17 それぞれの夜
知らぬが仏。
そういう言葉が神聖バハムート帝国にあるかどうかはともかくとして、そのときの甲はまさにその通りの状態であった。
神聖バハムート帝国においても、一日の時間は24で割れる。
元々、現代日本人が描いた漫画の世界であるため、時間軸はほぼ同じで、一年は360日、一ヶ月は30日きっかりで12ヶ月と決められていた。
その現代日本に酷似した時間帯において、18:00に甲は城から定時で下がっていた。そして19:00前に、”紺の旗の街”に帰宅した。
それとほぼ同時刻に、冒険者ギルドで今日の分の依頼を終えたらしい志が、玄関口に現れた。
二人が住んでいる家は、中古の二階建ての借家である。一階にキッチンと水回りなどがあり、二階にそれぞれの寝室があるこじんまりとしているが機能的な家だ。
魔大戦が始まる前年から、二人はシュルナウのこの家で生活している。ちなみに、志と同じ冒険者ギルドに登録しているリュウの方は、”狼の寝床”の宿屋を兼ねた下宿に住んでいた。
「志。早かったな」
玄関口でばったりと血の繋がらない弟に出くわした甲は、彼にそう声をかけた。
「兄貴こそ。今日は凄く早いんじゃない?」
甲は城でイヴにべったりで、帰宅時間が22:00を超す事もしょっちゅうである。つまり、イヴが寝室に入ってからやっと帰宅するという訳だ。それで、大抵の場合、志が先に帰宅して、甲の分も夕飯を作って待っている事が多かった。かわりに、甲は朝食を作ったり洗濯をしたりと、それなりに家事の分担は出来ている。長年一緒に生活しているうちに自然とそうなったのだ。
「これを、姫からもらったからな」
甲は、持ってきたキルトで蓋をしたバスケットを持ち上げた。志はきょとんと目を瞬いた。
「何、それ」
「イヴ姫からもらったケーキだ。姫のお手製らしい」
「ええー! そんなのもらってきたの、いいの!?」
「イヴ姫は子どものころから菓子作りは得意でらっしゃる」
そんな会話をしながら、甲と志は連れだって貸家の中に入っていった。
玄関から入ってすぐのダイニングキッチンには大きながっしりした作りのテーブルが置いてある。甲はそこに、バスケットを置いて皿を並べ始めた。それを見て、何も言われなくても志は薬罐でお湯を沸かし始めた。
のゆりにとっては、未だに違和感があることが多いのだが、この世界では魔法の力が電気やガスの代わりのエネルギーになっている。薬罐をわかすガス台のような器具はあるのだが、その中に、クロリスと呼ばれる魔法の宝石が入っており、それが電池のような役割を果たして台に火をつける事が出来るのだ。
クロリスは、現代で言う「家電」のすべての入っており、それは安価なものから高価なものまで、様々な形態を取っているが、基本的には電池と同じで、エネルギーが消えたら、専門のショップで回収されることになっている。
志は音声でクロリスを操作し、お湯をわかして、甲がケーキの皿を並べているテーブルの方に持って行った。甲はサーバーにコーヒーの用意をして待っていた。志がお湯を注ぐと、コーヒーの香ばしい匂いが部屋に満ちた。
「可愛いケーキだね。兄貴、なんかこういう、Sweetyの字とかも、イヴ姫がかいたのかな」
「そうだろうな。イヴ姫は、ヴィー様や、リマ様とケーキ作りをすることもあるが……今日は全部一人で作ったらしい」
「やっぱり姉妹仲いいんだねー。いいなー。俺もケーキ作ってるところ、見てみたい」
「……」
甲は黙って、マグカップにできあがったコーヒーを注いでいる。
イヴがケーキ作りをしているところまで、入っていっていい身分ではない。だが、見る事は見ていた。見守っていた。どうやってと言われても、忍びの技でのぞき見していた。それを、弟に言う訳にはいかないので、否定もしないが肯定もしない甲。
「だけどこんなにもらってきちゃってよかったの? 四個もあるじゃない。俺は、嬉しいけど」
「何でも、姫は、今日に限って軽量を倍に間違えてしまったらしい。それで、俺の方にくれたんだ」
「イヴ姫らしいねー!」
そういうわけで、ケーキを二個ずつわけて食べる事にする兄弟。
「甘い! それにすっごくサクサクしている。おいしい。これ何個でもいけそうだね!」
「味わって食え」
食べるなり志は無邪気に感想を述べた。甲の方は特に感動がないように見えるが、それは、彼の持ち前の性格による。忍びたるもの、みだりに喜怒哀楽を明らかにしてはならないらしい。
「ケーキもらった分、今度お礼しないとね。兄貴、イヴ姫の好物とか、なんだっけ」
「そんなことは俺がやるから気にしなくていい」
「でも……」
「あえていうなら、イヴ姫は、甘い物がお好きだ」
「そっかー。だよね。だから自分でも作るんでしょ。リマも……じゃない、リマ様も」
リマの名を呼ぶ時に、志の声のトーンが微妙に落ちる。それを聞いて、甲は、眉をわずかに上げて弟の顔を見た。もぐもぐ、サクサクとカップケーキを食べている志は、柴犬の耳と尻尾を持っている地獣人である。
それに対して、リマは狼耳と尻尾を持つ地獣人で、色合いは結構似ている。志が赤茶で、リマが黒だ。
瞳は両方とも、緑がかった琥珀色。
リマは3/4地獣人で、風精人らしい形質はもはやほとんど持っていない。志に至っては完全に地獣人と思われていた。そのせいだろうか、魔大戦で皇女たちと合流した時に、真っ先に皇太子のリマと打ち解けたのが志だった。リュウはもちろん、アスランでさえが、三皇女とパーティを組む事には緊張していたのだが、志はそんなことを全く気にしなかったようだった。元から、それこそ柴犬のように無邪気で人なつっこい性格なのである。自分に似た姿形を持つリマが皇太子であることも、そりゃもう無邪気に喜んだのだった。
あからさまに屈託ない好意を示されたリマの方も悪い気はしなかったらしい。
リマの用いる武器は「剣」で前に出て戦うのだが、志は「拳」で戦うスタイルだったので、自然と陣形も近くになったのが幸いだったのか、不幸だったのか……。
血の繋がらないとはいえ、兄である甲の目から見たら、全く二人とも可愛らしいとしか言い様がない。決戦の間中くっついて、背中合わせになって戦っていたのである。
実は、志が真っ先に魔王戦では削られたのだが、それは、リマを自分の後ろに下げて、彼女の分の被ダメも引き受けたようなものだからだった。それぐらい、あからさまで見え見えの行動を取っていた。それが……というか、それだからなのだろう。17歳皇太子のリマ、その純粋な行動に打たれた節がかなり見受けられた。……のだった。
決戦の間は、呼び名は短い方が声を掛け合いやすいので、平然と「リマ」と呼び捨てる事も出来たが、現在は、「リマ様」と呼び直さなければならない。甲も、そういうことは厳しくて、志にダメだししていた。それが、素直な志にはさみしい事であるらしい。それで、ケーキを食べながら微妙に顔を曇らせている。
「志、最近、ギルドの仕事はどうだ?」
甲は弟の仕事を気にした。
「護衛ばっかりー」
志はコーヒーをすすりながら答えた。猫舌なので、マグカップを吹いたりしている。
「要人護衛?」
「うん。貴族の人とか……。あと、貴重品の配達もしているよ」
「ランクはどうなんだ」
「えっとね、7」
「7?」
「この間は8をしたよ」
「……志」
「え、だめだった?」
冒険者ギルドのランクは、1~10までで、最大の難易度とされるものは10である。冒険者は、CからSSSまで細かくランク分けされており、SSSランクの冒険者だけに任されるのが難易度10、だがそんな任務依頼は滅多にない。大抵は、難易度8~9の任務を引き受ける事になる。
SSSランクの真下であるSSランクの冒険者は、7~8,SSSランク冒険者のパーティに入った場合は9を引き受けてもいいことになっている。
ちなみに志は、SSランク冒険者の18歳。難易度7は全く順当なところであったが、難易度8となると、甲は焦りすぎているような気もした。
「だめではないが、一人で行った訳じゃないんだな?」
「それはもちろん。ギルドで紹介された、SSランクの人たちと一緒に行ったんだよ」
「何人と?」
「三人」
「……まあ、怪我がなかったんならいいが」
甲はそれ以上、弟の仕事を根掘り葉掘りすることはやめておいた。親しき仲にも礼儀ありである。
「要人護衛で、貴族……だから、難易度8か。大体わかった。無理はするなよ」
「うん。でも俺、目標あるから!」
「それはわかっている」
甲は、テーブルごしにやや身を乗り出して、弟の頭をぽんと叩いた。
「目標に向かって、己を高めようとするのはいいことだ。自分の出来る範囲を間違えないで、頑張れ」
「うん! ありがとう、兄貴!!」
満面の笑みとなって、志は甲を頼もしそうに見上げた。
「ありがとう兄貴。ケーキおいしかった。イヴ姫にもお礼言っておいて。おいしかったって!」
「……。イヴ姫のじゃなくて、リマ様のケーキが食べたかったんだろう、お前は」
「兄貴っ!」
志は真っ赤になって柴犬の尾を逆立てた。だが、甲は知らぬふりで、皿などを流し台の方に持って行ったのだった。甲は、志が、焦っていないかどうかは気になるが、基本的には弟の能力を信じる事にしていた。
志は、早く、帝城に上がれるSSSランクになりたいのだ。そして、自由にリマに逢いたいと願っている。リマが市井の民に出入り出来ない身分なら、自分が、一生懸命仕事を請け負って認められ、SSSランクになって、彼女に会えるようになればいい。本当にそれだけの単純な願いで、実に、この弟らしいと甲は可愛く思っている。
だが、同時に、志は一つの事に集中すると他がわからなくなるところがあるので、そこが心配といえば心配なのだった。努力するのは悪くないのだが、一心不乱はやりすぎになりがちだ……。
「何だよ、兄貴だって。イヴ姫べったりのオタクのくせにー」
「何か言ったか?」
「何でもありませーん!!」
志は、片付けものを甲に任せて、さっさと二階への階段を駆け上がっていった。
その晩……。
エリーゼは、土曜でもないのに、ハインツやゲルトルートと夕食をともにしていた。
ちなみに、神聖バハムート帝国は、曜日だけは現代日本とずれている。
曜日は空から始まる。風、水、火、土、木、金、光、闇の九曜日。一般に休日されるのは光曜日だが、そうすると、一ヶ月に三日しか休日がないことになる。それで、大抵は職場や家庭で決まった曜日に休日を取る事にしていた。アンハルト侯爵邸の場合はそれが、ハインツの職場の休みの土曜日。そうなると、月に大体6~7回は休みが来る事になる。
エリーゼが春から通う事になる帝国学院では、何でも、光曜日と闇曜日が連休になるようである。
最初はその、帝国学院の噂話を、ハインツとゲルトルートがしていて、エリーゼもそれは、全く興味のない事ではないので、話をよく聞きながら夕飯を食べていた。
何しろゲルトルートが、帝国学院の卒業生なので、そのコネから色々な情報が入ってきており、エリーゼはいわゆる「高校デビュー」を間違いたくはないので、養母の話に耳をそばだてていたのである。
「そういえば、アスランは帝国学院卒ではないそうですね」
不意に、ゲルトルートの話題がすっ飛んだ。中年女性にありがちな感じですっ飛んだ。
エリーゼは目を白黒させた。ないとなう! の話にすっ飛んだのと同じだからだ。その通り、アスランは大貴族の子弟でありながら、帝国学院卒業生ではないのである。
「ああ、俺と同じ、陸軍士官学校だ」
そこは胸を張ってハインツが言い切った。
「陸軍……士官学校……」
帝都シュルナウの近郊に、その武門の名門校はあるそうだ。ハインツはそこはなめらかに滔々と、陸軍士官学校とその大切な役割を説いてくれた。三割ぐらいは自分の自慢話も入っていた。
エリーゼは、アスランに関わる話であるので、目をまんまるにしてそれを聞いていた。
実は、ないとなう! では、その陸軍士官学校に「実家で問題を起こした」と簡略な説明書きがついた、アスランの転校の場面から話が始まるのだ。
話は魔大戦勃発前夜で、国が魔族に荒らされている描写から始まる。
魔族討伐の人員が圧倒的に不足しており、アスランは転校してくるなり、士官の一人? のような言われ方をして、魔族討伐にクラスの同期と乗り出すハメになる。
ちなみに、そのときのクラス担任が、うら若きレオニーである。陸軍士官学校編はわずか二巻、世界観紹介で終わり、三巻からは魔大戦が始まって、士官学校を卒業してアスランは近衛府(貴族の子弟が配属される皇帝の軍隊)に回されるのだった。
(懐かしい……。ないとなう! の初期のころは面白かった。1~3巻まとめ買いして、一気に惚れちゃったんだよねー。あの頃のアスランもかっこよかった……)
などと追憶にふけっていると、ハインツは当然のことをエリーゼに聞いてきた。
「エリーゼ、今日の茶話会はどうだった?」
「えっ」
「姫様のご機嫌はいかがだった?」
エリーゼは、癖の「あ、はい」をなんとか飲み込んで、喉を開くように意識しながら、ハインツに言う事を言った。
「どの姫様もお優しくて、すてきな方達ばかりでした。アスランさまも、リュウさまも、おとうさまの好きな、三国武勇伝の話をして、楽しく過ごしてらっしゃいました」
「ふむ。三国武勇伝」
ハインツは、目を光らせて養女の顔を凝視した。エリーゼは、ハインツの視線を感じて、背中を強ばらせた。粗相はしなかったと思いたいが、「あ」「え」「はい」がやたらに多い会話をした事が気になってしまう。ハインツの方からは当然、厳重注意が来ているのだ。
「三国武勇伝のお話は、殿方だったら当然好きでしょうけどねえ」
ゲルトルートはつまらなそうだが、彼女はのりやすいミーハーな性格なので、華麗なエピソードの多い武将ならば、大好きである。
「はい。おかあさま。姫様たちも、三国の武将はお好きでいらっしゃって、色々お話してました」
エリーゼは腹に力を入れながらちゃんと返事をした。
「エリーゼは何のお話をしたの」
ゲルトルートは穏やかな声で慎重にそう聞いてみた。
エリーゼは「えっと……」とうつむきそうになるのをこらえ、なんとか顔をあげてみる。
「ノイゼンの武将のオズウィンが、敵将に挟み撃ちになりそうな時に、妹のイルザの機転のひよこ豆で救われた話などを、しました」
ハインツの前で緊張してしまい、声が微妙に震える。
ハインツはなんともいえない、考え込むような表情だ。ノイゼンの梟雄オズウィンと、その妹で美人の誉れが高いイルザ姫のエピソードは、中学生でも知っているような有名どころである。日本で考えるならば、織田信長が、妹お市の小豆袋の知らせでピンチを救われた逸話によく似ていた。それで覚えやすかったのだ。
「他には何を?」
エリーゼは何を話していいのかしばらく考え込んだ。
神聖バハムート帝国建国以前の群雄割拠時代、テラ大陸を股にかけて活躍した武将は数多い。その武将のきらびやかな逸話と言ったら数えきれず、現代でも様々な小説家などが換骨奪胎して著名な作品を作りまくっているのだ。
だが、エリーゼは疑問に思う事があった。何かというと、日本の漫画家が作った世界なのだから仕方ないのだが、
・ヒーゼルという庶民派の英雄が一夜にして城を建てた話
・イグナーツという武将の、ぬるい茶、普通の茶、熱い茶の気配り
・ボトルフという隻眼の英雄が、密書の印にしていた鳥の目に、針を刺していたため命を免れた話
・梟雄オズウィンが若い頃天才過ぎる振る舞いが多くて家臣の代表が諌死するほどだった話
・マルテスという策士が三人の息子の諍いに対して三本の矢を授けた話
……
他にも数え切れないぐらいあるのだが、これらは、ないとなう! 原作中には全く出てこない逸話なのである。それなのに、現代日本の中学生レベルだったら誰でも知っているような話が、漫画内の名作三国武勇伝にじゃんじゃん出ていたので、エリーゼは首をかしげたのだ。
漫画内にこれらの有名な逸話が生かされる事があるのだろうか?
ないとなう! に、三国武勇伝が出てくる事があるのかな??
それで子どものころから首をかしげていたのだが、おかげで、そういう話は前世の教育もあってすらすら答える事が出来た。
「うむ。大体及第点だな。クラウスも三国武勇伝はよく読んでいたから、話し相手をしていたんだろう」
大体知識のレベルとしてそれぐらい、とハインツは把握したらしい。
「イヴ姫が三国武勇伝の事を知らぬ訳ではないだろうが……ああ、ヴィー姫とリマ様は、武勇伝はお好きだろうな」
それから、ハインツは独り言のように言って納得していた。
その後、ゲルトルートがエリーゼに話を促して、色々と、茶話会の様子を聞き出した。ハインツは妻の仕事を黙って聞いていた。エリーゼは正直に、茶話会での出来事を聞かれるままに報告し、最後に、だんだん下の方を向きながらこう言った。
「”あ、はい”とか、”その、えっと”とか、言ってしまう癖が抜けないので、なおしたいです」
「……なおしなさい」
ハインツは無言の後にそう言った。
それ以上、何も注意はされなかったが、取り立てて褒められもしない--と思ったが、すぐにハインツはこう言った。
「姫様達から、本を借りてきたのだろう。大切に読んで、丁寧にお返しするのだよ。ヴィー姫は、苦手な人間に、本を貸したり紹介したりはしないからな」
容姿はそっくりだが、性格はイヴと真逆と評判のヴィー姫は、軍人とは相性がいいのだ。
まだ少女のエリーゼは、詳細は知らないのだが、ハインツは帝国の兵部省の人間である。位は少将。亡父クラウスもそうだった。
それが、ハインツからのねぎらいの言葉だと気づいたエリーゼはぱっと頬を染め、勢い込んで礼を言った。
「ありがとうございます、おとうさま!」
そういうわけで、エリーゼは、普段よりも長い時間をかけた夕食を取り終わり、やっと自分の部屋に帰る事が出来たのであった。
その晩は、興奮してなかなか眠れないと自分でも思っていたが、ベッドの中に入ると、不思議なぐらい速やかに眠りに落ちる事が出来た。気がついていなかったようだが、たまに出かけただけで、エリーゼはひどく疲れていたのだった。
ところで、その頃、アハメド二世の意中の婿、アスランはというと、夜更けにジグマリンゲン邸の広大な庭園を散歩していた。
何やら、胸騒ぎがして眠れなかったのである。
帝都シュルナウの一月の夜。
冷たい夜気にさらされながら、アスランは、ともまわりもつけずに一人で庭の玉砂利を踏んでいた。ジグマリンゲン邸の庭は、北方の雄のそれらしく、広いだけではなくよく整備され、トネリコやニオイヒバ、松の大木などが植えられている。広い芝生の真ん中には巨大なウエディングケーキのような噴水が設置され、その周辺の花壇には冬の花が咲き乱れていた。
シュルナウの他の貴族が見れば、異国情緒があふれる庭である。それは、庭の木々の間に、山桜や椿が点在していることだろう。
紅白の椿は今が時期で、みずみずしい香りを放ちながら咲き誇っている。その木々を抜けて、アスランは、彼らしくない無表情で夜の中を歩いていた。
暗殺直後の身で、夜中に庭を歩くなど、常識なら考えられないのだろうが、彼は今、一人になって考えを整理したい気持ちだった。
自分が暗殺されかかった件。
本人に心当たりは、いくつかあった。
今日、三人の姫と話していた時には見せない表情で、アスランは、その心当たりを一つ一つ、頭の中でピックアップしては様々な角度から考え直していた。
正直な事を言ってしまえば、アスランは、自分が貴族の中”では”異端視されていることを知っていた。近衛府に同期の仲間は何人かいるものの、彼は、新興の冒険者達と仲がよい事や、その冒険者達が組みたがる、大商人や目の付け所が違う発明家などと、妙に馬が合う事が、強みであると同時に諸刃の剣である自覚があった。
そして、貴族は貴族なのである。自分の既得権益を守りたい伝統ある貴族にとっては、自分のような変わり種が、どういう存在であるかは、知っている。少なくともそのつもりである。
(ノイゼンを飛び出てきたのが八年前……ちょっとやり過ぎたかな?)
さすがに、魔族以外の貴族に命を狙われる段階となると、彼のような陽気な人間も険しい顔になることがあるようだ。
無論、ビンデバルド宗家の事は最初に気がついていた。証拠がないのでなんともいえないが、皇帝の三人の娘と魔王決戦で勝利したのだから、彼は明らかに皇帝派の人間とみられている事だろう。
だが、そのビンデバルド宗家に、即座にジグマリンゲンのコネを使って反撃に出なかったのには理由がある。
アスランは、冬枯れの山桜の木の前に進み出て、そこで足を止めた。
山桜--彼の母、マリカの母国オノゴロ王国の花。
この庭がなぜに、東洋の匂いがするのかといえば、マリカの趣味であるとしかいえない。そして、マリカが産んだ子どもは二人いた。ジグマリンゲン家の長男は別にいる。つまり、そういうことだった。
(兄さん……)
アスランは軽く唇をかみしめる。次男がなぜに、シュルナウへの転校生になったのか、それは実に簡単な問題で。
嫡男である長男レナートスの最大のライバルが、次男アスランだったからだ。
それは考えたくない可能性ではあるが、考えたくないから考えないでいいという事にはならない。
アスランが、真っ先に疑ったのは、十代の自分と本気で家督を争い、家臣団を真っ二つに引き裂いた兄の事であった。その話は屋敷の執事にさえいえないし、親友のリュウにもいえなかった。彼は、どうやって、レナートスへの信頼を取り戻していいのか、考えていた。
考えるとして、疑惑を兄にぶつけることでも戦うことでもなかった。
”どうすればレナートスを信頼出来るか”を、考えた。
未だ咲かない山桜の木を見上げ、アスランは、同じ腹から生まれた兄の見えない目の事を、考えていた……。
 




