001 ケンカ別れで家を飛び出して来たら、みすぼらしい女の子がいた。
家出少年と聞いて、真っ先に浮かぶイメージはどんなものだろうか。家庭環境に絶望したり、ただのケンカ別れで飛び出してしまったりと、そのバリエーションは山ほどある。
クラスに一人はいる、後ろの席でつまらなさそうに机に向かっている男子高校生。それが、春日谷 広海だ。
広海には、友達と言えるほどの付き合いのあるクラスメートが居ない。中学校の同期は皆別ランクの高校に進学してしまったので、古参の友はいるはずがない。
陽キャならば誰とでも親睦を深められるのだろうが、異性の扱いに不慣れで調子がおかしくなってしまう内向気質の人間には難易度が高すぎる。友達になる前に、絶交されてしまいそうだ。
……冬の夜って、こんなに寒かったっけ……。
常識の範囲内で生活していれば、真冬で極寒の中長時間突っ立っていることは起こりえない。が、広海は防寒着の中までついに侵入してきた寒気に苦戦を余儀なくされていた。
つまりそれは、広海がありふれた塾の帰りなどという日常に組み込まれる行動をしてはいないということだ。
……平均点が一教科下回っただけで、ガミガミ言うんだからさ……。
『家出してきた』と言えば格好が付くだろうが、実際はこじんまりとした理由からだ。
学業の成績のことで口論になり、スーパーボールが弾むように玄関の扉を叩きつけてきた。戻る場所は、自分自身の手で消してきたのだ。よりにもよって、クリスマスイブの夜だというのに。
イルミネーションは曇っていく心と正反対に輝き、若者が躍動する時間帯を告げている。
広海は、石垣の上へと腰を下ろした。もう十二月なのだ、おしりの辺りにひんやりとした感覚が伝わって来た。ジーパンを貫通しているということは、触ると火傷するような冷たさなのだろう。
誰かと待ち合わせをしているわけでもない。知り合いを見つけて、家に上がり込めたりはしないだろうか……。そう思って、左右を見渡した。
流石大都会の東京である。もう日付が変わろうかとしているクリスマスイブの夜なのだが、いまだに大勢の群衆が四方八方へと自由に動いていた。人が多すぎて、将棋倒しになりはしないだろうか、と心配するほどの人通りだ。
残念ながら、見知った人は見当たらなかった。
……この夜、どうやってやり過ごそうか……。
広海に、帰宅という二文字は無かった。絶縁したようなケンカ別れをしてきたのだ、今更戻る気にもなれない。
街を練り歩く人たちの、なんと楽しそうな事であろうか。各々目的をもって行動しているのだ。男女のカップルも数名イルミネーションの前で自撮りをしている。皆、楽しむために街へと繰り出している。
一方の広海はどうだろうか。食べ歩きするでもなく、友人と一夜を共にするでもなく、一人石垣でぼんやり座っているだけなのだ。そこに歓喜などありやしない。
……やることないな。
こういう時はおのずと視線も下に落ち、重力に頭が引っ張られて左右どちらかに垂れて行ってしまうものである。例にもれず広海も目線が右へ右へとズレて行った。
そこに、女の子が座っていた。
……何でここに座ってるんだろう……。
広海とその女の子の面識はない。高校で思い当たる顔がいない。様相からして広海と同じくらいの学年なのだろうが、彼氏を待機しているわけでもなさそうだ。
同じ心境、同じ学年帯の仲間がいるかもしれない。その事実は、広海に思い切った行動をさせるのには十分だった。
「……大丈夫?」
「……?」
初対面の男子にいきなり話しかけられても、彼女は動じなかった。……と言うよりかは、関心が低いようであった。
家出してきたのなら、広海よりも深い傷を負っているのはほぼ間違いない。こんなことで先輩後輩を付けるのはナンセンスだと思うが、彼女は先輩だ。
「……君も、家出?」
「……」
やはり、返事がない。特にリアクションを起こすことも無く、どこか一点をどんよりした目で見つめているようだ。
……話しかけた以上は、もうちょっと頑張ろうか。
ここで彼女をいなかった扱いしても、広海は孤独のままだ。それならば、低い確率ではあるが話し相手になってくれる未来に賭ける方がいいのではないだろうか。
「……あの、」
「……!」
ようやく体を動かした、と思うや否や彼女は広海の右腕を両手でガシッと強い力でつかんできた。
地雷を踏んでしまったのか。逃げたいという気持ちが、急速に広海の中で大きくなっていった。それもそうだ、見知らぬ人に腕を強力に掴まれることを許す人間など万に一人もいないだろう。
強引にその女子の手を引きはがそうとして、しかし中々離れてはくれない。一度反動をつけ、綱引きで相手を全員こかせてから再度逃げようとして、ようやく彼女を引きずり下ろした。
……まったく、とんだ日だよ。ケンカで家を飛び出して、変な女子に絡まれて……。
絡まれに行ったのは広海からだったが、何せ一発目から地雷を爆発させてしまうとは思っていなかったのは本当だ。
「……待って……」
「なんだよ。いきなり人を掴んでおいて……」
「……置い……て……行かないで……」
その少女の声は、かすれていて今にも切れそうな極細糸のようであった。前髪は雑にカットされていて、流行のヘアスタイルとは似ても似つかない。
普段の心境の広海であれば、勝手にしていろとこの場を後にしていただろう。変な奴に絡まれた、と学校のネタにしておしまいにしていただろう。
しかし、今の広海は家出中だ。それも正当性があるわけではなく、十中八九広海に非があると言っていいケンカで飛び出してきたものだ。精神のあちこちに傷跡がある、そのような状態だった。
そこへ、異性の助けを求める声が届いたのである。極めつけは、その少女の目にじんわりと浮かんでいた涙だ。悲しみに暮れた涙を見せられて尚切り捨てることは、広海にはできなかった。
「分かった、分かった。……だから、落ち着いてくれよ」
やけに泣きじゃくる少女を、どう扱えばいいものか。人を泣かせたことはあれ、人を慰めに入ったことのない広海だ。そばに寄ることしか思いつかなかった。
「……ん……」
少女の方も広海が立ち去らないことに気付いたのか、水滴こそ目立つが泣き止んだ。
……本当に、どうしようか……。
こうして広海から少女の傍らに寄って行ったのだから、反転して置き去りにするという手はない。上げてから落としているのと同じで、無用な優しさで余計に少女を傷つける結果にしかならない。
それに、広海も話し相手が欲しかった。まだ数時間しか間隔の空いていない会話を恋しく思ったのである。
「……逃げないの?」
「逃げない。放っておけなかったから」
人ごみの中とは言え夜更けに身寄りも無さそうなボロボロの女の子を一人残しておいては、どのような目に遭うか分からない。
彼女の目の奥にモヤモヤしていたグレーの絶望の色が、若干薄まったような気がした。
「……俺は、ケンカしたまま家出してきた」
他人の自己紹介を引っ張り出すには、まず自分から。相手の素性が闇の中のままで個人情報を話せと言われたとて、そう易々と乗ってくれるものではない。
少女が口を開けるまでの間、観察してみる。
改めてみると、並大抵の修羅場を乗り越えている身振りをしている。無頓着に伸び放題の後ろ髪に、洗濯がされていないのか所々黒の汚れが付いているTシャツ。冬の真っただ中で軽装であるのも、不可解だ。
「……それなら、早く家に戻って仲直りしないと」
「軽々しく言うなよ。そう簡単に謝れるなら、ここにはいないよ」
親に自己の非を認めることは、友達に足がぶつかって謝罪するのとはわけが違うのだ。広海にもプライドというものがあり、豆腐のように粉々に崩せるものでもない。
……定型文を言われるのが、一番嫌なんだよな。
頑張っている人に『頑張れ』と声援を送っても、本人にはどうしようもない。行動できない人イコール努力できない人と考えたら、大間違いだ。
「……謝ることは、そんなに難しい事じゃない」
「人の家庭事情も知らないで……」
『家庭の問題に割り込んでくるな』と口出ししようとして、自身も少女の事情を全く慮っていないことに気付いた。そっくりそのまま跳ね返ってくるブーメランだ。
一旦は薄くなっていた少女の絶望色が、また徐々にせり出してきていた。発言を全否定されたことで、また投げやりになりつつある。
「……ところで、……名前知らないとお互い呼びにくいな」
そして僅かにだが、広海の心に『もっと彼女のことを知りたい』という思いが生じていた。『君』や『あなた』では、感情のこもっていない棒読みになってしまう。名前で呼び合うことで、このひとときだけでも親密になれるのではないか。そう思った。
生活の充実した人たちがわんさかごった返すこのクリスマスイブに、二人でポツンと過去に取り残されている。その感覚が、少女へ近づきたいという気持ちを増幅させている。
「……私は……幸紀。宮形 幸紀。……幸いに世紀の紀で、学校で『読めない』って言われた」
なるほど、確かに読みづらい。そもそも、その二文字を羅列されても読み方の見当が付かない。読むとしたら『ゆき』になるのだろうか。
……それよりも、『幸せ』じゃないんだな。
些細なことだが、漢字の例えに『幸せ』ではなく『幸い』を使ったことに疑問符が浮かぶ。これに関しては、真っ先に思い浮かぶものが出てくるのでたまたまかもしれない。が、少なくとも彼女自身が良い状態ではなさそうだ。
「俺は、広海。そのまま、広い海で広海」
広海の読み方は、見ての通りだ。捻っているとかそういうことはなく、普通に『ひろみ』である。
「……広海は、どうしてそんなに帰るのがイヤなの?」
幸紀に『傲慢すぎる』や『自業自得』といった蔑みの色はどこにもなく、純然とした疑問であった。まだ大人の事情を知らない子供のような、不思議な感じがした。
「……幸紀は、親とケンカしたこと無いのか?」
「あったよ、いっぱい。最後に見たのは、もう九か月も前だけど」
竜頭蛇尾で元気がなくなっていく幸紀を見て、アンテナが激しく反応した。
……『あるよ』じゃなくて『あったよ』、『九か月も前』……。
彼女が単身で上京してきているのならそれに越した事は無いが、家族でこの東京に住んでいたとすれば、どうだろうか。親が長期出張で帰って来られないケースを除けば、特殊な事情の絡んでいることが非常に多い。
……それって、つまり、幸紀は、
蓄積されてきた違和感が、弾け飛んだ。
「……幸紀も家出してるなら、家に帰りなよ」
追い打ちになるかもしれない。それでも、確認がとりたかったのだ。
幸紀は、大きく深呼吸した。彼女の胸が前方に膨らみ、またしぼむ。
目と目が合った。彼女の目は透き通るようで、だけれども水晶の剣を真っ向に構えているようだった。
「……私に、帰る家なんか……ない」
幸紀の声は、とても力強かった。
彼女は、若くしてホームレスとなっていたのだ。
※毎日二話連載です(初日は一話のみ)。内部進行完結済みです。
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