閑話 波の随に
「おい、いつもふわふわとひとを見下しおって」
磯の水面の底。昆布の天辺で精一杯、これでもかと居丈高に。彼は針を突き立てる。
「あれ、またお前はんかぇ。何処ぞに流れてしもたかと」
「へっ、このイガイガがあるでな」
磯の光の加減か。薄絹の面紗のような、奥ゆかしい御簾のような。彼女は半透明な傘をなびかせる。
「自分でおる場所も選べんとは不自由じゃのぅ」
「お前はんこそ。おんなじ場所に居たら飽いてしまいますやろ」
「わしは《《ぬし》》と違うて波の機嫌に右往左往せんわい」
「あんれ! そちらこそ、ずっと昆布でも齧っとりゃあええんどす」
「なにおぅ」「なんですのん」
波に散る午後の陽光は玻璃の如く、遥か遠く水底の静寂は瑠璃の如く。
白砂に七宝模様が描かれていく。
「それにしてもあれじゃな」
「なんですのん?」
「《《ぬし》》と遭うのも久方ぶりじゃな」
「ほんにそうどすな。わっちは魚さんほど泳げしませんから」
〇
ぽつりと置かれた巌の頂きで、彼は腰を下ろすように針をしまう。
彼女の綺麗な肢体を破いてしまわぬように。
懸命さを悟られぬように。嫋やかに。彼女は衣の裾を棚引かせる。
間違ってこの針で彼を刺してしまわぬように。
巨鯨を屠る船だろうか。逞しい竜骨を軋ませる音が、まるで遠雷のように聞こえた。
「ときにおぬし」
「なんでありんす?」
「この間の静かな夜に見た、アレに似ておるの」
「アレ、では分かりしまへん」
「うぅむ。水面の遥か先に見える、金色の《《まぁるくて》》よぉ光るアレじゃ」
「はて? お月さんのことでありんすかね」
「そうに言うのか。底からではよぉ見えぬでの。おぬしからはさぞや綺麗にみえるであろうなぁ……。わしも……生まれ変わったらおぬしのような姿になりたいもんじゃ」
「波間に浮かんでるだけでありんすから……」
「わしは……生まれ変わったらおぬしのような姿になりたい」
「わっちも……もし叶う事ならずっとここに……きゃ!!」
昆布が引き絞られるような強い引き波が、ふたりの体を引き離そうとする。
――このひとを刺してしまう。
刹那の戸惑いが仇になった。
無論、潮目に逆らう力など双方にあるべくもない。
「もう時間でありんす……」
「ほうか。また……逢えるかの……」
「磯に……波に……聞いておくれなんし」
針を、針を目一杯に伸ばしたが、届くことは無かった。
先程までの静かな海面が、今では千々《ちぢ》に乱れている。
真砂が巻き上がり、すぐに彼女の姿は瑠璃の彼方へ溶けていった。
〇
「ほれほれ、海には入るでないよ。もうクラゲがおるからな」
「はーい!」
幼子と父であろうか。
十三夜を待つ夕暮れの海岸線を歩く、二人の影が見える。
千鳥に乱れる小さな足跡を、不安げに大きなそれが追う。
小さな珊瑚の欠片。割れた硨磲の貝殻。瑪瑙色に変じた流木。
宝物を辿るような点線が砂子に残る。
「おっ父、これ見て! 凄いの見つけた!」
「お、これはウニの殻じゃな。棘が無くなるとこうなるのだよ」
「へぇ~! おっ父はもの知りだね!」
「まるでお月様みてぇだ!」
『七宝や 栗名月の 磯辺かな』
此度は是にて。