29 『夢のワルツ』
アスランの脇を固めていた甲や志、リュウたちも、イヴの相変わらずの音楽の腕には満足だった。
口々にイヴを褒め称える。するとイヴは赤面して首を左右に振る。顔どころか、エルフのような長い耳まで真っ赤になりそうな勢いだった。
だが、周囲は、ヴィーが絵画の姫であるように、イヴが音楽の姫であることを知っている。もっと聞きたいと言い出していたので、アスランがイヴにその話を振った。
「シュルナウの壮麗なピアノとは違いますが、我が故郷のピアノも試してみませんか? 姫」
確かに、シュルナウの貴族達は、自分の家門の姫達に、ピアノを習わせるのが慣例であった。そのピアノも、貴族の館にあるクラシックピアノであるから、下品にならないように装飾が施されていたり、真っ白だったり、一風変わった色合いだったりと、まあ色々ある。貴族の姫が、必ずしも音楽を心から愛するとは限らないからだ。
それに対して、パーティ会場に設置されていた、「北方のピアノ」は、磨き抜かれた真っ黒で、ちり一つついていない様子だったが、いかにも年代物のクラシックピアノというような、質実剛健な印象であった。
イヴはそれを見て、手入れをされて愛されたピアノだと見てとり、また遠慮し始めた。もちろん弾いてみたい気はするのだろうが、続けざまに、自分の能力をひけらかすのは、性分ではないし、周囲が、アスランと自分の仲を疑っていると思って、ちらちらとリュウの方を見始めた。リュウはイヴの目配せには気がついているようだが、どうしてほしいのかわからないらしく、首を傾げている。
(弾けばいいのに……?)
一方、イレーネは、苛立ちのあまりあからさまに溜息をつき始めた。何故かというと、答えは簡単。
イレーネの誇る宗家ビンデバルドは、風精人の貴族の中の貴族という自負心がある。風精人は風を操る。よって、風、空気、音、音波……これらは全て、ビンデバルドの最も得意とするところであり、すなわち、音楽においてなら、イレーネは、超高等教育を受けた令嬢であるのだった。そして、彼女が自らライバルと思い込んでいる、同い年のイヴが、そんなふうに目立った場所で、おしとやかに(イレーネから見るとブリッコして)、もじもじしながらも、周囲から注目を集めている図というのは、面白くないこと甚だしいのである。
同時に、イレーネは、これはアスランからビンデバルドへの挑戦だということは即座に感じ取っていた。
何も、ジグマリンゲン次男の方からビンデバルド宗家の方へ、新年会の招待をしておいて、その場で、音楽の大家であるビンデバルドの姫の前で、イヴのことだけ持ち上げる事はないだろう?
しかも、イレーネはよりにもよって「夢のワルツ」かと、イヴが天然で弾きこなした曲の事でいらだっていた。悪魔のような天才音楽家、ミカエリスにはライバルがいた。アルフォンス・フォン・ビンデバルドという。ビンデバルド家から出た宮廷音楽家で、時の皇女達の音楽教師もしていたのだが、いつもいつも、あと一歩のところでミカエリスに退けられてきた不遇の大家である。
そのビンデバルドの前で、この場面で、夢のワルツを弾くか!?
そういうわけで、皇帝家に男子がいたのなら、我こそが皇太子妃になっていたはずという家柄のお嬢様は、激しく苛立ち、それを表に出し始めたのである。
それに気づいたのがエリーゼだった。最初から、イレーネの方が妙に気になっていたため、彼女が恐ろしい眼圧でイヴやアスランの事を睨み始めると、関係性を把握してないだけ、恐くて仕方ない。元からイレーネは、女性にしては背が高く、顔も美人なのだが、形容詞は「立派な顔立ち」というようなもので、ふわふわしたいかにもお姫様然としたイヴとは真逆であった。
「イレーネさま」
そのエリーゼ……幽霊じみた影の薄い女の子に気がついたのが、付き人のバルバラだった。バルバラが、エリーゼが時々そっとこちらを見ている事に敏感に気がついたのである。
「何?」
つっけんどんなイレーネ。
「あの小娘……あの娘がアンハルト侯爵の養女で、暗殺を阻止した娘です」
バルバラは、イレーネにしか聞こえないような声でささやいた。会場内で、最初から付き人として紹介されていたので、誰も不自然に思う者はいなかった。
イレーネはかっと目を見開いたが、すぐに、なんともないというように取り繕い、自分もできるだけ何気なく、エリーゼの方に視線をやって観察した。彼女の知っている情報では15歳で、帝国学院高等部に入る前ということだったが、まだ13歳ぐらいにも見える。ちんまい貧相な容姿だったが、人形のように可愛かった。
(ふうん、あれが……アンハルト侯爵は、正月までは中立の立場だったけど、娘が暴走したために、皇家についたってことよね。可哀相に。捜査班なんか組んだって、我々皇后の実家が、尻尾をつかませることなんてあるわけないでしょう。アンハルト家は、養女を取るだけ失敗よ)
つまり、ビンデバルド宗家に逆らったかどで取り潰してやるという意味である。
そんなふうにしていると、ちょいちょいイレーネの反応を確かめていたアスランが、エリーゼの方に話しかけた。
「そういえば、ピアノが得意な方がいらっしゃいましたね。エリザベート嬢」
アスランはエリーゼの方を向いていた。だが、エリザベートと呼ばれたエリーゼは、他の令嬢を探してあちこちキョロキョロ見回した。エリザベートという名前は、当時の帝国では、最も多いベタな名前の一つだったのである。
アスランはその様子を見て思わず吹き出しそうになった。甲と志はエリーゼが何をやっているのかわからなかった。仕方なく、リュウが言った。
「エリーゼ。君のことだ」
「!!」
アスランは、エリーゼがピアノをよく弾く事を、リュウに話していたのである。
「エリーゼは音楽が好きなの?」
イヴがあんまり遠慮するので困っていたリマは、話題をエリーゼに振り直した。
「あ、はい……」
「ピアノを弾く方なの?」
「はい、少し……」
エリーゼはよく言って控えめ、悪く言ってはっきりしない様子で低い声で話している。
イレーネには最悪の事態であった。もじもじブリッコして注目を集めるイヴ(天然、わざとではない)の性格も嫌いだったが、似たような娘が出てきて、それがアスラン暗殺を阻止した侯爵令嬢なのである。この娘が余計な事をしなければ、アスランはとっくに抹殺出来ていて、後は厨房長を毒殺した後はもみ消してしまえば、冒険者達新興勢力は一網打尽、それで、ビンデバルド宗家のターンが来たのかもしれないのに。
物凄い顔でイレーネは、エリーゼをにらみつけ、エリーゼは物理的な寒気を感じたほどだった。
(何? 私、あの人に何かしたっけ??)
そのとき……アスランが、笑った。
余裕のなさそうなイレーネを、楽しむかのように、全く敵ではないというように、笑って見せた。
それが、挑発であることぐらい、イレーネもわかっている。
だが、イレーネは今一つ、我慢が出来なかった。
(だけどアスラン、あなたは知らないでしょう。風と音楽と、密やかなる陰謀のビンデバルド宗家。たとえ魔界へ行って魔王を倒したとはいえ、あなたの知らないことなど、この世には山ほどあるのよ)
イレーネは、胸元のロケットを探った。ロケットの中には、ビンデバルド宗家が南方から手に入れた猛毒の粉が入っている。一吸いしただけで、どんな頑健な猛者も即死するというものだ。その猛毒の入っているロケットを手に触れたまま、イレーネはもう片方の手で、ミトラ十二神ではないとある神……すなわち魔神の印を指先で描いた。そして口の中で、その魔神の真名とされる発音を三回詠唱する。
そして呼んだのは”風の毒”のアレンジバージョン”風の毒針”。
何の音も、何の示唆もなく、風の中を猛スピードで見えない毒針が進むのだ。アスランに向かって。魔法の毒針はどんな証拠も痕跡も、この場には残さない。ロケットの中の猛毒と同じ能力を持つ毒が、当たればアスランを即死させてくれるだろう。
最も、彼は、ミトラ十二神に愛され、庇護を受けているという話だが----。




