私の大好きな魔女様
元々連載しようと思った長編を短編にしました。母娘百合を目指して書いたものです。
もしよければ、どうぞ。
『あの森に入ってはいけないよ
深い深い森の奥
そこには、恐ろしい魔女が住んでいる
魔女に襲われたくなければ、あの森に入ってはいけないよ……』
◆◆◆
「先日、近くの村に行ったら、村の人達がそう噂してましたよ。お母様ったら有名人ですね」
「……」
ヘラヘラと笑いながらそう話す少女を、女は無言で睨んだ。
美しい女だった。長い髪は夜空のように黒く、肌は雪のように白い。濡れたような赤い唇はゾッとするほど色気がある。
「……私は魔女では、ないわ」
女は少女から視線を外し、本棚から本を取り出しながら言葉を続けた。
「……ただ、普通の人よりも、少しだけ長生きで、薬を作るのが好きで……あとは、ちょっとだけ先の出来事が分かる、だけだもの……」
「十分魔女っぽいと思います。そろそろ自覚しましょうよー」
呆れたような少女の言葉に、女は拗ねたように唇を尖らせた。
◆◆◆
その女に、名前はない。大昔は名前で呼ばれていたが、もう女の名前を呼ぶ者は存在しない。そのため、女自身も元の名前を忘れてしまった。
女が生まれたのは、百年以上前も前の事だった。小さな村で、普通の村人夫婦の一人娘として生を受けた。
幼い頃はごく普通の村娘として生活をしていた。両親は優しかったし、友人もたくさんいた。村の人間達も穏やかないい人ばかりだった。ごく普通だが、幸せな日々を送っていた。
自分が普通の人間ではない、と気づいたのは友人の一人が発した言葉がきっかけだった。
『明日は山で遊ぼうよ!』
村の近くの山を指差して、友人がそう誘ってきた。女は少しだけ首をかしげて、山を見る。そして、ふと目を閉じた。なぜそんなことをしたのか、今でもよく分からない。目の裏に見えたのは、雨の降る光景だった。
『明日は雨が降るわ。どしゃ降りの。山で遊ぶのはムリよ』
瞳を開き、何も考えずにそう言うと、周囲の友人達が驚いたように揺れた。
『雨が降る?まさか!こんなにいい天気なのに!』
友人達は笑いながらそう言って、女の言った言葉を信じなかった。
しかし、翌日、女が言った通り、大雨が降った。友人達は驚き、なぜ分かったんだと口々に聞いてきたが、女もなぜ自分がそんなことが分かったのか、よく分からず困惑した。
それからも、同じような事が続いた。先の出来事が知りたい、と思った時は、目を閉じて念じる。すると、目の裏に知りたいことが浮かび上がるのだ。それは絶対的な未来ではない。誰かがちがう行動をすれば、未来は変化する。それでも、女の持つ未来を見通す力は強く、ほとんどが的中した。
村人達は女のその力に大いに驚き、そして恐れた。周囲の人々の目がどんどん冷たくなっていき、親しいと思っていた友人達は離れていった。
そして、女は『魔女』と呼ばれるようになった。
村人に話しかけても無視され、あからさまに嫌がらせをされることもあった。嫌がらせはどんどん酷くなっていき、女だけではなく両親も迫害を受けるようになった。女とその両親はどうすればいいのか分からず途方にくれた。
同じ頃、運の悪いことに、流行り病が村を襲った。多くの村人が倒れ、その命を散らした。『魔女』である女が流行り病を呼んだのではないかと、不穏な噂が広まった。そんな噂はデタラメだと説明したが、誰も信じてはくれなかった。いや、恐らくは誰かのせいにしないと現実を受け止めきれなかったのかもしれない。女の両親もその流行り病で亡くなったため、女は逃げるようにその村から出ていった。
女の事を誰も知らない新しい土地で、新しい生活を始めた。そこは、故郷と同じく小さな村だった。女が求めたのは、静かで落ち着いた暮らし、それだけだった。予知の力は誰にもバレないように隠し通した。時には畑を耕し、時には商売をしながら、他の村人と同じように生活をした。富も名声もいらない。ただただ、穏やかな生活を望んだ。故郷の村での迫害がトラウマとなり、やや人間不審になっていたので、親しい人はあまり作れなかったが、一人の普通の女として生きていくことはきっとできるはずだ。
そう思っていたのに。
『ーーどうしてあなたは歳を取らないの?』
ある日、村の人間からそう尋ねられ、女は自分が歳を取っていないことに気づいた。女と同じ年齢だったはずの村人は徐々に皺が見え始め、髪も白くなりつつあるというのに、女だけが若い身体のまま年を重ね、老いる気配もなかった。
女は、自分が普通の人間ではない、という事をようやく認識した。
周囲の人間も、若い体のまま老いることのない女を怪しみ始めた。女は再び住み慣れた土地から追い出されるように出ていった。
それからはたった一人で、宛もなく、旅をした。不老の体を怪しまれるため、一つの土地に長く住むことはできない。数十年間、多くの土地を渡り歩き、女は一人で生き続けた。そのうち、自分の身体も少しずつ歳を重ねていることに気づいた。恐らくは、普通の人間と違い、老いるのに人一倍時間がかかっているのだろうか、と女は考えた。でも、考えたところで、自分の身体は異常さは、どうすることも出来なかった。何度かあまりの孤独さに耐えられなくなり、自ら命を絶とうともしたが、勇気が出なくて、結局死ねなかった。そのうち、孤独にも慣れ、寂しさは感じなくなった。
この森に住み始めたのは、二十年ほど前のことだった。居場所がなく、森で行き倒れた女を拾ってくれたのは、この森で薬師をしている老婆だった。
「ーーここに住めばいい。私を手伝っておくれ」
老婆はそう言って優しく微笑んだ。女が普通の人間ではないということを知っても、受け入れてくれた初めての人間だった。
「そういう生き物もいるだろうさ。世界は広いのだから」
そう言って、肩をすくめて笑った。
老婆は薬を作り、その薬を近くの町や村に売って生活をしていた。その薬は効果が抜群だと評判がいいらしい。同居が始まったばかりの頃は女は家事を中心に老婆を手伝っていたが、そのうち薬の作り方を教わるようになった。
「アンタは筋がいいね」
そう誉められると、嬉しかった。やがて、女は老婆を“先生”と呼び始めた。
「アタシが死んだら、アンタにこの家をあげるよ。好きにすればいい。アタシが教えた通り、薬を作って売るんだ。贅沢は出来ないが安定した生活はできるからね」
カラカラと笑う老婆に、縁起でもない事を言うなと女は怒った。だが、老婆は笑みを消して真剣な顔で言葉を続けた。
「どんなに悲しくても、つらくても、必ず死は訪れるんだ。それは絶対的で、確かな事だよ」
その言葉に、女は胸が詰まるのを感じた。老婆がいなくなってしまう、という事が突然怖くなった。予知の力で老婆がいつ亡くなるか見てみようかとも一瞬考えたが、それも怖くて、結局出来なかった。
老婆が亡くなったのはそれから数年後だった。
「ありがとうね」
そう呟いて、老婆は少しだけ笑うと、静かに息を引き取った。
女は再びひとりぼっちになった。
老婆と同じように薬を作って売ることで、生活は成り立った。完成した薬を近くの町や村に持っていって売るのは何度やっても慣れない。人と関わることを最低限にして、薬を売った後は素早く逃げるように森へと帰る。幸い、女と積極的に関わろうとする人間はこれまで現れたことがない。歳を取らないことがバレたらまた逃げなければならないだろう。だけど、それまでは、老婆の残してくれたこの家で、静かに暮らしていければいいな、と漠然と考えていた。
ーー森に捨てられた赤ん坊を拾うまでは。
「……なに、これ」
その日の朝、家の外から、何かの変な声が聞こえた。何か新種の動物がいるのだろうか、と不思議に思い、家を出て、森で声の主を探していたところ、見つけたのは籠に入った人間の赤ん坊だった。
赤ん坊は「ほにゃぁ、ほにゃぁ」と大きな声で泣いていた。
「……」
どうすればいいのか分からず、冷や汗が流れるのを感じた。困惑で、言葉が出てこない。
「……」
結局、赤ん坊に背を向けて、逃げるように家へ戻った。大きな音をたてて扉を閉めると、ズルズルと崩れ落ちるように座り込む。
ーーなんだ。なんなんだ、あの赤ん坊は。あんなところで一人で。親はどうした。あの近くには誰もいなかった。待って、じゃあもしかして、あれは捨て子?
困惑して、両手で頭を抱える。本当にどうすればいいか分からない。
ふと、女は瞳を閉じた。予知の力は好きではないので、ほとんど使うことはない。しかし、その時はあまりにも混乱しすぎて、つい使ってしまった。
暗闇の中に見えたのは、衰弱して冷たくなっていく赤ん坊の姿だった。
「……」
女の力は、完全に未来を予知できるわけではない。未来は確定されてはいない。女が予知した未来が、何かのきっかけで変わる可能性もあるのだ。
それでも、衰弱していく赤ん坊の姿に、女は衝撃を受けた。胸を一気に刺されたような痛みを感じる。
一瞬のあと、女は再び家を飛び出した。赤ん坊がいた場所へと急ぐ。幸い、赤ん坊は同じ場所で元気に泣いていた。
「……うぅ」
躊躇いつつ、ゆっくりと赤ん坊を抱き上げる。どう抱けばいいのかよく分からないが、とにかく抱き上げる。赤ん坊は驚いたように泣き声を止めた。
顔を近づけて、赤ん坊を観察する。どうやら女の子らしい。
本当に、どうしよう。女がまたそう思いながら顔をしかめたその時だった。
突然、赤ん坊が笑った。
「……あっ」
驚いて思わず声を出す。赤ん坊は何がおかしいのか、不思議な声をあげて再び笑った。
「……」
一瞬奇妙な感覚になる。すぐに、自分が“かわいい”と思っていることに気がついた。
結局、どうすればいいか分からず、女は赤ん坊を家に連れ帰った。赤ん坊なんて育てたことはない。自分に子育てなんて出来るわけがない。そう分かっていたのに、どうしても放って置けなかった。
いや、本当はちがう。女は、老婆が亡くなってから、たったひとりで暮らすのが寂しかったのだ。ただ、孤独感を癒してほしくて、赤ん坊を育てることを決めた。
女は赤ん坊に、自分の師である老婆から名前を貰い、「テレーズ」と名付けた。
何もかもが手探りの子育てだった。何をしてあげればいいかも分からなかったし、知識もほとんどなかった。後から考えても、自分の浅はかな行動には頭が痛くなる。
けれども、そんな環境でもテレーズは無事に成長してくれた。
「おかあさま」
そう呼ばれるのはくすぐったくて、いつまで経っても慣れない。
赤ん坊だったテレーズは、ふわふわの栗色の髪に、茶色の大きな瞳が印象的な少女へと成長した。お転婆で元気いっぱいで、とても可愛らしい。
「あのね、テレーズ、おかあさまがだいすきっ」
テレーズからそう言われると、何かが胸にあふれていくのを感じた。
「おかあさまはテレーズがすき?」
「……まあ」
どう答えたらいいのか分からなくて、そう言葉を濁すと、テレーズは怒ったような顔をした。
「すきって、いって!」
「……どうして言わなければならないの」
「いってほしいのっ!」
そう言ってテレーズは膨れっ面になる。女は仕方なくゆっくりとしゃがんで、テレーズの耳に唇を近づけると囁いた。
「ーー好きよ、テレーズ」
その言葉を聞いた瞬間、テレーズの顔が輝く。そのまま勢いよく女に飛び付いた。
「えへへ」
嬉しそうな声が聞こえて、女は戸惑う。
そのままゆっくりとテレーズの小さな体に腕を回した。
「おかあさまとギュッてするのもだいすきっ」
そう言われると、不思議な気分になる。
こうやって抱き合うのは不快ではない。だから、自分もこの時間が嫌いではない、と思う。
ふと、テレーズが身体を離す。
「おかあさま、テレーズとずっといっしょにいてね」
そう言って、にっこりと笑った。
「……」
女は何も答えず、その笑顔を見つめる。
よく分からないが、この小さな娘の笑顔を見つめると、胸が温かくなるのを感じた。
テレーズはすくすくと成長していった。
「お母様は魔女なの?」
ある日突然、テレーズからそう尋ねられて、女は顔を強張らせた。
「ーー誰かに、聞いたの?」
そう聞き返すと、テレーズは小さく頷いた。
「この間、お母様と二人で町に薬を売りに行ったでしょう?その時に、町の人がそう噂していたわ」
テレーズの言葉に女は一瞬どう誤魔化そうか考えた。しかし、
「ーー私は、少しだけ人とは違うの……薬を作るのが仕事で、少しだけ普通の人よりも長く生きてて、少しだけ先を知ることができる……それだけ、よ……」
結局誤魔化すのを諦めた。女は嘘がとても下手だった。
「そうなの……お母様は魔女様なのね」
「そんな呼び方、やめてちょうだい」
テレーズの言葉に眉をひそめると、テレーズは楽しそうに笑った。
「なんだか、不思議としっくりきたわ。魔女様のお母様!」
「テレーズ!」
叱るようにそう名前を呼ぶが、テレーズは楽しそうに笑っていた。
それ以来、テレーズは時々、女を「魔女様」と呼ぶようになった。
「お母様は私の本当のお母様じゃあない、のよね?」
ある時、テレーズがそんな事を問いかけてきて、一瞬女が言葉に詰まった。
「……どうしてそう思うの?」
質問を返すと、テレーズはキョトンと首をかしげて、声を出した。
「分からないわ。でも、なんとなく、お母様がお母様じゃないんだって、思ったの」
なぜ分かったのだろう、と動揺しながら女はテレーズから顔を背けた。
「……だったら、何よ」
テレーズの顔を見ることが出来なくて、背を向ける。
「……別に、血の繋がりなんて、どうでもいいでしょう、今さら。私はお前の母親で、お前は私の娘。それは……変わらないわ。だから、どうでもいいでしょう」
声が震えるのを感じた。しばらく沈黙が続き、静寂が広がる。やがて、テレーズが、
「うん」
と小さな声で応えた。
それきり、テレーズが自分の出生について尋ねてくることはなかった。
平和で穏やかな時間が流れていく。女は相変わらず薬を作り、それを売りながら生活を営み、テレーズはどんどん大きくなっていった。
そのうち、テレーズは女の仕事を手伝ってくれるようになった。
「お母様、森で薬草を取ってくるわね」
そう言って家を出ると、森の中から必要な薬草を採ってきてくれる。女にとって有難い事だった。
ある日、二人で薬草を探していた時、テレーズが声をかけてきた。
「ねえ、お母様。あの木は、何の木?」
そう言って、テレーズが大きな木を指差す。そちらに視線を向けて、女は、ああ、と声を出した。
「ーーあの木は、温かい季節になると、信じられないくらい美しい花を咲かせるのよ……」
「え?そんなの見たことがない……」
テレーズが戸惑ったように木を見つめる。女は昔、その木が美しい花を咲かせたことを思い出して、少しだけ微笑んだ。その頃、まだテレーズはこの世に生まれておらず、老婆は生きており、二人で穏やかに暮らしていた。老婆と二人、この木の近くで美しい花を見て感動したのを覚えている。懐かしい思い出だった。
「あの木、多分何か病気があるんだと思うわ。昔一度だけ花を咲かせたのだけれど、その一度だけで……それ以来、全然咲かせないの。でも、本当に綺麗だったのよ……もう一度見てみたいわ」
懐かしい思い出に浸りながらそう呟く女の顔を、テレーズは無言で見つめていた。
やがて、テレーズは女の家を出て、遠くの街にある大きな学校に入学することになった。決めたのはテレーズ自身だった。手続きも全てテレーズが行い、女は必要な書類に保護者としてサインをするだけだった。
「寮に入るけれど、長期の休みには帰ってくるから。だから、心配しないで」
そう言って微笑むテレーズに、女はフンと鼻を鳴らして顔を背けた。
「別に帰ってこなくてもいいのよ」
そう言うと、テレーズはおかしそうに笑いながら、女の身体をツンツンと突っついた。
「本当は寂しいでしょ」
「そんなわけないでしょ」
「もう魔女様ったら。意地っ張りなんだから。寂しがりやのくせにー」
「もう、しつこい子ね!」
女が怒った顔をして怒鳴る。そんな女をテレーズは微笑みながらゆっくりと抱き締めた。
「心配しないで。絶対に帰ってくるわ」
「……」
「私がいない間に結婚なんてしないでね」
「するわけないでしょ。相手がいないことはお前もよく知っているはずよ」
「あは」
テレーズは笑いながら女から身体を離した。
「魔女様、大好き」
「はいはい」
「行ってくるわね」
テレーズが女の頬に唇を押し当てる。そして何度も振り返りながら旅立っていった。
「魔女様ー、結婚してないよね?ただいま」
「帰ってきて開口一番それ?おかえり」
自分で言った通り、テレーズは長期休みに入るごとに、森の家へと帰ってきた。
「勉強がとても面白いの。それにね、たくさん友達が出来たのよ。とてもいい人ばかり。すごく楽しいわ」
「……ふーん」
楽しそうに学校の事を話すテレーズが、なぜか気にくわなくて、女はそれを誤魔化すように目をそらした。
「魔女様は私がいない間、寂しかった?」
「……別に」
「もーう。そんなに拗ねないでよ」
「拗ねてなんていないわよ」
テレーズがクスクスと笑う。そして、
「これ、お土産」
「ん?」
テレーズが差し出したのは、小さな可愛らしい黒猫のぬいぐるみだった。
「魔女ときたらやっぱり黒猫でしょ?」
「なにそれ」
「私がいない間、この子と一緒に寝ればいいわ。そうしたら、寂しくないでしょう?」
顔をしかめる魔女に構わず、テレーズは無理やりぬいぐるみを手に持たせる。そして、ツンツンとぬいぐるみを突っついて、囁いた。
「私がいない間、魔女様をよろしくね」
そう言って、猫のぬいぐるみに向かって楽しそうに微笑んだ。
ふと、女は気づいた。この子に「お母様」と呼ばれなくなったことに。
もう随分とテレーズから「お母様」と呼ばれていない。多分、学校に入学する前くらいからだろうか。
ーーなぜなのだろう。
考えても答えが出なくて、女はうつむいた。
テレーズはその後も学生生活を楽しみつつ、優秀な成績を修め続けたようだ。やがて、学校を卒業する日が近づいてきた。卒業式の前に、テレーズは一度森の家へと帰ってきた。
「ようやく卒業だわ!長いようで短かったわね」
「……」
嬉しそうに笑うテレーズの顔を魔女は無言で見つめた。
随分大きくなったな、と感じる。他人と関わることが少ない女の目から見ても、テレーズは美しい娘に成長した。ふわふわの栗色の髪に、茶色の大きな瞳が愛らしい、妖精のような女性になった。
テレーズは花のように笑いながら、言葉を続けた。
「魔女様。卒業式の後に、話があるの。時間をもらえる?」
「……」
女はゆっくりと椅子に腰を下ろし、テレーズに声をかけた。
「ーー私からも話があるわ。今、すぐに」
「え?」
「テレーズ、座りなさい」
真剣な顔でそう言う女の様子に戸惑ったようにしながらもテレーズは腰を下ろした。
「魔女様?どうしたの……?」
眉をひそめるテレーズをまっすぐに見つめ、女は口を開いた。
「テレーズ。卒業したら、二度とここに帰ってこないでほしいの」
女の言葉にテレーズはポカンと口を開けた。
「……え?」
「お前の成績ならいい働き口も見つかるでしょう?必要ならお金の援助くらいはするわ。だけど、ここに帰ってくるのはやめてほしいの」
早口でそう言うと、テレーズはしばらく無言だったが、やがてゆっくりと笑った。
「……魔女様ったら。そんな冗談やめてよ……何か怒ってるの?」
「私は何一つ冗談も言っていないし、ふざけてもいない。ついでに怒ってもいないわ。ただ、お前に、もう帰ってきてほしくないの」
女が淡々と言葉を吐いたその瞬間、テレーズが勢いよく立ち上がった。
「……どうして!!」
そして女の肩を強く掴んだ。
「私、何か魔女様を怒らせるようなことをした!?」
「……」
「どうしてそんな酷いこと言うの!?私、ここに帰ってきて、ここでお仕事をするつもりだったのに……っ!ずっと、ずっと、魔女様の隣で……!」
混乱した様子のテレーズから目をそらして、女は言葉を紡いだ。
「……うんざりなのよ、もう。お前に、振り回されるのは」
テレーズが息を呑む。女は顔を大きく歪めて、言葉を続けた。
「ーーずっとずっと、お前を育てるために自分の時間を犠牲にしてきたわ。とても大変だったし、休む暇もなかった。もう、解放してほしいの。……疲れたのよ。一人になりたいの」
その言葉を聞いたテレーズは大きく目を見開き、すぐに泣きそうな顔をした。
「……ど、どうして、……どうしてぇ」
大きな瞳を潤ませて、小さな声を出す。
「わ、私……魔女様の役に立ちたくて……勉強を頑張ったのに……これからも、ずっといっしょに、暮らして……っ」
ボロボロと涙がこぼれ落ちる。魔女は全く動揺する様子もなく、冷めたような瞳でテレーズを見つめた。
「ーーお前には、親しい人がいるでしょう。多くの友人がいるはずだわ。その人たちと共に、生きていけばいい……」
「ーー私には魔女様しか、いない!!」
テレーズが涙を流しながらも、強い瞳で女を見返した。
「たくさん仲良しの人はいるよ、私のことを大好きだって言ってくれる人もいる……っ、だけど、それでも、私が一番好きなのは……あなたなんだよ!」
そしてテレーズは女を強く抱き締めた。女は身体を硬直させたが、顔色一つ変えなかった。
「ーー魔女様、あなたは、私にとって、……母親なんかじゃない」
テレーズのその言葉に、心臓が凍ったような気がした。
「……いっそ、あなたが、私の本当の母親だったらよかったのに」
現実が、崩れ落ちていく。頭が真っ白になる。
自分の心臓が嫌な音をたて始めた。
「もう気づいているでしょう?私が、あなたを、お母様って呼ばなくなった理由に」
「……やめなさい」
歪んでいく。自分の、世界が。
心が砕けていく。
いっそ、全てが壊れてしまえばいいのに。
そうしたら、この娘の感情にも気づかないふりができるのに。
そんな馬鹿な事を考えたその時、テレーズが子どものように泣き出した。
「魔女様……ねえ、魔女様。私の気持ちを受け入れてくれなくったって、いいよ。応えてほしいわけじゃない。何かをしてほしいわけじゃない。……」
身体を震わせながらテレーズが言葉を続けた。
「……ただ、そばにいさせて、ほしいの。お願い……」
死んでしまいそうだ、と女は思った。
強い力で、テレーズから身体を引き剥がすように離れる。テレーズが女を求めるように、また手を伸ばしてきた。
「……魔女様ぁ」
「近寄らないで」
女は、テレーズを冷たい瞳で見据え、言い放った。
「もう二度と、私に近づかないで」
テレーズが凍りついたように固まる。そして、またその瞳から大きな雫がこぼれるのが見えた。女はその姿を見ていられなくて、顔を背ける。
そして、女が大切に育てた小さな娘は、泣きながら森の家を出ていった。
女が、テレーズの未来を予知したのは、少し前の事だった。
予知の力を使ったのは、出来心、としか言いようがない。テレーズの将来がどうしても気になってしまった。馬鹿な事をしてしまった。本当に。
女が見たテレーズの未来。テレーズは、共に卒業した学生の一人から交際を申し込まれていた。その男の事は、休暇の度に帰ってくるテレーズの口から聞いたことがあった。とても優しく温厚で、優秀な成績の、将来有望な好青年らしい。テレーズとお似合いだと思った。きっとこの男なら、テレーズを幸せにしてくれるはずだ。
けれど、テレーズはその男の交際の申し込みを断った。断って、しまった。
『私は、故郷に帰って、母のそばにいたいの』
申し訳なさそうにしながらも、そう言って交際を断る未来を予知してしまった。
女はそんなテレーズの姿に、大きな衝撃を受けた。
ダメだ、と思った。テレーズには幸せになってほしいのに、自分の存在がテレーズを縛っている。
このままだとテレーズは、自分の幸せを放棄して、その一生を女の隣で送ってしまうことになる。自分がテレーズの人生を壊してしまうという事に、女はようやく気づいた。この暗い森の奥で、何もない小さな家で、影のように生きる人生となってしまう。希望のある未来を、女のために捨ててしまう。その一生を潰してしまう。
だから、女は、テレーズを解き放した。
だって、テレーズの幸せが、女にとっての幸せだったから。
これでよかったのだ、と女は自分に言い聞かせる。
きっともう、あの娘は女の事を見限っただろう。それでいい。この森での日々も、女の事も、全て捨てて、忘れて、幸せになってほしいのだ。
女は窓辺に座り、遠くを見つめた。腕には、小さな猫のぬいぐるみを抱いている。今日はテレーズの卒業式だ。きっと卒業式の後に、あの青年に交際を申し込まれているだろう。女は少しだけ笑って、娘の未来に思いを馳せた。
あの娘はどんな未来を歩くのだろう。きっとどんな道を選んだとしても、テレーズなら幸せになれるはずだ。
どんな仕事をするのだろうか。きっと花や木が好きだから、植物関係の仕事だと思う。真面目で優秀なあの娘は、どんな仕事でも成功するだろう。そのうち結婚して、子どもが生まれるかもしれない。そして、たくさんの家族に囲まれて、幸せな人生を送るだろう。
そんな事を想像しながら、女はふと瞳を閉じた。
もう一度だけ、テレーズの未来を見てみたかった。
思った通り、テレーズは青年の交際の申し込みに、笑顔で何かを応えていた。その光景に安心する。やがて、青年と手を繋いで、寄り添うように歩き始めてーー、
ーーーープツン
「ーーえ?」
突然、その光景が途切れる。女は戸惑って、思わず声を出した。
「あ、あれ……?」
もう一度、テレーズの未来を見るために、瞳を閉じる。次の瞬間、目の裏に、テレーズの笑顔が浮かんだ。
『魔女様』
『魔女様』
『私の大好きな魔女様』
「ーー魔女様っ」
突然、声が聞こえて、女は瞼を開いた。目の前に、テレーズが立っていた。
「もう、さっきから何度も呼んでいたのに。気づかなかったんですか?早く会いたくて、急いで帰ってきたのに」
怒ったようにそう言うテレーズを、女は呆然と見つめた。
「な、なんで……」
「私が魔女様から離れるなんて思いました?そんなわけないじゃないですか」
テレーズはクスリと笑い、女の顔を覗き込んできた。
「ーーずっと、ずっと、あなたを、あなただけを見てきたんです。あなたが嘘をついていることくらい、すぐに分かりますよ」
その一言に、全てを見透かされていることに気づく。女は顔を歪めて、唇を強く噛んだ。
「卒業式が終わって、そのまま急いで帰ってきたんですよ。疲れちゃいました」
女はテレーズから目をそらしながら、問いかけた。
「ーーふ、ざけないで。卒業式の後に、お前は……」
「はい?」
男に交際を申し込まれるはずだったのに、と続けようとして口ごもる。代わりに、ちがう言葉を続けた。
「……お前は、ここに帰ってくるべきではなかった」
「まだ言いますか」
「お前は、もっと広い世界で生きるべきよ。こんな、暗い森の中なんかじゃあ、なくて……」
その時、テレーズの腕が伸びてくるのが見えた。そのまま温かい手が、女の頬を包む。
「ーーあなたのそばにいさせてほしい」
「……」
「私の幸せは、あなたの隣で生きることよーー大好きな魔女様。誰よりも何よりも、世界で一番、あなたを愛してる。それだけは否定しないで、魔女様。私の幸せを願ってくれるのであれば、どうかこの気持ちを受け入れて」
「私と共に、生きてください」
ーーなんて、自分は愚かだったのだろう。
胸の痛みと共に、何かが込み上げてくるような気がした。一瞬でこれまでの記憶が脳内を駆け巡る。
あの小さな赤ん坊が、これほどまでに強い娘になったなんて。
女は思わず笑った。そんな女の笑顔を見て、テレーズが目を見開く。
「ーー魔女様の笑顔、初めて見た……」
そんなテレーズに、女はゆっくりと自分の額をテレーズのそれに押し当てた。
「ーー分かっているの?ここには、何もないわ。暗い森の中で、一生を無駄にするつもり?」
「私、この森が好きだもの。魔女様と一緒に、薬草を取ったり、薬を作りながら、働くわ。きっと楽しいわよ」
「ーーお前の時間と私の時間は、流れがちがう。どんなに足掻いても、……私よりも先にお前は歳を取るの。そして、いつかは私を残して、死んでしまうのよ」
「ええ。私が死んだら土に還るわ。そして、花や木に生まれ変わるの。そうしたら、またあなたと共に生きることができる。そうでしょう?」
その言葉に、女の息が一瞬止まる。そして、ゆっくりとテレーズへ腕を伸ばし、抱き寄せた。
「ーーお前は、残酷ね」
「ええ、知ってる。ごめんね、こんな娘で。それでも、時間が許す限り、私はあなたのそばにいたいの」
娘の言葉に、女の身体は少しだけ震えた。じわじわと、何かが心にあふれてくる。もう止まらない。自分の気持ちを言葉に出したいのに、うまく出せなかった。想いはあまりにも強く、そして混沌としている。
結局、女の口から出たのはつまらない一言だけだった。
「ーー本当に、バカね。しつこい子」
そう声を出すと、テレーズもまた女を強く抱き締めた。
予知の力は自分で封印した。もう惑わされないように、自分の心を支配されないように、二度と使わないと決めた。
テレーズは女の家でまた暮らし始めた。女と同じように薬草を採取し、それで薬を作ったり、何かの商品を作ったりする仕事を始めた。それと同時に植物の研究をして、時には論文を書き、それが本に載ったりなどしたようだが、女にはよく分からなかった。
「うーん」
時折、あの花の咲かない木の下で何かを考えるように首をかしげている光景を目にした。
「何を悩んでいるの?」
女が声をかけると、テレーズは困ったように笑った。
「この木、花を咲かせたいと思って、いろいろ調べているんだけど、うまくいかないのよね」
「ああ……」
女は木を見上げた。もう何十年も、この木に花は咲いていない。
「何かの病気、だと思って調べたんだけど、原因不明。何年も研究しているんだけど、うまくいかないの。悔しいなー。私なら咲かせられると思ったんだけど」
不満そうなテレーズに、女は問いかけた。
「どうしてそんなにこの木を気にするの?」
その言葉にテレーズが微笑んだ。
「だって、魔女様、この木に咲く花を見たいと思っているでしょう?」
その言葉に女は大きく目を見開いた。
「だから、学校でも植物の勉強をしたの。いつか、この木に花を咲かせたくて。魔女様に見てもらいたくて」
テレーズは瞳をキラキラと輝かせながら、女の手を握った。
「いつか、見せてあげるね」
その瞳が綺麗だ、と女は思った。
理解はしていたが、時の流れは非情で残酷だった。
テレーズの身体は少しずつ衰えてきた。髪色が少しずつ白くなっていき、皺も増えてきた。身体も縮み、背骨も曲がっていく。家の外で仕事をする時間も少なくなり、最近はベッドの上で静かに過ごす時間の方が増えてきた。少しずつだが、確実にテレーズの時間は進んだ。
女の方は、相も変わらず若々しい身体のまま、老いる事はなかった。
きっと、傍から見ると、自分とテレーズはもはや母娘には見えないだろう。祖母と孫に見えるだろうな、と女は思った。
年を重ねたテレーズは、それでも笑う時は幼い少女のように無邪気で愛らしかった。
「ーー後悔は、していないの?」
ある日、女がそう話しかけると、ベッドの上でテレーズが不思議そうに首をかしげた。
「後悔って?」
女が言葉を濁していると、テレーズは少しだけ笑った。
「そうねえ……一つだけ、後悔はしているわ」
「……」
「あの木の花を咲かせられなかったこと。魔女様に見せてあげたかったのに……」
テレーズが皺だらけになった手で、女の手に軽く触れた。
「ごめんなさいね。約束守れなくて」
「……そんなこと、まだ気にしていたの。しつこい子ね。別に、最初から期待はしていなかったわ」
「ふふふ」
女の憎まれ口に、テレーズは楽しそうに笑った。
「ーー魔女様」
「うん」
「魔女様」
「何よ」
「私の大好きな、魔女様」
「だから、何よ」
テレーズは少しだけ深呼吸をすると、小さく声を出した。
「覚えておいてね。私、とっても幸せだったの」
「……うん」
「あなたを愛して、あなたに愛されて……あなたは、私の母であり、友人であり、恋人であり……家族だった」
「うん」
「ありがとう、こんなにも幸せにしてくれて。愛してくれて。ありがとう」
強く拳を握り、女は言葉を紡いだ。
「……そんなにしつこく言わなくったって分かってる」
「ふふふ。そうよね」
テレーズが笑う。
「大丈夫よ、魔女様。また、すぐに会えるわ。ちょっとの間、離れるだけよ。すぐに会えるから」
こんな時に、うまく気持ちを言葉に出来ない自分が、女は心底憎くなった。
ーー本当はたくさん言いたいことがあった。
誰よりも何よりも愛していた。私の小さな赤ん坊。私の全て。暗闇で生きることしか出来なかった私の、唯一の光。
この世で一番愛していたの。森の中で出会ったあの日から。誰にも渡したくない、と思えるほどに。
ーーねえ、ねえ、言わなくても知ってるでしょう?お前と過ごした日々は、熱くて、幸せで、愛しくて、何より祝福に満ちていたの。
ーーできることならば、お前と共に歳を重ねたかった。いや、ちがう。私が先に死にたかった。お前よりも先に、お前に看取られて、そうして死にたかった。
ーーなのに、私はこれからも生き続けなければならない。たった一人で。
ーーああ、神よ。どうしてこんな残酷なことをするの。
うつむいて、血が出るほどに強く握る女の手を、皺だらけの手がゆっくりと包み込んだ。ハッとして女は顔を上げる。テレーズは優しく穏やかに微笑んでいた。
「大丈夫よ。あなたは一人じゃないわ。私の大好きな魔女様」
「……」
「離れていても、ずっと、ずっと、見守っているわ。それに、絶対に必ずまた会えるから。寂しいかもしれないけれど、ちょっとだけ頑張って」
女はテレーズから手を離すと、ゆっくりと抱き締めた。そして、その額に口付けると、耳元で囁く。唇が、“愛してる”と動いたはずなのに、うまく声が出なかった。なのに、テレーズは女がなんと言ったのか分かったらしい。幸せそうに微笑む。
「私も」
そう呟くと、ゆっくりと瞳を閉じた。
たった一人の家族がこの世からいなくなり、女は脱け殻のようになった。薬を作ることもなく、ただ一日をぼんやりと過ごす。食事もほとんど喉を通らなかったが、死ぬことはなかった。
女がひとりぼっちになっても、世界はほとんど何も変わらない。時間はやっぱり残酷に流れていく。やがて季節は移り変わり、少しずつ暖かくなってきた。
その日も、女は薬を作ることもなく、ぼんやりとソファに座っていた。その腕で、もうボロボロになった猫のぬいぐるみを抱いている。
何もする気力がなくて、ただ無気力に生きていた。
ふと、視界を何かが横切る。女はそれに気づき、眉をひそめてそちらへ顔を向けた。風に吹かれて、窓から小さな何かが入ってきたらしい。それはヒラリヒラリと揺れて、床に落ちる。女はフラフラと立ち上がると、そちらへ向かった。ゆっくりとしゃがみこみ、それを手に取る。
それは色鮮やかな美しい花びらだった。どこかで見たことのあるようなーー
女はハッと顔を上げる。素早く扉の方へ向かうと、勢いよく開けて家から飛び出した。
あの木の方へと必死に走る。
『いつか、見せてあげるね』
頭の中で、声が響いた。愛する人の声が。
『私の大好きな魔女様。いつか、絶対に見せてあげるからね』
木へと近づくほどに、小さな花びらが風に吹かれてまたヒラヒラと舞うのが見えた。そして、ようやく目的地へとたどり着き、それが視界に入った瞬間、女の口から声が漏れた。
「……ああ」
あまりにも美しい光景だった。色鮮やかな美しい花が、満開に咲きあふれていた。花びらが幾重にも重なり、温かい光が降り注いでいる。風に揺れて、花びらが舞うように散っていた。
『ほら、言った通りでしょう?魔女様』
確かに、聞こえた。
あの優しい声が。
『また、会えたね』
まるで祝福のように、花びらが散り行く中、女はゆっくりと微笑んだ。
そして呟く。
「ーーお前、やっぱりしつこいわね」
その瞳から、枯れ果てたはずの涙が、静かにこぼれ落ちた。