを手に取る。
(ま、芙由の目覚めに乾杯って感じかな)
だが芙由は頼子が思うような価値観を持つ女ではない。
「憎い! 奥さんが憎いよお! なんで、彼と結婚できて奥さんやってんのに、なんで邪魔するのぉ!」
「法律上の配偶者で夫婦契約してるからだよ!」
勢いでツッコんだ。
頼子からしてみれば何言ってんだコイツ? という感じだ。
「こんな風に人を憎む私なんて大嫌い。だけど、それだけ好きってことだよぉ」
(え、またそこに戻るの!?)
「2番目の女ってこんなにつらいの? 1番じゃなくてもいいけど、こんなにつらいのやだよー」
(我儘すぎるだろ!?)
「でも、忘れられないの!」
「飲んで! 飲んで忘れよう、芙由」
無理やりグラスワインを握らせて、グラスを合わせた。
「乾杯、何にかわかんないけど、乾杯!」
少し焦りながらも、頼子はワインを飲む。
そしてポテトをかじる。
(あれ?)
さあっと血の気が引いたのを感じた。
もう一口、ワインを口にする。
やはり一口目と同じである。ポテトもマヨディップをたっぷり付けて口に入れる。
こちらも同じ。
(……どうしよう)
味が、しなかった。
ワインも、ポテトも、マヨディップも。
メロンカルピスも試しに飲んでみた。やはり味がしない。
(どうしよう!!!)
芙由に断って再びお手洗いへ直行である。
先週のように戻すことはなかった。ただ洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。
血の気のない顔。
「どうしよう、何食べても、何飲んでも、味がしない……、楽しく酔えない……、どうしよう……」
口にした言葉は、虚しくその場に響き渡っただけだった。