41 父帝の勘違い
とにかく、アスランが、近衛府の周りに出没する赤毛のストーカー女のことを、徹底的に追い払わなかったのはまずかった。
らしい。
彼が、ビンデバルド宗家に対して配慮をして、広い意味での友人ではあると肯定したのを、周囲の近衛府のファン達が、騒然として受け止めた。ちなみにそのとき彼は、女性へ配慮したつもりではあったが、何しろ、イヴ狙撃事件の事があり、自分の職分である、皇帝の親衛隊としての警護の仕事が随分増えていたので、そっちの方に意識が取られており、女性関係へのコマヤカナハイリョと言ったところで、25歳の体育会系が出来る程度の事しかしなかった。
旧市街の街角のピアノ教室でさえ噂になるほど、バルバラの発言は衝撃的であった。アスランは今まで、特定の女性を持った事がないとされていたのである。それで、何も、どう考えたって政敵であるビンデバルド宗家の付き人クラスの女と……?
アスランが、日々、皇帝の警護や近辺の警護を固めるために、ベンから指導を受けたり実際に仕事をしている間、噂は刻々と広まっていき、当然ながら同じ帝城の中にいる、軟禁中のイヴやその姉妹達にも伝わっていった。
ちなみに、皇帝のアハメド二世の方には、周りの連中が気を利かした。可愛い養女のイヴを与えて婿にとのぞんだアスランの周りに、下品な女が出入りしていると、皇帝の耳に入ったら、どんな連鎖事故が起こるかわからないからである。そして、無言でアスランに女関係をどうにかしろと圧力を与えたのだが、アスランの方は、新しい機動軍馬やら、ベンやフォンゼルとの連携のことやらに夢中になって、気がつかなかった。何しろ仕事にはがむしゃらな男であった。
それより先に気を回したのが--。
イヴの猫かわいがりしている女性皇太子、妹分のリマであった。
リマは、皇太子としての教育を日々受けながら、アスランが、噂のわりには、ちっとも赤毛の魔女(?)の方を向いていない事は知っていた。だが、それでも、赤毛の魔女が彼の周りをつきまとい、アスランがそれほど嫌がっていない事で、女性を中心にどんどん取り沙汰されていることを知っていた。
アスランは、大丈夫だろう。ビンデバルドの変なオカマ(リマからはそう見える)にブレるような事はない。
そして彼女が一番気にしているのは、やはり、姉の縁談であった。姉には他に好きな人がいる。それを父親に言えないで、日々、軟禁されて責め立てられて辛い思いをしているのだ。それこそ、帝城をこっそり忍び出て、リュウに会いに行くとかしたいだろうに。
そこで、リマは、音楽の魔法にかこつけて、イヴの部屋を訪問することにした。
イヴは相変わらず、父親に、帝城から一歩も外に出てはならぬという事で、自室からほぼ出ず、ぼんやりと、楽器を演奏するだけの日々を送っていた。
「イヴ姉様、今度、学院で音楽のレポートを提出しなければならないの、見てくださらない?」
そういう言付けを侍女にすると、イヴは一も二もなく可愛がっている妹を自室に招き入れ、そのためのもてなしの準備を丁寧に始めた。
リマがイヴの部屋を訪問すると、イヴは、上機嫌で、リマに茶菓子や高級なお茶をすすめ、早速、音楽のレポートのテーマの事など聞き始めた。
実際に、音楽の時間に”次の講義までに中世音楽史の概略をまとめよ”というレポートは出ていたため、口実には困らなかった。
レポートの途中で、リマはさらに口実をもうけて、イヴの侍女達を部屋から下がらせ、姉と二人きりになった。
「……どうしたの、リマ?」
妹から何か相談事かと、イヴは可愛がっているマーニを自分の胸元に引き寄せながら尋ねた。マーニの方も、不思議そうにリマを見ている。
「イヴ姉様、今日も、お父様が、質問しにいらっしゃるよね?」
「そうね……きっと。もう毎晩だもの」
アハメド二世は、養女の気を変えようとするのと、どうしても相手の男が気になるということで、毎日のように、多忙な中をくぐり抜けて、イヴの部屋に来て、相手の男は誰なんだとか、そういうことを聞きたがるのである。最早質問攻めであったが、イヴは、頑として黙秘権を貫いていた。
「そのとき、アスランの噂のことをいいなよ」
「噂?」
「知ってるでしょ」
リマは黄金色の目に茶目っ気の光を輝かせて微笑んだ。
さすがにイヴはすぐに気がついた。
アスランと、赤毛の女の噂だ。周りは魔女とか言っているが、まさか魔族という事はないだろう。だが、ビンデバルド宗家のイレーネの付き人だという話だが……?
「そんなことをしたら、アスランが、可哀相だわ」
イヴは控えめにそう言った。
その言葉の意味は、イヴも、アハメド二世が欲しいのはアスランだけではなく、ジグマリンゲン家の北方における支配権や経済力だということはわかっている。それで、自分が、アスランの事をここで蹴飛ばせば、流れから言って、アスランが犬猿の仲のビンデバルド宗家に傾くか、もっとこじらした事態になってしまうかもしれない。
優柔不断とも言えるが根が優しいイヴは、悲しそうに顔を伏せた。
「イヴ姉様。しっかりして。ティシャお母様の事を言うのよ」
「えっ……」
ティシャとは、結婚相手……つまりイヴの父兵部卿宮に、浮気とDVで責め殺された女性である。その際に、アハメド二世は従兄弟である兵部卿宮に随分強い発言もし、問い詰めたり説教したりしたらしい。だが、家庭の中には完全に踏みこむ事は出来ず、元から気が弱かったティシャはあえなく心身症をこじらして亡くなってしまったのであった。
そのティシャへの悲しみと、兵部卿宮への当てつけもこめて、アハメド二世はイヴを引き取り、可愛がって育てているのである。
「で、でも、そんなことをしたら、ますますアスランが可哀相じゃないの」
つまり、アスランが、浮気をしたりするかもしれないと騒げということだ。
アスランは身持ちが悪いので、もしかしたら、結婚の後、イヴの事を捨てて他の女に走るかもしれない、と妄想気味の事で大騒ぎすれば、イヴの生い立ちが生い立ちである以上、アハメド二世だってこれ以上鬼になる事は出来ないという意味である。
だけどそれはそれで、アスランに失礼な話だ。
「バカね、イヴ姉様」
思わずリマは呆れてそう言ってしまった。
「アスランが、浮気だのDVだのするわけがないじゃないの。見ていればわかるでしょ」
「でもリマがそう言えって……」
「そう言って、イヴ姉様、”男が恐い!”ってそこまで大げさに、泣いたり騒いだりすればいいのよ。イヴ姉様が、ティシャお母様の事を引きずって、まだ傷ついているっていう事にするの。ちょっと病的なぐらい騒げば、絶対、お父様は、ティシャお母様の事を気にしてるんだから、引き下がるわよ」
「…………」
「むしろ、イヴ姉様が被害妄想気味で、やばい話だけど、ティシャお母様を責め殺した兵部卿宮が悪いんだから、それは、世間はイヴ姉様に同情するわ。それに、アスランも、自分に変な噂が流れている事に気がついて、ビンデバルドの女なんか蹴散らす気になるわよ。アスラン、今、仕事に夢中過ぎ。そりゃ、イヴ姉様が狙撃されたんだもの、次はお父様かと、ピリピリするのはわかるけど、流言飛語っていうのが、この世の作戦にはあるんだから」
さすがに、妹は利発であった。
皇太子としてアハメド二世とその家庭教師に特訓を受けているだけのことはある。
「……そうね。やってみるわ」
「その意気よ。ちょっと演技派女優っぽくやってみるといいと思う。そうすれば、お父様が、これ以上高圧的な態度で、イヴ姉様を軟禁する事はなくなるだろうし、イヴ姉様の話をもっとよく聞く気になってくれるわ」
そういうわけで、その晩も、夜遅くに、アハメド二世は、イヴの部屋を訪れて、お決まりの発言を始めた。
「お前はどんな男にたぶらかされたんだ!」
というリマいわく”高圧的”な態度である。何しろ、繊細な深窓の姫がふくれて頑固に黙秘権を取っているため、アハメド二世だって立場が悪い事も相まって、機嫌が悪い事この上ない。
だがこの日のイヴは違った。
途端に、ふくれっ面をやめて、シクシクと涙を流してうなだれ始めたのである。
「イ、イヴ???」
しおらしい態度で、イヴは言った。
「だってお父様、アスランは浮気者かもしれないわ」
「浮気者!」
元は大人しく優しい姫であるイヴがすすり泣きながら浮気者という単語を出したため、--アハメド二世からしてみれば、イヴの繊細さや病弱さは、なくなった妹のティシャそっくりであった--当然、ティシャ姫の事を想いだした。
娘にとって母親とは偉大な存在である事も思いだした。
「アスランの周りにはいつも大勢の女性がいて、その中には変な女もいるわ。お父様、その話、知らないの?」
「アスランの周りに--変な女」
全く思ってもみなかった養女からの反撃に、アハメド二世はソファの隣に座って、イヴが泣くのをしきりに慰めようとしているマーニに目配せをしながら、どういうことか話を聞き出そうとした。こちらは、皇家の姫である。断じてそこらの”変な女”に見劣りするはずがないのだが。というかさせるわけにもいかないし。
「みんな噂しているのよ、お義父さま。アスランの周りに、変な女がいるって。アスランはその女の事を、お友達って言ったって」
「友達?」
それは一体どういう意味なのだろう。
そういうふうに含みを持たせながら、イヴは涙をこぼしつつ、アスランの周りの女の行状、通称赤毛の魔女の事を話し続けた。
その途中で、レースのハンカチをもみしぼって涙を拭き取ったりもした。
アハメド二世はその話を聞きながら震え始めた。自分の養女であるイヴと、そういう話が出ている時に、そんな訳のわからんビンデバルドの付き人と付き合ってるだと!!
「お義父様、私、男の人が恐いわ。ティシャお母様のことが、忘れられないの。男の人は、結婚したあとも、よそに女を作ったりするし、それで妻や子供を捨てたりすることだってあるわ。私、今のうちからそれが心配なのよ。男が恐いわ」
「ああ……そういうことか、それはすまなかった。イヴ」
イヴの背中を撫でて慰めてやりながら、アハメド二世はそう言った。
「可愛いティシャをあんな目に遭わせてしまったのは、兵部卿と結婚を許した私にも責任がある。そのあと、ティシャを守ってやれなかった。そばにいた娘のイヴには、それはつらいつらい思いをさせただろう。そのことを、思い出させてしまって、すまない」
ティシャに対してもすまないというように、アハメド二世は目を伏せた。
実際に浮気とDVに苦しんで死んだ母を持つ娘に、自分はなんということをしてしまったのだろうと反省もした。
「だけど、お前は好きな男がいるって言ったじゃないか。その男は、女性を捨てたりしそうもないのかい?」
そこはさすがにそう聞いておく。
さすがにイヴは言葉に詰まって赤面してしまった。リマはそこまでは提案してくれなかったのである。
「その人は、物語の英雄のような人なのよ。お義父さま。決して、手に触れられないようなひとなの」
「ああ……」
(なんだ、そりゃ?)
アハメド二世は落胆と安心の中で、いつも部屋の奥で楽器の演奏と読書ばかりしている、病弱な娘を見た。多分、言葉の通りの意味なのだろう。アスランの事を押しつけられたと感じて、口実を作ろうとして、実際に、ハマっている物語の英雄が好きなんだから、結婚なんかしないと、乙女らしい妄想で言ったのだ。その後、まさか実在しない物語の男ですと自分から言う事は出来ず、本当にものがいえなくなってしまったのだろう。
手に触れられない、実在しない物語の憧れの君の事を、イヴのような境遇の姫が、ずっと夢見ているのは、仕方ないことで、そっとしておいてやるしかないと思った。
だがこれで事態は解決である。アハメド二世の頭の中では、イヴが頭の中の空想の男を口実に設け、その後、二十歳にもなっているわけだから、義父にそのことを正直に話せず、黙り込んでしまうしかなかったが、さすがに最後には話してくれたということになった。
そしてそういう繊細な問題については、自分には他に二人も娘がいることだし、そちらに応援を仰いで、説教してもらうことにして、自分は退散することにした。
(繊細な女の子は難しいなあ……)
だがこれで無事に仲直りすることが出来る。
アハメド二世は、機嫌を直して、イヴに仲直りを申し込み、イヴは流れから言って断る事はしなかった。アハメド二世がどんな勘違いをしたかわからなかったが、とにかく、リュウとの事は言わなくても許してもらったのだ。そこは渡りに船、義父と仲が悪くていいことなんか一つもないんだし、後は仲良くお茶会をして過ごした。
賢いマーニだけが、事態を把握して、”いいんだろうか……”と奇妙な父娘を見つめていた。
そういうわけで、回り回ってヴェンデルの活躍で、イヴは、皇帝陛下からの軟禁を無事に免れる事が出来たのであった……。




