第二話 捨身之怪
――うぅ、寒い。
清史郎は厚手の褞袍に手を引っ込め、厠を目指していた。
白む明け空が庭を照らし始めている。土塀の向こう。遥か先に、まだまだ雪の残る深山の稜線が少しづつ縁取られていく。
暦の上では春だというのに、ここ数日は寒い日が続く。磨かれた廊下が寒々しく光っていて、厠までの道程が酷く長い。自室の火鉢に火を入れておけばよかった。
つと、視界に井戸が入った。
義父である先代は、真冬でも禊の水浴びを欠かさない人であった。
思わず歯が鳴るような震えが走る。
――冗談ではない。
足早に厠を済ませ自室に戻ると、朝稽古の支度に取り掛かった。
「先生、おはようございます! 今日は菜花が採れたのでお持ち致しました」
「おお、いつも済まないね。家人らに食わせてやろう。それにしてもまだ山には雪が残るというのに風流なものだね」
目端が利く弟子達で有難い。剣術師範なんぞをしていると、こういった付け届けも多く食うには困らぬ。
――粥か、煮浸しか。顎を擦りながら夕餉の膳を思い描く。そう言えば江戸で昨年馳走になった、白魚を焼き海苔の上に乗せた蕎麦は実に美味であった。あれも口の中に早春がいっぱいに広がり見事であったなぁ。どれ此方の春は如何様に料理して進ぜよう。
「……生! 先生!」
師範代の声に思わず目を見開く。
「一連の型、終わりまして御座います」
「う、うむ。では対面にて打ち合いだ」
「くすくす」「また食べ物であるかの」
「左様左様。先生はこと食い物には目がないからな」
「あれでいて剣の方は江戸の三大道場に遅れを取らぬのだから大したものよな」
「誠に誠に」
声に匂わずとも弟子達の目が物語っていた。
「先生、門前にお坊様がお出でで御座います」
稽古も終わり、山の向こうが薄らと茜に染まろうかという頃だった。
旅の僧であろうか。一晩の宿を求めて当家を訪ねたようだ。海苔色に退色した衣に、穴の開いた笠。袈裟は正しく糞掃衣という他ない。門の軒下でよいと言う僧を、清史郎は快く母屋に迎え入れた。
尤も、内弟子や家人は僧の身なりから、怪訝な顔であったが、然しながら古来より僧への寄進や布施は武家の功徳が習わい。家人を言い咎め、膳の用意をさせた。
「お坊様。頂きもので相済みませぬが、菜花の粥で御座います」
その晩、僧は甚く気に入ったようで、何度も頭を垂れて礼を述べた。曰く身なりのせいか行く先々で断られていたそうで、存外な饗応に感激頻りであるという。
遣り甲斐とでもいうのであろうか。清史郎も僧を気に入り、湯を取らせ、衣も繕いに出しておいた。
翌朝、逗留の勧めを固辞する僧を送り出し、午前の稽古もそろそろ終わろうかという頃だった。
「先生、おはようございます! 今日は岩魚が釣れたのでお持ち致しました」
通いの弟子が魚籠を大仰に抱えてやって来た。
「おお、それは済まないね。だが岩魚の時期にはちと早いようだが?」
「いえいえ、これをご覧くださいませ。見事な斑点も出ております」
魚籠の中からはそれは大振りな岩魚が出てくる。
「おお! これは誠に見事! 古来この辺りでは『蛍喰』といってな。春になると蛍の幼虫を食べて、身体にも蛍のような斑点が浮かぶと云う。無論、実際に蛍を食べるとは思わんがな。例えば鮎などの藻を食す魚と違い、岩魚は小魚や蛙なども喰らうと云うそうな」
矯めつ眇めつ岩魚を眺める仕草に、思わず弟子の口元も緩む。
「先生はまっこと食べ物に目がありませぬなぁ。」
「う、うむ……」
弟子達の相好を余所に、なんとも居難い清史郎である。
「さりとて昼餉に間に合ってよかったです。是非お召し上がりください」
「う、うむ。相有難く馳走になるとしよう」
道場から母屋の厨に向けて進む足取りは、いつぞやと違い意気軒昂といった具合で、弾むように黒光りする廊下を進む。
――それにしても見事だ。先刻まで息があったであろう、滑りのある肌に覗く蛍文が眩しい。鰭もピンと張っていて、化粧塩など要らぬと魚が訴えているようだ。岩魚は虫を喰らう故、腸は除くが常。身にも虫が居ると聞くし、塩焼きなどがよかろう。
道場で詳らかになった己の食い意地を、早くも噯に変えようというのだから胆が据わっている。
大振りなまな板の上で尚放つ存在感は鯉をも凌ぐ。 深々と岩魚に一礼をすると、襷を掛けた。二掴みほどの塩をして、丹念に滑りを落とす。
顎と鰓の終わり辺りから腸を破かぬように慎重に刃を入れた。張っている身とは裏腹に、解ける様に刃が入っていく。
尻まで進むと、腹を開き腸を抜いていく。
つと、ぱんと張った腸の中身が気になり刃を入れてみた。
菜花の粥があった。
雪ほどけ菜花香る、武蔵の国の初春のお話。
此度は是にて。