31 『星空』
エリーゼの後とはいえ、イレーネはまるで緊張していなかった。
ビンデバルド宗家の長女が、これしきのことでうろたえるなどとみっともないとしか思っていなかった。
ちなみに、ミカエリスのライバルだったアルフォンス・フォン・ビンデバルドには甥がいる。伯父の才能を受け継いだものの、夭逝した甥が。その彼が残した楽譜は、あまり知られてはいないが、イレーネの知っている限りでは、これほど美しいメロディはないと思えるほどの、透徹した鮮やかなものだった。
もしも、この甥が、肺結核などに罹患せず、天寿をまっとうしていたのなら。
恐らく、アルフォンス・フォン・ビンデバルドの無念を晴らし、ミカエリスよりもより高い高い音楽の境地に到達していたに違いない。ヒマに任せて音楽史の研究にも余念がなかったイレーネは、ついでに、この甥の紹介をしてやることにした。
全く聞いた事も無いような旋律がパーティ会場を支配する。
美しくも残酷な、まるで星の散らばる夜空を見上げて気が遠くなっていくような音楽が奏でられた。イレーネは、日頃、自宅でピアノを弾いている時のようにその曲を弾きこなした。
誰もが、全然知らない曲目に驚いていたが、相手が、音楽家で鳴らすビンデバルド宗家であるから無言でいた。中には、イレーネが作曲した音楽ではないかと勘違いしたものもいたが、驚いていたのも最初のうち、次第に、イレーネの奏でる音楽に魅了され、ただただその技巧を凝らした冷たくも優しいイメージの曲に聴き入っていた。
イレーネが最後に、鍵盤とペダルから身を離すと、会場中から拍手が沸き起こった。
さすがに、イレーネは、自分で言うだけの事はあるビンデバルド宗家の令嬢であった。
勝ち誇った微笑みを見せて、イレーネは、椅子から立ち上がり、アスランの方へ、これ見よがしな令嬢の礼を取ってみせた。
アスランは即座に貴族の男子の礼を返した。そこで焦ったそぶりを見せるアスランではなかった。
彼の専門は騎士業と、軍部。そしてわずかながら商売であるから、この場で流れた曲の事を、知っている訳ではない。それがイレーネからアスランへの意地悪であった。
アスランが、音楽について詳しくはない……そして流れからいって、アスランの方からイレーネに質問しなけらばならないように仕向けたのだ。そして、イレーネには、誰も知らないような曲でも、聞き入れさせるだけの華麗なテクニックがあった。そのために、惜しまず努力してきた日々があった。
「あまり世に知られていない曲のようですが、バハムートの歴史に残る名曲なのですか?」
なんとそこで、イヴの忍びである甲が、その東洋風の容姿と出で立ちを持ってイレーネに向かった。
イレーネは今にも舌打ちしそうな表情になった。
アスランか、イヴから質問させて、音楽(伝統)においては、未だにビンデバルド宗家の方が上であることを認めさせるつもりだったのに。ここで外国人が、「知らない曲ですね」はないだろう。
だがもちろん、無表情で不調法なふりをして、甲はそこは計算済みである。
実際、知らない曲だし、バハムートの伝統の事も、奥深くまで知っている訳ではない。聞いたって恥ずかしくも何ともない立場をフル回転。
「カール・フォン・ビンデバルドの”星空”ですわ。アルフォンス・フォン・ビンデバルドの甥の。25歳の若さでなくなった音楽家ですが、なかなかの楽譜を遺していますのよ。そうですね。今の言葉で言うなら”推せる作曲家”ですわね」
歴史と伝統を誇る名家の令嬢が、「イマドキのコトバ」などを、わざと、冒険者達と付き合うような名門の次男に言って見せる。あたかも協調性を持って合わせているかのように。
だが、その内実がどんなものであるかは、見ている方も応酬している方もわかっている。
「ありがとうございます」
聞くだけ聞いた甲は目を伏せて礼を言った。そのままイヴの隣に控えてしまう。
イレーネは、内心、また、溜息をついた。挑発に乗ってしまったが、甲……イヴの護衛の忍びのために、マウンティングのチャンスを失ってしまった。これは大変に面白くない。
「素晴らしい演奏でしたわ。お嬢様」
一方、付き人であるバルバラは、まだ盛んに拍手を打ち鳴らしながら、アスランとイレーネの間に入り込んだ。
アスランは、付き人がイレーネの方に用事があるのかと思って一歩譲った。だが、違った。
付き人、バルバラ……彼女の目的は、アスランにあるのだから。
バルバラの執念の粘着がここから始まるのである。
それはさておき。
男脳と言うものがあるらしい。神聖バハムート帝国にも。
男脳というものがあるからには、女脳というものもあるらしい。
男と女のわかりあえなさ、人と人とのわかりあえなさというものは、文学上、芸術上、人間関係上において普遍のテーマであるのだが、これから、エリーゼ達はそれを目撃することになる。
どういうことかというと、バルバラが、女装したヴェンデルだという事なのだ。
ヴェンデルは、ビンデバルド宗家にメイドとして潜り込んでまで、女になりきって、アスランの隙をうかがおうとしたのだった。その結果、見た目はすっかり女になりきり、アスランのジグマリンゲン邸の警備の目も「女として」くぐり抜けるほどであった。
現に、今の時点で、アスランも、ほかの誰も、バルバラが男だという事には気づいていなかった。
イレーネに至っては、自分が彼女を磨き上げたと思って、ジグマリンゲンや皇家は間抜けだと思い、すっかり、得意になるほどのバルバラのしとやかな女っぷりであった。
--今までは。
どういうことかというと、男の思う「色っぽい女」と、女の思う「色っぽい女」とはどこでどういう差が出るかということである。
男から見ると、セクシーな女だなですむあたりが、女にとっては「?」だったり、女にとっては色気があっていいじゃないと思った香水の匂いが、男にしてみれば香害以外の何でもなかったり、そういうことは、現代日本でも日常的によくある事件である。
そして、ヴェンデルは、30代の現時点まで、ろくすっぽ女と恋愛したこともなく、真面目に堅気に錬金術師としてやってきた男であった。
錬金術師としての腕は決して悪くないのだから、捨て駒とはいえ、ビンデバルド宗家にアスラン暗殺を命じられたのだが、ヴェンデルは、頭も悪くない上に仕事に熱中するタチだったので、大真面目にそれを引き受けたのだが……。
一言で言おう。
やっちまったのだった……。
女装して、メイドの所作を完璧に覚えただけで、男が女になりきれるわけがないのだった。男脳のまま、男が思うハニートラップをやってみせようとして、思いっきり、外した行動を取ってしまうのだ。
だが、あえていおう。
アスランも、女装はしないし出来ないし、メイドの所作なんて気にしたことなどほとんどないし、女脳なんて装備してはいなかった。
彼も一緒に、思い切り外してしまって……結果、よい方向には転ぶのである。
結果だけ言っておけば。
イヴ姫は、免れた。
 




