桜の秒針
開いた窓から、桜の花弁が舞い込んできた。
あぁもうそんな時期か…
ずっと部屋に籠りきりの僕には、数年ぶりの花見だった。いや、これを花見とみなして良いのかすら危うい。
綺麗、だと思った。
すぐ散ってしまうのに。まだその美しさをこの目に留めておきたいと思ってしまうのは、儚いが故の美しさを持っているからなのだろうか。
外は今頃どうなっているのだろう。
外の景色を窓という名の一角からしかこの数年ほとんど見ていなかったので、不意にそれが気になってしまった。
僕は羽織を身につけ、薄着で外に出ることにした。
そっと扉を開け、家を出る。
明るい春の日差しが視界に入ったところで、僕は絶句した。
外出して直ぐ近くにあった桜の木の側に人が立っていた。そして、その人間は手に持ったインクで、桜を一枚ずつ黒く塗り潰していた。
それを無視できる筈もない僕は問いた。
「何を…して、るの…?」
「……………」
僕の問いに沈黙を貫くその人間は、花弁を黒く染めることに全集中しているからか、僕という存在にすら気付いていないようだった。
その場に立ち尽くしたまま、僕はその人間を眺めていた。
よく見てみると、その人間はとても綺麗な顔立ちをしていた。整った横顔に美しい漆黒の長い髪。病的な程に白い肌を持つ___女性。
いつしか桜よりも彼女の美しさに惹かれていた時、彼女が次に染めようとしていた花弁が風によって此方に飛んできた。
必然的に僕の存在に気付いた彼女は、僕を見て、インクを地面に落とした。
これは…驚かせちゃったかな…
「えっと、ごめん。驚かせるつもりじゃ…」
だが、僕が謝罪を口にする前に彼女は逃げ去ってしまった。
インクの匂いがほのかに薫る中、僕は半分程黒くなった桜の木を見上げた。
この桜の木は背が小さいから、彼女でも上の方の花弁を染めることが出来たのだろう。
久しぶりに外出をしたら桜が黒い。
これは、僕からしたら大ニュースだ。
なんだ、意外と綺麗じゃないか。
これはこれでよしとみなした僕は、その場を後にした。
もう一度部屋へと戻った僕は、席についた。
机に広がっているのは一枚の原稿用紙。
僕は、”紡ぎ歌”という名で活動している小説家だ。
そんな僕はもう数年前からろくに外の空気を吸わずに原稿用紙に自分の思い描く世界を綴ってきた。
そして、原稿用紙に僕の綴る字が少しずつ敷き詰められていく。
”貴方に問います。桜の花弁は何故黒かったのでしょう?手掛かりとなる鍵を二つ、貴方に差し上げます。一つは、それはインクで塗られた__つまり人工的に作られたものであること。二つ目、僕と彼女は顔見知りであり、彼女が女性だということに意味があります。此れだけでは、難しいでしょうか。勿論、彼女は僕への腹癒せで花弁を黒くした訳ではありません。そうですねぇ、強いて言うなら__忘却悲哀、でしょうか。”
”それでは、もう一度。桜の花弁は何故黒かったのでしょう?”
昔彼女と会った時よりも、先程の彼女は随分と美しくなっていた。そのせいで、僕は最初気付かなかったよ。
答えは簡単さ。物騒なことも何もない、只無邪気な思い出。貴方には分かる筈もない解答。
鍵を与えたって、鍵穴が無ければ解答すら出来ない。そう言えてしまうほどの容易で、未完成すぎる僕の推理小説。
子供の頃、僕と彼女はこの家の前の、あの桜の木の側で一緒に遊んでいた。興味本意で一緒に花弁を絵の具で塗ってみたんだ。桃色から様々な色が生まれ、咲き誇っていた、あの木はとても美しくて、思い入れがあった。
でも、儚いものだからこそ、その一時も、花弁も、散っていった。
それでも、彼女は毎年桜の花弁を染めに来る。
その癖に、僕の事を見たら逃げるのだ。
けれど、あの日の思い出を今も忘れずこの桜の木に植え付けていく、彼女の気持ちは、意外と単純なものなのだろうか。
____私を忘れないで。あの日の思い出も。
そんな気持ちを窓から見える桜の木から感じてしまう。
変、だな……人の気持ちを推し量ることなんて到底出来ないのに。
…違う、これは…僕の気持ちだ……
遠く逃げて行ってしまう彼女の背を、もうすぐ目の前から消えてしまう思い出の中、置いていかれる僕の気持ち。
恋しい日々と感情は、いつだって置いてきぼりになる。
「来年もまた来るのかな…」
まるで、再度来てくれる事を期待しているような自分と、もう来ないで欲しいという思いを抱えた自分が同時に絡まっている。
こんな苦しくて、収集も付かない気持ちに苛まれているなら、もう彼女を解放してあげて。
桜の木は、すぐ散っていく癖に、また咲く。
だからこそ、期待と___忘却出来ない思いが募る。
消えていくような…寂しい思い出がまた咲く日まで、僕はまだ此処に居続けることにした。