8:オークの小さな村①
僕は、自分が自分でなくなってしまうような言いようのない恐怖に駆られ、ヴィルマが「すぐ戻るから待っていて」と言ってくれた場所から逃げ出した。
もう完全に陽は落ちていて辺りは暗い。足元もおぼつかないような状態で全力疾走し、何度も何度も躓いて転びそうになりながら、それでも速度を緩めずに走る。
「【閃光】」
あまつさえ更にスキルを発動させて加速し、飛ぶように地を駆ける。
周囲が暗いこともあり、体感的には時速100キロを超えようかというほどの勢いだ。
走り続けていくらもしないうちに目眩に襲われ、身体が焼けるように熱くなり、頭の芯がガンガン痛んで吐き気を催す。紛れもなく魔力切れの症状だ。
けれど、それでも僕の足は止まらない。意識は朦朧とし、時間の感覚を失ってもなお、ひたすら走り続けた。
そうしてどのくらいの時間、どのくらいの距離を走ったのか。
いつの間にか僕は、完全に意識を失っていた。
◇◆◇
「えぇーっ、クヌギって兄弟いないの? 家に子供は一人だけ?」
「はい。まぁ、そうですね」
厳しい訓練の合間の休憩時間。
これから一緒に魔族と戦っていくことになる仲間たちと自己紹介がてらに雑談を交わしていると、魔法使いのマチルダが心底驚いたという表情で聞き返してきた。彼女は明るい茶髪を外ハネにさせた、とても活発そうな女の子だ。
どうやらこの世界では、一人っ子というのは相当に珍しいらしい。
ちなみに僕の名前は功刀蒼真なんだけど、みんなからは「クヌギ」と呼ばれている。どうもそっちが僕のファーストネームだと思われているみたいだ。
まあ、わざわざ訂正する事もないと思うのでそのままにしてあるけれど。
「それって、寂しくないの?」
「いえ。物心ついた頃からずっとそうでしたから、特には……」
「いぃーやマチルダ、俺はクヌギが羨ましいぜ。ウチなんざ、俺の上に2人と下に3人の6人兄弟だろ? メシなんていっつも奪い合いの大騒ぎだったよ。それが兄弟がいないってことになりゃお前、何だって全部独り占めじゃねぇか」
僕の答えに被せるように口をはさんできたのは、軽装戦士のホランド。
彼はちょっと口調がぶっきらぼうで不良っぽい雰囲気はあるものの、気さくで話しやすい。
「それはホランドの家が特別なの! 私の家も4人いたけど静かなものだったわよ」
「えぇー。そうかぁ? ……まあ、それはそれとしてだ。クヌギさえ良けりゃあ、俺たちのことは兄弟みたいなもんだと思ってくれよ。なんならホランド兄さん、って呼んでくれてもいいぜ?」
「そうね。私は末っ子だから、クヌギみたいな弟ができれば嬉しいわ。私のこともマチルダ姉さん…… ううん、ここはむしろお姉ちゃんの方が……」
ホランドは確か19歳、マチルダは17歳だったっけ。14歳の僕にとっては確かにお兄さんお姉さんって年齢だけど、いきなりそんな風に呼べと言われても恥ずかしいし、困ってしまう。
僕たちがそんな話をしていると、少し離れたところで軍の偉い人と相談事をしていたパーティのリーダー、ゲイルもこっちへやって来た。
ゲイルの頬には少しだけ引き攣れた古傷があって、あまり人相は良くないけれど、それでいて実はとても面倒見のいい頼れる大人って感じの人だ。それにしても治癒魔法のあるこの世界であんな傷跡ができるなんて、よほどの大怪我だったんだろうな。
「それなら俺もゲイル兄さんだな。ついでだからクヌギだけじゃなくて、お前らもそう呼んでいいぞ」
「しれっとなに厚かましいこと言ってやがんだよ。あんたはゲイルおじさんだろうが」
「なっ、何だとぉ!? 俺はまだ30歳になったばかりだぞ!」
「それって十分おじさんなんじゃないかしら?」
「……ぅぐっ!?」
マチルダがそうゲイルに止めの一撃を放って、皆が笑い合う。
僕もそれに釣られて思わず頬を綻ばせた。
召喚されてこの世界へと連れてこられたばかりの頃には、なんで僕がこんな目に遭わなきゃならないんだって塞ぎ込んでばかりだった。
だけど今はこうして、僕が元の世界に戻るために協力してくれる仲間たちがいる。
毎日毎日厳しい訓練に魔獣狩り、そして来たるべき魔族との戦争と、どうにも殺伐としたこの世界だけれど、ゲイルたちが一緒にいてくれるのならそれも悪くはないって気もしてくるよ。
「……つってもそんなのは全部、嘘っぱちなんだけどな」
「……カはッ……!?」
不意に背後から感情の抜け落ちたようなホランドの声がして、胸の中を冷たい感触が走り抜けた。
見下ろすとそこには、僕の胸から20センチ以上も突き出した剣の切っ先がある。べったりと僕の血で汚れたそれは、よく見慣れたホランドの愛剣で……
「悪いわねクヌギ、あなたの役目はもう終わったの。ここで大人しく死んで頂戴」
……マチルダ?
「お前がいなくなれば、俺たちが魔王殺しの英雄だ。どのみち最初っからお前が元の世界へ戻る手立てはない。悪く思うな」
ゲイルまで? いったい、何のこと……
「恨むんなら俺たちじゃなく、王様を恨んでくれよ。さあゲイル、とっととやっちまえ」
「ああ」
……みんな、なんで……そんな…… 仲間なんだって、僕は……
◇
「夢…… か…………」
……って、どこからが夢なんだ? ひょっとしたら、そもそもゲイルたちに殺されて魔族に転生してしまったことも夢なんじゃ?
そんな期待を抱いて自分の手を目の前にかざしてみる。答えは、ノーだった。褐色の肌にゴツゴツとした大きな手。オーガの手だ。
それを確認してひとしきり落胆したあと、今度は自分の置かれた状況に気付く。確か【閃光】を使って完全に魔力が枯渇するまで走り続けてぶっ倒れたはずなんだけど、ここは森の中でもどこかの道端でもない。
どうやら僕が今いるのは誰かの家の中で、しかもちゃんとベッドに寝ているようだ。
次第に意識がはっきりしてくると、ベッドのすぐ間近に人の気配を感じ取って、僕は慌ててそちらへと目を向けた。
「あっ!」
驚きの声を上げたのは僕じゃなく、ベッドに両手で頬杖をつき、じっと僕の顔を見つめていた女の子だ。
残念ながら、もちろんヴィルマじゃない。その女の子は5歳か6歳くらいの小さな子で、頭の両側にぺたんと垂れた大きな耳を持っている。その特徴からして、たぶんオークの子供だろう。
「おとーさぁーん、いきだおれさんが起きたよーっ!」
「こらローザ、行き倒れさんじゃない。その人は行き倒れたオーガのお兄さん、だ。……で、具合はどうだい? もう起きられそうか?」
女の子に呼ばれてやってきたのは、同じく大きな垂れ耳を持ち、人間より一回り太くがっしりとした体型の20歳ほどの男性。
こちらはもう見間違いようのない、典型的なオークの姿だ。
「ここは……?」
「ああ、俺の家だ。昨日の朝、畑に行こうとしたら道端で倒れてるお前を見つけてな。ゆさぶろうが叩こうが全然目を覚まさないし、まさかそのまま放っとくわけにもいかないからこうして家まで運んできたわけだ」
「そう……でしたか……」
なんてことだ。魔族の街に入るのが怖くて、ヴィルマとの約束を破ってまでそこから逃げ出して来たというのに、それで行き着いた先が別の魔族の家の中だなんて。
こんなことなら、ヴィルマのいるドラークの街に入ったほうが断然よかったじゃないか。彼女には本当に申し訳ないことをしてしまった。きっと怒ってるだろうな。
そんな事情を聞いてさらに落胆させられたけれど、別にこのオークの男性も悪気があってしたことじゃない。
それどころか見ず知らずの僕をわざわざ家に運び入れてもらい、ベッドまで使わせてもらっていたわけだから、その親切心に感謝するべきところだ。
そんなことは分かってる。分かってるんだけど…………
「無理はしなくていいが、もし起き上がれるんなら、お前の分も朝飯を準備してある。うちの嫁さんの腕前はなかなかのもんだからな、食ってみて損はないぞ?」
「……はい。ありがとうございます」
もう、これ以上逃げていても仕方がない。今の僕のこのオーガの姿で魔界にい続ける限り、きっと逃げ場所なんてどこにもないんだ。
覚悟を、決めよう。