008 ショートヘアが、風を切り裂いていった。
「……広海?」
誰かが、広海を呼んでいる。サーカス団の動物ではない、芸を見せに起きるつもりはない。
……まだ眠いな……。もうちょっと寝かせてくれ……。
そういえば、自分はベッドに寝転んでいるわけではなく、背もたれによれかかって寝ていたようだ。
冬休みは、まだ終わっていないはずである。帰省の日ももう少し先だろうから、たたき起こされる理由がない。強いてあげるとすると、朝食が冷めてしまうからだろうか。
……べつに、冷めても食べられなくなるわけじゃないし……。
夢うつつで、ぼんやりしている。
「……別に、冷めてもいいから……」
返答だけしておいて、また眠り込もうとした。
「ひーろーみー! 学校に遅刻するよ! 起きて!」
母親のような、しかし何かはっきりしない怒声が鳴り響いた。
……嘘をつくんじゃないよ。まったく……。
だんまりを決め込もうとして、ふと違和感のしこりが残った。
母親が、甘さの紛れ込んでいる声で朝の呼びかけをしてきたことがあっただろうか。血縁関係で直接つながっているということもあるが、過去にあったのならば気持ち悪くて記憶から消えないはずだ。
……何だろう、この噛み合わない感は……。
もう一声、待ってみよう。
「……寝ぼけてるなぁ……。幸紀だよ、さき」
……あ。
部屋の中にいるにしては随分寒いと思ったが、それもそのはず屋外だった。起きるように仕向けるために冷房を入れられたと思っていたのは、嫌がらせのような北風であった。
……俺、床屋の隣でうたた寝して……。
幸紀の散髪を待つ間に、意識が落ちてしまっていたようである。日向ぼっこで気持ちよくなるような季節では無いのだが、徹夜というものは恐ろしい。
やっとの思いで、広海は薄目を開けた。
「あ、やっと起きた! ……何かと勘違いしてたみたいだったけど、大丈夫だった?」
幸紀が、やれやれと右手で肩を払った。米袋を一キロ運んできたわけでもないのに、まるで重労働をしてきたような仕草である。
……まさか、いつもの目覚めと勘違いしてたなんて、言えるか?
広海が毎朝寝過ごしていて、だらしのない生活をしているということがあらわになってしまう。広海も男だ、女子の前でカッコつけくらいはしたって天罰はくだらないだろう。
「……いいや、なんでもない。目覚まし時計かと思っただけだよ」
「女の人の声が入ってる目覚まし時計なんて、あるの?」
「ある。どこかの時計屋に売ってた」
このことは、事実だ。目覚まし時計を買い替える時に手に取ったものが、切り替えで女性の声も出せるものだったのだ。買ってはいないので広海の部屋を散策されると化けの皮がはがれてしまうが、幸紀はむやみに人の部屋に入ったりはしないだろう。
追撃から逃れたところでちらりと上の方をうかがうと、幸紀が不満そうに口をへの字に曲げていた。
「……広海、どう? この髪型、似合ってるかな……?」
夏の頃に、広海がかつて好きだった女子がいきなり髪型の感想を求めてきたことがあった。
『広海、何か感想言ってよ』
『いきなり!? ……うーん、よく似合ってると思うよ』
広海としては褒めたつもりだったのだが、彼女は気付いてもらいたかったことがあったのだ。乙女心というものは、どうも扱いが難しい。液体燃料と同じように、蹴りでもしようものなら大爆発する。
なんと、前髪を二ミリだけ均一にカットしたと主張してきたのだ。目を凝らしてよく見ると、その子の前髪は確かに短くなって……いる気がしなかった。
幸紀の話に本線は戻るが、そういうことでないことを祈る。
それまで地面を向いていた顔の照準を、目線の高さまで押し上げた。
「……!?」
幸紀は、先日広海が好きだと話していたスポーツ少女のショートヘアになっていたのだ。常日頃長い髪に引っ張られていた力が消え失せて軽くなったのか、彼女の髪の毛が無意識にふわふわ上下に動いているような気がする。
……これは、幸紀が狙って?
思い込むのはまだ早い。本来の幸紀が、こういうショートヘアだった可能性は否定できない。部活に入っていないと言っていたが、一人でスポーツをしていたとすれば矛盾も見つからない。
運命という言葉を、軽々しく適応するべきではない。そうすると何もかも運命によって定められているように感じ、どう努力しても結末が変わらないように思えてしまうからだ。
幸紀と広海が、桜咲く季節までこのように二人並んでいられる保障は無い。変な期待を持つのは控えるべきだ。
……幸紀が、はっきりと言ってくれるのなら、それは別だけど。
「……俺が好きって言ってたヘアスタイルじゃん。似合ってるよ」
広海の言葉に、嘘偽りはない。広海には超ロングヘアより、ショートヘアの方が女の子として可愛く見えるのは変わりようのない事実だ。
……クラスで告白されたら、OKしてしまいそうだな。
「……そーう? 良かった、喜んでくれて……!」
幸紀は、見るも眩しい太陽になっていた。注視することができなかった。
「次はどうする、広海? 私の願いを聞いてくれるなら、ここからあそこまで競争しようよ!」
あそこまで、と幸紀が指差した電柱は、約二百メートルの距離にある。交差している部分は無く、隔たりの無い道がずっと向こうまで続いている。競争するには、最善の条件である。
……負ける気がしない。
男子と女子では、基本的に男子の方が陸上競技のタイムが良い。もちろん素人とプロが対決とプロが勝つのは当然のことなので、そういった例外は除外することにする。
ましてや、平均的な男子高校生と飢餓から立ち直ったばかりの女子高校生が競走するとなれば、その勝ち負けは明白。勝負としてなら、無謀だろう。
……きっと、勝負がどうなってもいいんだろうな……。
「いっち、にー、さん、しー、……」
ラジオ体操をして、準備を怠らない幸紀。その目には、闘志と言うよりも楽しみに満たされている。
子供は、とにかく体を動かしたがる。何処から湧き出てくるのか分からない体力を相手にして、へとへとになってもなお連れまわされる親も多いはずだ。
幸紀は、その元気いっぱいにはしゃぎまわる子供のようだった。外に出ること自体が嬉しくて、ワクワクに体の疼きが止まっていない。
中学三年次の彼女に、今のような気持ちはあっただろうか。恐らく、備えてはいなかっただろう。それもそのはず、幼少期に知らなかった『なぜ』も、中学校を卒業する段階まで来ると大半の事は解明されている。新鮮なことが少なく、子供のようにはなれない。
彼女にとって、体を動かすことはいつでもできることで、緊急の用事ではなかった。広海は、そのように予測する。かつても今も、広海がその通りだったように。
……それが、いつでもできる事じゃなくなった。
明日を生きるのも知れぬ身になると、運動どころではなくなる。運動は、エネルギーを消耗して一日に使える限度のある体力も消費する、敬遠すべきものになる。
その反動なのだろう、幸紀に気力が有り余っているのは。
「それじゃ、スタートラインに並んで?」
「どこに引いてあるんだよ」
「心の目で見える」
想像でスタートラインを地面に引けと言っている。その気になればゴールの電柱直前からスタートしてもいいのだが、流石に不平不満と空き缶が飛んできそうなので譲歩しておく。
だいたい同じ位置に並んだのを見て、幸紀がフラッグ代わりと右腕を振り上げた。
「位置について!」
無論、手を抜くつもりはない。上に伸びて、筋肉の緊張を解き……
「スタート!」
背伸びをした広海を横目に、幸紀が先駆けていった。
公式な陸上競技ならば、号令が鳴る前に静止状態から脱するのはフライングで、やり直しになる。記録など残らないし、二回目は失格になる。広海は、そのつもりで構えていたのである。
しかし、重要な項目が頭から抜け落ちていた。
……スタートの号令出すの、幸紀だった……。
幸紀は、好きなタイミングでスタートの合図を出せる。まともに取っ組み合って勝算がないのは彼女も深く理解していることだろう。楽しむことが大前提にはあるが、ただ負けるのも癪だったということだ。
「やったな!」
遅れて、広海も走り出した。一瞬のうちに幸紀から離されてしまったが、何せゴールは二百メートルも先なのだ。今からでも、十分挽回は可能だ。
せかせかと、腕を大きく振って推進力を得ている幸紀。それほど大きくはないものの、ついているものは細かく揺れているのが後ろから分かる。
……不意打ちだったとはいえ、負けるのは嫌ですなぁ……。
少しずつ、差は縮まっている。道が無限に続けば、いずれ広海は幸紀を追い越すだろう。
しかし、思いのほか幸紀が速い。蹴り出される一歩一歩から、反発力をばねにして前へと跳ねだしているかのようだ。まともに運動をしていなかったであろう彼女のどこにそのような技術が眠っていたのであろうか。
……速い!
残りは百五十メートルほど。幸紀は、まだ広海の前方に位置している。
……このままいくと、ゴールするときに追いつけるかどうかだな……。
幸紀に、負けるかもしれない。その思いは悔しさを生み出したが、同時に嬉しさも生み出していた。
……あのボロボロで目が死んでた幸紀が。あの幸紀が、全力で走ってる。
彼女のパワフルな姿が見られて、娘の成長をまじまじと感じている父親のように感激している広海がいた。
と、幸紀の足の回転数が、急速に衰えていった。広海は、あっけなく幸紀をかわしてトップに躍り出た。
スピードを緩めることなく、電柱へと向かって行く。後ろからは、バタバタと幸紀が必死に追いすがろうとしている足音が聞こえてきた。その音は、次第に遠ざかって行っている。
架空のゴールテープをガッツポーズで切った広海は、幸紀が走ってくる方向へ振り返った。
「……待ってー! はやいよー……」
ゼエゼエと息を荒くして、数秒遅れで幸紀もゴールインしてきた。
たった二百メートルの競走であったのに、幸紀は汗ばんでいた。
「……汗、かいてきちゃった。タオルとか、持ってきて来ればよかったなぁ……」
垂れてくる汗をぬぐいながら、手で風を扇いでいる。
冬のこの季節、汗をかくことは少なくなる。ほんの二百メートルを走っただけで幸紀のようにダラダラと嫌な感触のする汗をかくことは無く、全身持久走でようやく肌着が汗でぐっしょりになる程度だ。
当然と言っては何だが、広海も拭き取るものを持参していなかった。
「帰ったら、ちゃんと着替えた方がいいかもな。風邪ひいたらたまったもんじゃないし」
「そうする」
広海が風邪を引いたのならば、数日間部屋で寝込むだけで済む。風邪薬を飲み、体調が回復すればそれでおしまいだ。帰省が取りやめになるだけで、痛手らしい痛手と言えば幸紀と数日間会えなくなることくらいだ。
しかし、幸紀の場合はそうならない。風邪を引いても、診療所にかかることが難しい。保険証は彼女が肌身離さず持ち歩いていたおかげで現存しているが、父親に見つからないようにするのが困難なのだ。現状では、家で安静にしておくしか方法が取れない。
それでは寝ておけとなっても、看病は誰がするのか。病人がいないことになっている広海一家では、父親が寝室に移動して休憩している合間にしか食事を運ぶことが出来ない。付き添って、父親に見つかれば一発アウトだ。
幸紀が風邪になると、押し入れでおでこにシートを貼って寝ていてもらわなければならなくなる。それは彼女本人も、広海も望まないことだ。
「……もうちょっとだけ、ここのあたり散歩したいな」
幸紀には、この街のことがほとんど分からない。謎があると解明したくなるのが、人の常だ。
「……今度は、幸紀が好きに歩いて行っていいよ。変なところに行きそうになったら、俺が止めるから」
「それじゃ、全速前進! 特急列車、ただいま発車しまーす!」
特急幸紀一号は、広海という客車を引き連れて、レール無き道を爆走し始めたのであった。
※毎日二話連載です。内部進行完結済みです。
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