きみはぼくの『手』が好きだから
夕方六時、いつも通りの帰宅時間だった。
「しばらく別居しないか?」
ただいまの声もなく、玄関から真っすぐキッチンに立つわたしの元へとやってきた夫が神妙な顔つきで切り出した。
研究者をしている彼の毎日は、意外なほど規則正しいのだ。
「お帰り」
「あ、ただいま」
忘れていた、と言わんばかりに応じる夫の声音も、いつもと変わりない。
ひとつだけ、彼の両手にぐるぐると包帯が巻かれていることがいつもと違っている。
「で? 今なんて?」
「しばらく別居したい」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
わたしは包帯ぐるぐる巻きの夫の手元を見つめながら、しばし思案に暮れた。
ちょうどいい感じに油が温まってきたところだったのだけれど、夫の好物であるエビフライを投入するのはもうしばらく先のことになりそうだ。
菜箸を置き、コンロの火を止めて、わたしはキッチンから夫の前へと移動した。
彼はまだ外套も肩から斜めにかけたビジネスバッグもそのままで、どことなく覚悟を決めたような眼差しをしてリビングの入り口に佇んで動かずにいる。
「それはもしかして、あなたのその両手に関係がある?」
「……ある、かもしれない」
わたしの視線に少しばかりバツの悪そうな表情を見せて、ぐるぐる巻きの両手を見下ろしながら夫は躊躇いがちに小さく頷いた。
「なるほど」
細く長い指と、伸びやかな生命線の刻まれた掌と。さっぱりした顔立ちからは想像できないほど見事な造形をしている夫の両手は、いったいどんな怪我をすればそこまで、と思うくらい大仰に巻き付けられた包帯にすっかり隠されてしまっている。
結構な大怪我なのだろうか。とても心配ではあるが、しかし、だ。
ちっとも話が見えない。
けれど、どうやら夫が斜め上な考え方をしていそうな予感がした。
結婚して半年、知り合ってからは約一年。まだ他人に毛が生えた程度にしか深度の足りない夫婦ではあるものの、それでもいくらかわかってきていることはある。
惚れ惚れするほど綺麗な手を、これまた惚れ惚れするほど器用に操ることのできる夫は、だけど残念なことに、気質的には非常に不器用らしい。
おそらく世の中的には逆のほうが生きやすかったのだろうが、わたし的にはむしろそれが好ましく感じられる。
つまりわたしは、器用で不器用な夫のことをそれなりに気に入っているのだ。
だからこそ唐突な別居発言には容易に同意はできないわけで。
心の中だけで「カンッ!」と戦闘開始のゴングを勝手に鳴らし、わたしは夫ににこりと微笑みかけた。
「まあ、とにかく座って話そうか」
「わかった」
やはり神妙な面持ちで、それでも素直にこくりと頷いた夫のためにダイニングの椅子を引いてやる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ただ椅子を引いただけ。鞄やコートを脱がしてあげたわけでもなく、中途半端な手助けをしただけなのに律儀に礼を言う。こんな風に、与えられることを当然としない謙虚さも夫の良さのひとつだと思う。
ごわごわしたコートの生地と膨らんだ鞄のせいで若干座りにくそうに見えるのだが、当人に気にしている素振りはない。定位置である南側の席に腰を下ろした夫は少しばかり逡巡の末、やがてテーブルの端に小指の端と思しき場所を引っ掛ける形で両手を落ち着かせた。
「それで――」
「待った!」
おもむろに口を開こうとした夫を、わたしは遮った。最初に確認しておくべきことがある。
「その手の怪我? それは大丈夫なの?」
「大丈夫! だ、大丈夫。問題ない。時間はかかっても治るから、だから平気。絶対に! 完全に! 元に戻るから!」
突然食い気味に答えた夫の勢いに、思わずちょっと引いてしまう。
「あ、そうなんだ。それはよかった。で、えと、その痛みとかそういうのは?」
「あ、え、痛み……?」
まるで予想外の問いを受けたみたいに夫がきょとんと瞬く。
また少し、予感がした。
夫の思考が斜め上に向かっている勾配は、思っていたよりも大きいのかもしれない。わたしは無言のまま、ただ頬に浮かぶ笑みを深めた。
********
時おりこんな風に大いなる嚙み合わなさを感じさせる夫との出会いは、およそ一年半前の、小雨のパラつく木曜日のこと。時刻は間もなく正午になろうかという頃で、そのときわたしは三駅離れた歯医者に行った帰りだった。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、ほとんど乗車客のいない空いた車内にも関わらず、座りもせず反対側の扉の真ん中に佇んでいる男性の姿に妙に目を惹かれた。
まず立ち位置が少しおかしかったし、後から思えばおそらく、気まずそうな、困っていそうな、彼の醸し出す微妙な雰囲気を察知したせいだったろうと思う。けれどそのときには特に思うこともなく、ただぼんやりと彼の姿を眺めながら扉近くの席に腰を下ろし、そうしてわたしはすぐに彼がそこから動けずにいる理由に気がついたのだった。
「ああ、傘が」
先端が扉に挟み込まれて抜けなくなってしまったらしい。
地味に恥ずかしいハプニングだが、まあ、ありがちな出来事でもある。
あるあるだよねと内心で頷いて、それから私にしては珍しく何の気なしに、本当に何の気なしに、彼に声をかけた。
「次の次の駅で、そっち側が開きますよ」
「あ、どうも」
一瞬だけ面食らった顔をして、それでも律義にぺこりと頭を下げてから恥ずかし気に目を逸らした彼が、つるりと頬を撫でた。
いまでも憶えている。瞬間的に、女性ホルモンがドバッと放出された気がした。
あまり気を遣っていなさそうな髪型に、吊り上がっても垂れてもいない少し細めの目。鼻も口も取り立てて目を惹くところのない、まあ言ってみれば日本人らしいあっさりした顔立ちの普通の男なのだが、わたしの視線を釘付けにしたのは、彼のその「手」だった。
頬を撫でたその手が、それはもう、やたらと綺麗だったのだ。
異性の好きなパーツはと訊ねられて「手」と答える女子は結構多いと思う。
けれどわたしの場合、本気のフェチに近い。
鎖骨や首筋やシャツを捲った前腕の筋肉や、或いはもっと直接的に唇や臀部や、そういった男性のパーツに色気を感じる気持ちも理解はできる。
できるのだが、わたしが圧倒的に惹かれるのは「手」なのだ。
握って、撫でまわして、心ゆくまで眺めて、頬擦りして、隅々まで舐めまわしたくなる。
髪を梳き、頬を撫で、指を絡め、唇をなぞり、この肌の曲線を隅々まで辿って欲しくなる。
言ってしまえば、本体はどうでもいい。欲しいのはただ「手」だけ。
気軽な気持ちで「私〝手フェチ〟なんだ」と公言できる程度を越えて本気のフェティシズムを内に秘めたわたしだから当然、久しぶりに見つけてしまった〝グッとくる手〟に対して思うことはひとつだけだった。
『触りたい……っ!』
色が白くて繊細そうな細く長い指をしていて、全体的に薄い。
わたしにとって、彼のそれはまさしくドンピシャに好みの造形の手だった。
頬を撫でたときの指の角度も完ぺきだった。完璧に色っぽかった。
もちろん欲望全開の心の声を口に出したりはしなかったけれど、ほとんど涎を垂らさんばかりに男の手を凝視するわたしは、もしかしたらそこそこ変態っぽかったかもしれない。
けれどただもう、偶然見かけてしまった「理想の手」に夢中だった。
皮膚の厚さは。
指先の温度は。
その掌の柔らかさは。
どんなだろう。
あの手に触れたら、いったいどんな心持ちになるのだろう。
すべすべしているのか、それとも案外ごつごつして感じられるのか。
わたしの手よりもきっと大きい。
指だって長そうだ。
乾いていても、濡れていても、あの手ならばセクシーだろう。
うっとりと、そして熱く自身の手を見つめるわたしの視線に彼が気づいていたか否かは、定かではないのだが。わたしが教えた通り、二つ先の駅で扉が開くとようやく傘を取り戻せた彼は軽い会釈を残してそそくさと電車を降りて行ったのだった。
その一度きりの出会いならば夫がわたしの夫になることもなかったろうし、わたしが夫の妻になることだってなかったろう。
しかし面白いもので、わたしたちには二度目の出会いがあった。
今度は休日の朝だった。またしても同じ電車の、けれど車内ではなく駅のホームでばったり。
互いに気がついたのはほとんど同時で、なんとなく曖昧な目礼を交わし、互いに互いを記憶していることを確かめあってから、このときは彼のほうから声をかけてきた。
「先日はどうも」
お恥ずかしいところを、と続きそうな微苦笑で頭を掻く。わたしはまたしても、彼の手の綺麗さに見惚れてしまった。
さり気なく握手する……のは、さすがに無理か。
ちょっと指先をかすってみるくらいなら、どうだろう。
ほんの少しでも彼の手に触ってみられる上手な言い訳は……駄目だ、思いつかない。
傘が、あの日は天気が、とおそらく当たり障りのない話題をぽつりぽつりと口にしていたはずだけれど、わたしの頭の中をぐるぐると廻っていたのは「どうにかしてその手に触りたい」という非常に即物的な願望ばかりだった。
フェチというのは、どうあっても隠し切れないからフェチなのだと思う。まるきり理想通りの見事な造形をした手がすぐ傍にあることに内心で大興奮していたわたしは、自覚できるくらい挙動不審だった自信がある。
明らかに彼の顔よりもその手元を見つめてしまっていたし、うっかりするとダダ洩れになりそうな欲望をなんとか胸の内に押し留めつつも、このときの会話の内容をさっぱり憶えていないくらいには上の空だった。
ただ、手が綺麗だと、思わずつるっと素直な感想を口にしてしまったのだろう。
彼がとても驚いた顔で自らの手を広げて見ていた様子だけは、いまでも鮮明に脳裏に焼き付いている。
そして、その横顔を「あ、いいな」と直感したことがわたしたちのその後を決めた。
連絡先を訊いたのはわたしからだ。だけど以降、食事という名のデートに誘ったり誘われたりして関係が深まっていくのには、さほど時間はかからなかった。
いくらなんでもわたしにも相応の羞恥心はあるので自らの性癖を赤裸々に打ち明けたりはしていないものの、幾度目かのデートでさり気なさを装って早々に手を繋いでみたり、理想の手なのだとさり気なく打ち明けて、思う存分頬ずりさせてもらったりもした。
初めて夫の手に触れることができたときの高揚と、あの奇妙な安堵の気持ちと。
関節ひとつ分だけわたしよりも大きく、指は細いわりに節はしっかりしていて、短く切り揃えられている縦長の爪は特にお手入れもしていないらしいのにほんのり桜色をしている。
遠目に見ても理想的だった夫の手は近くで見れば見るほど好みだったので、頑張って隠しているつもりではあったけれども「あなたの手が好きなの」とサラッと口にできてしまう程度は越えて本能に直結しているわたしのフェチな気持ちは、おそらく知られてしまっていたはずだったと思う。
それなのに特に引くこともなく淡々と受け入れてくれた夫は、よくよく考えてみれば、とても懐の広い人だ。夫らしい生真面目なプロポーズ付きの交際宣言があったりして、結果、初めての出会いから半年後にわたしたちは結婚した。
ふたりが出逢ったことを運命だとはたぶん夫もわたしもどちらも思ってはいないし、頭がおかしくなるんじゃないかと思うくらい盲目的な恋に落ちたわけでもない。穏やかに淡々と、ごく自然な流れでわたしたちは夫婦になった。
そして、そこから更におよそ半年が経っての今日だ。
互いに譲らない小さな口喧嘩は二、三度した気がする。それもだけど、一応はどちらかが不当に我慢を強いられることのない形で一応の決着をみたはずで。
半年といえば長くも短くもあるけれど、わたしの記憶にある限り、わたしたちの間に大きな齟齬が生じるような揉め事やトラブルはなかった。であればこそ、唐突に別居を切り出される理由など皆目見当もつかないのだが。
唯一、いつもと違っている夫の包帯ぐるぐる巻きの手元をわたしはじっと見つめた。
「突然別居したいと言われたら、さすがのわたしも驚くんだけどね。それは、あなたの両手がそういう状態になっていることと関係があるのね?」
「あるね。大いに」
言葉を選びながらもう一度同じ問いを繰り返してみれば、夫は最前からの神妙な面持ちのままきっぱり頷いた。今度は「かもしれない」という曖昧な語尾は消して。
「なるほど」
わたしも同じ言葉で頷きを返したが、まるで理解できない。
しかし夫は、それ以上説明するつもりはなさそうだ。わかっただろう、とでも言わんばかりの表情でわたしの返答を待っている。
こういうところだ。特別に無口なほうでもないのに肝心なところで言葉が足りない夫に悪気はなく、ただただ不器用なだけなのだとわたしはもう知っているから、別にいいのだけど。
いったいどこから紐解いていくべきかと考え考え、わたしはゆっくりと口を開いた。こういうとき、質問の仕方を間違えると夫の真意に辿り着くまでにいたく迂遠な道を辿ることになる。
「えぇと、それはどういう風に関係している?」
「ぼくの手が、この状態だから」
「だから?」
「きみには、ぼくといる理由がないだろう?」
「なるほど……?」
駄目だ。やはり、まるで理解できない。
順序だてて物事を考える性質である夫のなかでは某かの筋の通った説明なのだろうが、わたしの凡庸な頭脳では察することすら難しい。というかたぶん、この状態で彼の言わんとしていることを理解できる人間はそう多くないと思う。
「えぇとね。あなたといる理由がない、と考えた理由を述べよ」
おそらく今回の出来事の端を発しているのは、ここだろう。
理由がないと言い切られたことで胸のどこかがざわめき、自然と眉間に皺が寄る。
どうも今のこれは、わたしのせいかもしれないという予感がふっと胸に湧いた。
「結婚するとき、きみは言ったろう? ぼくの顔は好きじゃないんだって」
「……ん?」
「きみは、ぼくの顔は好きじゃない。だけど、ぼくの手はとても好きだ」
「……んん?」
「そう言ってた」
「言ってた……」
かもしれない。少し思い出した。
どんな流れでそんな話になったのだったか。いつもついつい彼の手を見つめてしまうから、変に思われないようにと下手な気を回した結果だろうが。
「ひどいね」
「うん、まあ、ひどいなとは思った」
真面目な顔のまま、夫がこくりと首肯する。
ひどいなと思いながらも「そういうものか」と受け止め、受け入れたのだろう。ほんとうに、彼の懐の広さは感動ものだ。
それに比べて、過去のわたしはどうだ。人でなしが過ぎるではないだろうか。
「うん、ちょっと話がわかってきたわ。――ねえ、あなたはわたしが『あなたの手』と結婚したと思ってる?」
「問題ないよ」
「いや、あるでしょ!」
思わず突っ込むと、夫はきょとんと瞬いた。
「ないよ? 手だってぼくの一部だからね、好きでいてくれるなら問題ない。だけど、しばらくはこの状態だと思うから」
あっさりした顔立ちのせいもあってか表情の読みにくいところがある夫の眉の辺りが、心なしかしょんぼりと項垂れた。
「両手とも、見せてあげることも触らせてあげることもできそうにない」
「だから別居?」
「そのほうがいいと思う。あ、だけど範囲が広いせいで仕方なくこうなっているだけで、中身はそれほど悪くないんだ。必ず元通りになるから、治ったら戻ってきて欲しい」
ひどく真剣な声音で夫が言った。それから、少しばかり自信のなさそうな口調で
「戻ってきてくれるだろう?」
と、付け加える。
「いやいやいや」
自分が仕出かしていたあんまりな仕打ちに、わたしは頭を抱えた。
「そもそも別居はしないから。だから戻ってくるとかも、ない。だいたい、両手がその状態だったら普段の生活だって大変じゃない。そういうときこそ妻の手助けがいると思わない?」
「それはまあ……なんとかなるよ」
「ならなくていいから。こういうときこそ『助けてくれ』って言うべきだからね」
「言うべき……?」
腑に落ちない表情で瞬いている夫は、わたしが言うのもアレだが不憫すぎる。
「わたしはあなたに『助けてくれ』って言われて、無碍に断るような妻でしょうか」
「うーん」
夫よ、そこは首を捻るのではなく即答するところだ。
「遺憾の意を表してもいいかな」
「どうだろう。ぼくがきみに助けを求める場合も、きみが助けてくれる可能性も、事と次第によるのではないかという気がするけど」
「ああ、まあ……それはそうかもしれないけど、もうちょっと融通を利かせて考えてみてくれても……いや、いいわ。いまのはとりあえず忘れて」
この話題を続けていると、永遠に結論に辿り着けなさそうだと察知したわたしは早々に結論から口にすることにした。
「あのね、わたしはあなたの『手』だけと結婚したつもりはないからね?」
「うん?」
「結婚っていうのはさ、結局のところ日々の生活なわけじゃない? あなたはもう知ってると思うけどわたしはあんまり寛容なタイプじゃないから、いくら『手』が好きな相手でも、それだけだったら色々と許せないところが出てくるわけよ」
「うん」
そうだろうね、という副音声つきの深さで夫が頷く。
「だからどういうことかというと、わたしはあなたの『手』が好きだけども、それはスーパースペシャルに『手』が好きだと言うだけで、あなた自身のこともちゃんと好きなんだっていうこと」
「ぼく自身のことも好き?」
夫の細い目が精いっぱいに丸く見開かれる。
「あなたも、わたしのこと好きでしょう? たぶん、それと同じ感じ」
「……そうなのか」
しばし黙考していた夫が噛みしめるみたいに言った。
「だからね、夫が怪我をしているときには妻として、当たり前に手助けをしたいわけ。いい? わたしが『したい』の。あなたの助けになることをね。――そりゃまあ、ちょっと面倒だなと思う瞬間は必ずあるだろうけど、それはそれとして」
「正直なのはきみの美徳だと思う。ちょっと怒りっぽいけど、それも自分に素直な証拠だろうし。たまにひどいことも言うけど、それも以下同文」
「…………」
言いたいことは山ほどあるが、わたしは黙って微笑むだけにしておいた。
その笑みを見た夫がそっと目を逸らしたけれど、それもまあいい。
「で、その怪我はどうしたわけで?」
「実験中に薬品を零して火傷したんだ。かなり薄めた溶液だったから程度は軽いんだけど、なにせ全体に浴びたものだから、こんなことになった」
軽く両手を掲げてみせて、「あ、痛っ」と夫が顔をしかめる。
「火傷でしょう? そりゃあ痛いに決まってるわ」
「別居したら戻ってこないってきみに言われるんじゃないかとハラハラしてたから、さっきまではそれどころじゃなかったんだけどね。安心したら痛くなってきたな」
独り言みたいに呟いた夫に、わたしの頬は自然と緩んでいた。
器用で不器用で、わかりにくくてわかりやすい夫のことが、わたしはやはり結構好きなのだと思う。
「わたしの〝手フェチ〟ってね、実は結構本気のフェチなんだよね」
ようやく思い出した様子で立ち上がりコートを脱ごうとする夫に手を貸しながら、わたしは最後にして最大の秘密を打ち明けることにした。
「ふぅん、そうなんだ」
が、夫の反応はある意味予想通りのもので。
そのことに安堵と、同時に若干の物足りなさを感じながらわたしは包帯の巻かれた夫の両手をひょいと掬いあげた。
ゴワゴワした生地のコートを脱がすのは思いのほか大変だったので、きっちりと巻かれていたはずの包帯が解けていないことを確かめる。大丈夫そうだ。
「だから、包帯が取れたら触らせてね」
「もちろん。いいよ、好きなだけ」
いつも通り地味な笑顔で、だけどわたしにはとても嬉しそうにしていることがわかる顔で夫は即答した。
「ついでに、指を舐めてもいい?」
「もちろ……えっ⁈」
またもや即答しかけて、夫の動きが止まる。
ぽっと彼の耳が赤くなったのが見えた。
「ほんとはじっくりねっとりしゃぶりたいんだけど」
「そ、それはなんていうか……」
「じゃあ、ちょっとだけにする。ぺろっとするだけ。ね?」
「わ、わかった、わかったから! きみの好きなようにしてよ」
じわじわと染み入るみたいに頬を染めて狼狽える夫の顔は、可愛い。
「あなたも〝そういうプレイ〟に目覚めたりしないかな」
「えっ、いやそれは……やってみないとわからないな。うん」
一欠片の本気の期待を込めた言葉に、脳内で考えを回らせていたのだろう。しばしの沈黙を経て真面目な回答を導き出した彼に、改めてふつふつと愛しさが湧き上がってきた。
「前言撤回。やっぱりわたし、あなたの顔も好き」
「ぅえ……っ⁈」
夫にしては珍しく、妙な声を上げて動揺しているが、そう言えばわたしたちは知り合ってまだたったの一年だった。
互いに互いの知らないところなどたくさんあるのだろう。
もっとも、底の浅いわたしという人間のことは粗方見抜かれているのかもしれないけれど。
「好きになった人だからね、そりゃあそうだわ。顔だって、好きに決まってる」
「そ……」
「そういうもの」
「う、うん……」
何を言わんとしているのか、落ち着きなく口元をもよもよさせながら視線を彷徨わせている夫が口を開くよりも前に、わたしは続けた。
「まあ、トイレの電気をしょっちゅう消し忘れるところとか、シャツのポケットにペンやゴミを入れっぱなしにするところとか、考え事に集中すると全然話を聞かなくなるところとか、文句を言いたいところは色々あるけどね」
「……うん」
途端に平静を取り戻した夫の顔に、いつもの微苦笑が浮かぶ。
わたしは胸の内で、よし、と呟いた。これでいい。いつも通りで。
あまりにも可愛らしく照れている夫の姿なんて、こちらが気恥ずかしくて直視できやしない。
「さ、それじゃ夕飯の支度しちゃうね。今日はエビフライだから」
「お!」
声を弾ませた夫に、わたしはにんまりした。
「両手がそれじゃあ食べられないもんね。あっつあっつのを、あーんしてあげる」
「……はやく治すよ」
真顔で言う夫に「それがいいね」と答えながら、心配だからね、という一言は胸の内だけで付け加えておいた。
― Fin ―




