006 微笑みが、眩しかった。
そういえば、幸紀に問いを投げかけたことはあれ、自分の素性を明かすようなことはほとんどしていなかった。広海の『家に来てくれ』にためらったのも、それが糸を引いていたのかもしれない。
……幸紀のことは、もう十分すぎるくらい分かった。今度は、俺のターンだな。
「ああ、いいよ。何でもどうぞ」
特段面白いキャラではないが、暇つぶしにはなるだろう。
幸紀は肝心の質問を何も考えていなかったらしく、ピタリと音が止んだ。静寂の中に、鳥のさえずりに加えて外の一般道からの足音もプラスされた。
……ここに、幸紀がいるんだな。
右の方に目をやると、四肢をピンと伸ばしきって黒のパジャマを着ている澱みのない少女が、べったりと背中を床に張り付けている。
「広海は、どうして話しかけてくれたの? 石垣に座ってる私なんて、気にも留めなくてもおかしくないのに……」
雑踏を抜けた先に座り込んでいる、疲れ切った表情で身だしなみのなっていない女の子。いくら広海が家出していたという特殊な事情があったとて、厄介ごとに首を突っ込みたくはない。そう考えたのだろう。
……それは、俺自身が『こうなってもいい』って思ったからだろうな。
あの時、広海は家に一週間ほど戻るつもりはなかった。本気で、野宿とゴミ箱漁りで耐え凌ごうと思っていた。炊き出しの場所も分からず、ゴミ箱を漁っても大した獲物は眠っていないことを知っている今からすれば、何と楽観視していたのかと喝を入れたくなる。
幸紀が長期で野宿しているということは、黒いシミで汚れた服から何となく想像はできていた。未来の自分を、彼女のみすぼらしい姿に投影していた。
……『この子は、一週間後の俺の姿だ』。そう思ったから、興味が湧いたんだろうな……。
皮肉なことだが、甘い考えで一週間他足他給生活を行おうとしていたことが幸紀との出会いを生んだのである。
「……野宿した後のイメージが、幸紀とそっくりだった。あまりにも似てたから、興味を持った、ってことかな」
カッコよさも何もない。正義のヒーローになろうとして、声をかけたわけではない。闇雲に投げた一個のボールが列車の走るレールをゆがませ、本来は入線しない路線に入っていったのだ。
「……もしも私が断ってたら?」
つまりそれは、幸紀があの場へ残っていたらということだ。
……幸紀の意志を無視することなんか、できない。だから、だから……。
もしかすると、話を短く切り明日の約束だけして立ち去っていたかもしれない。そのパラレルワールドでは、幸紀の蝋燭は終わりを告げている。
彼女のことを守れていなかったかもしれない。そのわずかにあった可能性に、戦慄させられる。
「……幸紀は、死んでたかもしれない」
仮に幸紀がそうなっていたとすると、それほど恐ろしい事は無い。栄養失調で意識は朦朧とし、手足はまともに動かず、通行人は見て見ぬふり。誰にも看取られぬまま、静かに閉幕するのである。
……こんなことが、あり得たのかよ。
幸い、今の幸紀は健康体そのものとまでは回復していないのだが、一時の瀕死状態からは脱している。命の尊さは、教科書の文章だけでは上澄み液しかすくえない。百聞は一見に如かずと言うが、正にその通りだ。
「……それじゃ、最後の質問になるけど」
意外と、質問数が少ない。何でもかんでも問いただしてくるのかと思っていた広海にとっては、拍子抜けだ。
前の二つと比べて随分間を取った幸紀は、満を持して声に表した。
「好きな人のタイプって、……誰かな?」
理外の攻撃だった。抜け道で先回りされ、奇襲されたような気分である。
……幸紀……? いやいや、余計なことは頭から追い出せ。
広海と幸紀は、恋人などではない。ひょんなことから縁を持っただけである。例えば彼女の両親が突撃してくれば、その時点で縁は切れてしまう。
「……具体的に言うと?」
「……ヘアスタイルとか、性格……とか?」
人間が真っ先に欲するのは、生理的なものだという。それが満たされれば、次は安全。三段階目に、社会的に認められたいという欲求が現れる。恋愛感情は、この層にあたるのだ。
クリスマスイブの夜、幸紀は『寒さを防ぐ』『何か腹に入れる』という生理的欲求が頭の大部分を占めていたことだろう。その状態で広海より長けたコミュニケーション能力を発揮できたのは、奇跡のようなものだ。
そんな明日も保障されていない幸紀が、今や三段階目のランクにまで達したことになる。精神面に多大なダメージを負うと修復できないが、その心配は無さそうで何よりだ。
「……うーん……」
と、変な理屈を並べていても、やはり幸紀から意識的な好意を感じる。
……ヘアスタイル、かぁ……。
正直に言うと、ロングや編み込みなどの後ろ髪が長くなる系統のヘアファッションは好かない。理想の女性は、クールで頼りがいのある、短髪の運動系だ。
しかし、好きな性格がそれだけかと言えば、そうでもない。ネチネチすり寄ってくる女子の怖さの代名詞みたいない女子は大嫌いであるし、テレビに出てくる受け答えのはっきりした意志の強い女性には憧れがある。
『好き』をどうとらえるかによって、答えは百八十度回転するのである。
……こんなもの、わざわざ幸紀に合わせる必要はないか。
嘘を付いたとて、広海が苦しくなるだけである。
「髪は、短髪がいいかな。性格は……。クールでカッコいい人」
ここは、狭義で行くことにした。変に匂わせるだけ、無駄だろう。
幸紀が、だらんと畳の上に流れている長髪を手に取った。持ち上げては、畳に落とす。長さを気にしているようだった。
「……ふーん。……彼女とかは……」
「そんな男に見えるか?」
付き合っている女子がいるならば、この話題の頭にあらかじめ断っている。
広海は、とにかく女子にモテない。表舞台に出てくることがないのもあるが、オタクであることも多大に影響しているだろう。
ようやく『アニメオタク』や『鉄道オタク』が地位を獲得してきているが、昔は酷かったと聞く。風のうわさでは、アニメを見ていれば変人だとレッテルを貼られ、友達が離れて行ったらしい。
広海は、読書オタクである。所かまわず隙間時間に本を盗み読みし、昼休みなど学校の図書室に巣ごもりしているのだ。おかげで、クラスの女子の間で何が流行しているかについては全くの無知である。
オタクとは、集中するものがある人達である。そういう意味ではガリ勉は『勉強オタク』であるし、スポーツ選手は『スポーツオタク』と言える。陰キャの代表のようなオタクだが、社交的か内向的かは問題にならないのだ。
小説を執筆してみよう、と小説投稿サイトにユーザ登録をしたこともあった。だが、投稿すれども投稿すれども感想どころか評価すらも無く、心が折れてやめてしまった。好きの反対は無関心とは、よく言ったものだ。
「……じゃ、好きな人は……」
「いるにはいるんだけど……」
いないということはなく、高校の同じクラスにいる。出身中学も同じで、普段はよくしゃべる間柄。まあまあ長い付き合いの中で、彼女の決めたことは最後まで貫き通す姿勢と無口なところを好きになったのである。
とはいえど、あまり深く想っているということも無い。あくまで、少し気になるといった部類に入るか。
……幸紀?
幸紀の呼吸音が、一瞬止まったような気がした。
「……そうなんだ。……ごめん、変なこと質問しちゃって……」
「幸紀が謝ることないよ。言うのが嫌なら、途中で止めてるから」
広海のありのままを知ってほしかった。そのために、他人には公言しないだろう恋愛感情も表に出したのだ。
幸紀は、ゴロンと一回転して壁にぶつかった。
「……人と話すのって、楽しい」
……俺は逆だったな。
会話に飢えていた幸紀のことだから、広海との長話がゲームに熱中しているように思えたことだろう。口がニコチャンになっているのがその証拠だ。
広海はというと、人とコミュニケーションを取ることが苦手だった。クラスの表に出ないのも発信力に乏しいからであり、裏方ばかりをしてきたのはスポットライトが当たらず目立たないからだ。
クラス内の気になる女子は意志がはっきりしていて、言論の場ではめっぽう強い。一度、偉そうに口喧嘩を吹っ掛けた男子が泣かされて逃げて行ったことを目撃したことさえある。
広海にはない強みがうらやましく、より光って見えた。彼女を好きになったのも、ピースのデコボコが合致するからだろう。
……でも、今は幸紀と同じで、楽しい。幸紀ともっと話していたい。
心置きなく隠し事を出せてしまう。縛りや重しのない会話は、自然と口調が弾むようになっていく。予防線や保険をかけずともいい新鮮さが、腐りかけていた広海に新風を吹かせたのだ。
「……なにか、簡単なゲームでもしようか」
話していたいのは山々だが、話のタネが尽きつつあった。お互いのことを何となく分かり合えるようになり、謎を突き詰めようとする飽くなき探求心は失われていた。
「……いいね。広海が何処かに行っちゃうと思って、質問を考えるのも疲れるし」
幸紀も同意見のようである。
ゲームと言っても、ゲーム機を使ったデジタルゲームでは何かがしっくりこない。そもそも携帯ゲームは一階の居間にあり、二階への持ち出しは禁止されている。ゲーム禁止令が発令されては、やっていけない。
……何がいいかな……。
幸紀と同じ空気を吸って過ごせるのなら、別にどのようなものでも良かった。
「……トランプで、ババ抜きでもしようか。この部屋に置いてあったはずだから、取ってくる」
万国共通かはうろ覚えだが、少なくとも日本人でトランプを知らない人はいないだろう。仮に知らなくても、遊び方は無限大だ。
アニメのキャラクターや世界の美しい風景が背面に描かれていることの多いトランプだが、家にあったのは格子状に白線が入った無機質な幾何学模様のものだった。この和室の中だけは、昭和の時間が流れているようである。
ババ抜きのルールは説明するまでも無いが、ジョーカーが手元に最後まで残っていた人の負けである。二人対戦の場合は、大体が一枚対二枚の心理戦勝負になる。
カードを配り終わると、猛烈なスピードで幸紀が同数字のペアを河に捨てていく。
「……あれ、……あれあれ?」
最初は嬉々としてカードを捨てていた幸紀だったが、手持ち枚数が十枚、八枚と減るにつれてしきりに首をかしげるようになった。
「これとこれもペアで、これも……」
六枚、四枚、二枚。二の倍数の数が手元から河に出されていく。
「……広海、ごめんね。これであがり!」
そして、揃えられた二枚を場に出して、カードは全て消え失せた。なんという強運なのだろう、幸紀は。
……やってられるか!
手札の真ん中ほどにあったジョーカーを放り出して、広海は上半身をたたみに投げ出した。イカサマ師でもやらなそうである。
「幸紀、一生分の運使い切ったんじゃないか……?」
確率は計算してみないと分からないが、店舗にあるガチャガチャで当たりを引く確率の比ではないだろう。マルバツの二十問テストを鉛筆転がしで全問正解するような、神がかっていることは間違いない。
「そう? ……やっと、運が巡ってきたのかな……」
何気ない呟きだが、そこには長い間負ってきた苦労がにじみ出ていた。
自分は運の悪い人間だと宣言している人は、たいてい努力もせずに失敗してそう言っている。不幸だと思い込んでいるから、幸運にも気づけない。普通に歩いていれば百万円の札束が落ちていることに気付くのに、落ち込んで脇ばかりを見ている人は素通りしてしまう。
……運は、いずれ循環してプラスマイナスゼロになるもの……?
好調にもなれば、不調にもなる。大事なことは、不調時にどう心構えを持つか、と言う事である。
幸紀は、その下振れがグラフの下限を突っ切り、また中々浮上することも出来なかった。それでも自暴自棄にならず、砂漠を我慢の連続で歩き通してくれたからこそ広海と会い、そしてここにいる。
彼女のような例は極端だと思うが、人生全てにおいて当てはまる教訓なのではないだろうか。
「……もう一回、何かやろうよ。トランプタワーとかテレビで見た記憶があるけど、作ったことないんだ」
鶴の一声で、次の製作はトランプタワーに決まった。
畳と言うものは、フローリングと違って平坦ではない。山と谷が交互に押し寄せており、おまけに凹むため不安定になりやすい。
「……よし、立ったよー」
「幸紀、そこで声出したら……」
呼吸一つで、いとも簡単に倒れてしまう。
間髪入れずに、また幸紀が一から基礎を積み上げていく。
「……遠くで見てると簡単なのに、実際にやってみると難しいなぁ……」
気合は十分、真剣な目つきで一段目を着々と作っていっている。
……そうだよな。遠くで見てるだけだと、見つけられないものがある。
教科書や授業で触れて終わりの語句は、数えきれないほどある。人は、その偏っているかもしれない情報を物事の核心だと決めてしまうのだ。
幸紀はホームレスであり、公園の水道で体を洗っている。これだけの文章から想像するものは、何だろうか。『人が食べ物を持っていたらすぐに寄ってきそう』、『意地汚くて、万引きしてそう』……。全て、偏見である。
広海とトランプタワーを挟んでいそいそと取り組んでいる彼女が、公園の水道水で体を洗っていたと言うのは事実である。だがしかし、その事実を元に歪曲した予想を立ててそれも事実としてしまうのは、迷惑もいいところなのだ。
近づいてみないと、真相は見えてこない。実際の幸紀は秩序を守って生活していたし、決して無理強いを言う事は無かった。
そういうことがあったから、という理由で二度目の事象もそのフォルダに仕舞い込んでしまうのは、盲目だ。教科書通りの実験失敗ではないのだから、その都度吟味していかなくてはならない。
そしてそれは、広海にも言える。
……いじめを受けている子を、見て見ぬふりはしなかったか? わがままで、人を奈落の底に落としはしなかったか?
幸紀は、正に救世主であった。世界の正しい見方への道を切り拓いてくれた。またとない機会に、目を逸らすようなことがあってはならない。
「……手が進んでないよ、広海? ……あとちょっとだから、広海は見てて」
空想に思いをはせている内に、もうトランプタワーは完成しかかっていた。風が一吹きしただけで脆くも崩れ去ってしまいそうなピラミッドは、絶妙なバランスでそびえ立っていた。
「……これを乗せれば……」
幸紀が手に持っている二枚が、ラストピースである。気を抜くと、今までの苦労が水の泡になる。
手が、小刻みに震えていた。遊びとはいえ、達成目前の建造物の命運を握っているとなると緊張してしまうのだろう。
固唾を飲んで、広海も完成を見守る。
……あと、ちょっと。
幸紀が土台の上にトランプを付け、頂上がピッタリと互いに支え合っているのを確認して……。
「……」
トランプタワーは、静止していた。寸分の狂いも無く、ベクトルがかかっている。
「……広海、できたよ!」
幸紀が、歯を見せて微笑んでいた。
「……すごいな。俺でも最後まで組めたことなかったのに……」
「それじゃ、これは私の勝ちだね!」
「勝負してないだろ……」
いつから、競争になっていたというのか。
「……初めて、広海と一緒に何かを作れた」
実のところ、広海が手伝ったのは最下層のみである。だが、そんなことは事実でしかない。
……これは、二人で作ったんだ。
広海と幸紀、二人が合作した紺色のピラミッドは、縦長の三角形の形をしっかりと守っていたのであった。
※毎日二話連載です。内部進行完結済みです。
『面白い』、『続きが読みたい』などと感じた方、ブックマーク、評価、いいねをよろしくお願いします!(モチベーションが大幅に上がります)
また、よろしければ感想も書いてくださると嬉しいです!