30 風の毒針
その”風の毒針”が、エリーゼの能力”カメラ”機能をわずかにかすった。
エリーゼの能力は、五感の記憶したもの、ことがらを、カメラかスクリーンショットのように脳に記録できると言うものである。
そして、エリーゼは、ここ最近、真面目に魔道の勉強に励んでいた。そのため、魔力や呪詛の動きに敏感で、ほんのわずかな魔力の動きすらも、幻覚ではなく視認出来たのである。尤も、バハムート帝国の貴族ならば、魔道をよくすることが基本であるため、視認出来た人間は他にもいたかもしれない。だが、”風の毒”からして滅多に知られない呪詛であるし、ましてそれをイレーネがオリジナルアレンジした”風の毒針”など、見た事も聞いた事もなかったため、誰も反応しなかった。
だが、エリーゼはそれが何であるか即座に見て取った。
子どもの頃に、実父クラウスに面白半分に、魔道も含む百科事典を50巻、丸暗記させられていたためである。その百科事典の中に、”風の毒”の概略が掲載されていたのだ。
イレーネが、空気に乗せて、猛毒の呪詛でアスランを殺そうとしたようにしか、エリーゼには把握出来なかった。
エリーゼは、素早く、ピアノを叩いて、美しいメロディをかなでた。
”風の毒”は、空気に乗った恐ろしい呪詛である。その反撃には、美しい音楽が中和剤になると、百科事典には掲載されていた。エリーゼは、無我夢中で、最近練習していたクレメンスの一節を奏で、”風の毒針”を中和してアスランを守った。
「っ……」
もう少しというところで、”風の毒針”まで阻止されたイレーネは、険しい顔でアスランとエリーゼをまたにらみ付けた。だが、隣のバルバラが何事か言うと、即座に取り澄ました表情となり、何事もなかったかのようにエリーゼに向かった。
「あら、とてもお上手なピアノですのね?」
それだけで、今の一幕は受け流しになってしまうのである。それが、ビンデバルド宗家長女の迫力であった。
話しかけられたエリーゼは、ろくに声も出ず、全身から冷や汗を吹き上げながら、ただ頷いて見せた。
「エリーゼ、やっぱりピアノが出来るんじゃないの。凄いわ」
何事かと寄ってきたヴィーが、エリーゼに話しかけた。
「今のはクレメンスのソナチネね? イヴが昔、よく弾いていたわ」
「そうね、飽きるぐらい練習で弾いたわよ」
ヴィーが話を向けると、おとなしかったイヴもようやく話し始めた。
「エリーゼは、ミカエリスやライムは好き?」
敬愛する音楽家の事ならば大分口がほぐれる様子のイヴ。エリーゼは緊張していたが、三皇女に恥をかかせるわけにもいかず、何とか頷いて見せた。
「ミ、ミカエリスの協奏曲はどれも好きです。ライムも」
ご追従ではなく、本当にそうなのである。たまたま、イヴと音楽の趣味が似ていたようなのだ。
「あら、嬉しいわ。ミカエリスの協奏曲だと、どれが好き?」
一気に和気藹々とした雰囲気になるのがイヴの話し方の特徴だった。風の毒針の事がわからなかった、他の人間からしてみれば、エリーゼはアスランの誘いに乗って、ピアノを弾こうとしているようにしか見えないだろう。
しかも、この流れだと、ミカエリスを弾かなければならないらしい。エリーゼはやっとの事で決断し、皆の前で、ミカエリスの協奏曲の14番を弾き始めた。
ミカエリスの協奏曲の14番もまた、軽快なテンポで楽しく明るい曲目である。
イヴに比べれば遙かにつたない指先ではあったが、エリーゼは、ミスタッチのないように、懸命に集中して14番を弾きこなした。
エリーゼの様子を見て、リュウや甲達は、健気な娘だと思った。
何があったのか、アスランから耳打ちがあったのである。アスランは、狙われやすい立場であるため、イレーネの周囲で魔力が動いた事は認識していた。その魔力がこちらに向かった瞬間、エリーゼがいきなりピアノを弾いた。……そうしたら、魔力は雲散霧消したのである。
綺麗な音が、呪詛や悪意の力をかき消す事は広く知られている。つまり……。
そんな状況で、まだ15歳の子どもが、周囲の好奇の視線にさらされながら、懸命にピアノを弾いているのだ。微妙に震えているようだが、なかなかの胆力ではないか。
エリーゼがピアノを弾き終わると、甲達は一斉に、力一杯の拍手を行った。釣られたように周辺に貴族達も手を打った。貴族達は、アスランの暗殺を阻止したクラウスの娘ということは知っている。単純に、アスランのファンの子どもが舞い上がっているのだろうと思ったぐらいだった。
「凄いわ。こんなに透明で可愛らしい14番は初めてよ!」
イヴの方も大喜びだった。彼女は、音楽を好きな娘なら、大抵は誰でも大好きなのである。好きな事を好きなだけ語り合えるからだ。
そしてイヴは、エリーゼの肩に手を置いて、そっと綺麗な魔力を通してくれた。
「ここに力が入っているでしょう。だから、こっちの指が妙に突っ張っているの。もっとおなかに力を入れて、肩の力を抜いてごらんなさい。ピアノの音は必ず答えてくれるわよ」
「あっ……はいっ……ありがとうございますっ……」
はしゃいだイヴは、エリーゼに、いくつかのピアノのこつ……ほとんどは姿勢や、ピアノ弾く時の基本的な手の位置について教えてくれた。エリーゼは本の読み過ぎでやや猫背であり、しかも今はガチガチに緊張しているため、本当に「そんな音」が出ていたのである。イヴからしてみれば。
エリーゼは恥ずかしかったが、やはり、優しいお姉さんに基本的な事を、親切に教えてもらうのは嬉しく、素直に受け答えした。帝国一の音楽の姫が、健気なみなしごに、得意のピアノを教えているように見えたため、周りの貴族達は微笑ましく見守った。
一方、イレーネの方も、音楽の才能は知られているため、イレーネとイヴをあからさまに見比べて、ヒソヒソと何事かささやいている貴族もいた。しかし、もとよりイレーネは、この敵陣まっただ中に付き人を連れて乗り込んでくるような性格である。自分の能力に対しての自信もある。
周りのそんな視線を素知らぬげにやり過ごしていると、やはり、アスランの方が、イレーネの方に向かってきた。
「失礼。先ほどのアンハルト侯爵の令嬢は、まだピアノの練習を始めたばかりと聞いています。音楽の名家ビンデバルド宗家のご令嬢の前でお聴かせするものではなかったかもしれませんが、まだまだ子どものことと思ってお許しを」
「許すも許さないもないわ。アンハルト侯爵の善行ですもの」
クラウスとの事を知っているイレーネは優雅にそう答えた。
「ビンデバルド宗家の音楽の力は聞いております。よかったら、エリザベート嬢の前で、本当のピアノをお聴かせいただけませんか」
「とんでもない、私など音楽の神々の前に出られたものではありません」
この場合の音楽の神々とは、誰のことか、一瞬わからないものもいたが、イレーネはイヴの方を見てそう言っていた。
「まあそう仰らずに。……イレーネ姫の音楽の実力を知らない者は、シュルナウにはいないのですから」
強烈な当てこすりに対して、アスランは受け流しつつも当てこすった。
するとイレーネはにやりと笑った。
何しろ毎日ヒマだった。どれだけ音楽や魔法の実力を磨いても、肝心の皇太子がいない身の上では。だが、こういうときのために、今日まで実らない努力をしてきたのかもしれない。
イレーネはすらりと立ち上がると、まっすぐに北方のいかめしいピアノの方に向かっていき、その椅子にすんなりと座った。




