7:ミノタウロスの少女③
そんなことをしている間にいよいよ本格的に日が暮れてきたので、気を取り直してヴィルマの勧めで彼女の住んでいる街、ドラークへと向かうことにした。
僕には特にこれと言って行く当てがあるわけでもないし、そのドラークの街に着いてから先をどうするかはまだ分からないけれど、そこまでの道程をヴィルマのような美少女と一緒に過ごせるのなら、僕にとってデメリットになることは何一つない。
ちなみにここからドラークの街へは歩きで2時間くらいだそうで、今からだと閉門の時間には間に合わないだろうけど頼めば通してくれるから大丈夫、なのだそうだ。
「あっ。でもソーマさんは遠くの街からずっとこの森の中を通って来たわけですから、この辺りで通用する身分証をお持ちじゃないですよね?」
「えっ、身分証?」
「はい。こういうのなんですけど」
そう言いながらヴィルマが首にかけている革紐を引っ張ると、ドックタグのような金属板が姿を現した。深い胸の谷間から、にゅるんっと。
なるほど、あれが身分証か。いいなぁ、僕もヴィルマの身分証になりたい…… いやそうじゃなくて。
「確かに持ってないけど、ひょっとしてそれがないと街に入れない?」
「いえ。入れないことはないですけど、持っていないといろいろと不便なこともありますね。では、街に着いたらすぐに仮の身分証を発行してもらうことにしましょう」
「本当に? ありがとう、お願いするよ」
「はい、任せてください。それじゃあそろそろ出発しましょう!」
その後のヴィルマとの道中は、主に食べ物の話題で盛り上がった。
この地域の旬の食材を使った美味しい料理のこととか、どんなものが好きなのかとか、ついつい食べすぎてしまったあとの苦労話とか。
話と言っても喋っているのはほとんどヴィルマの方で、僕は彼女に尋ねられたことに答えているだけなんだけどね。
それにしても、話を聞けば聞くほどに、彼女はごく普通の女の子なんだなぁと感じる。
いや、日本でもこの異世界でも女性に縁がなく、生まれてこの方彼女なんかいた試しのない僕が「普通の女の子」なんて偉そうに語るのもおこがましいとは思うけど。
でもヴィルマとこうして話をしていると、彼女が魔族であるってことをすっかり忘れさせられてしまう。
今僕のすぐ隣を歩きながら、うっかり熟しきっていない果物を買ってしまった場合にそれをどう美味しく調理するかというテーマについて熱く語っているのは、並の兵士じゃ10人がかりでも簡単には倒せない魔王軍最強種のミノタウロスなんかじゃなくて、性格も育ちも良さそうなとびっきりの美少女で、だけど自分の体型にはちょっとコンプレックスを持っているような、そんなごく普通の女の子なんだ。
◇
「あっ。ソーマさん、街壁の門が見えてきましたよ。もうあと少しです」
「本当だ。思ったより早く着いたかな?」
「違いますよ。早く感じるのはソーマさんを退屈させない私の巧みな話術のおかげです」
「あー。確かに、それはあるかも」
ヴィルマが冗談めかして言うように、彼女と他愛のない話をしながら歩く時間はとても短く感じた。
よく言う楽しい時間は早く過ぎる、というやつだ。でもこの街に着いてしまったからには、それももう終わりか。
「あの……ですね」
「うん?」
僕が何となく祭りの後のような寂しさを感じていると、ヴィルマが少しの間をおいてから僕の上着の袖をちょんと摘んできた。
「ソーマさんは、お腹空いてませんか? 私、ずっと食べ物の話ばっかりしてたからもう、おなかペコペコで。……もしよければ、さっきのお礼も兼ねて、街に入ったら一緒にお食事でも…… どうですか?」
なんと、至近距離から頬を染めての上目遣いで食事のお誘いだ。
こんなことは僕にとって生まれて初めての経験、しかもヴィルマのような巨n……ケフンケフン、……スタイル抜群の美少女からの誘いなんて、まるで夢みたいだ。
もちろん僕には断る理由なんかこれっぽっちもなく、二つ返事でOKしたことは言うまでもない。
「よかったぁ! お勧めのお店があるんです。さっき話していたお魚の料理がとっても美味しいお店で、料理の味だけじゃなくて雰囲気もよくて、それに……」
ついさっきのおずおずとした態度から一変、ヴィルマは早口でこれから食べる予定の料理について熱弁を振るい始めた。
そのとても嬉しそうな満面の笑顔に、僕はどうしようもなくドキドキさせられてしまって、その話の半分も頭に入ってこなかったのだった。
◇
それからまたしばらく歩いて、僕たちはようやくドラークの街を囲む街壁の門の前に辿り着いた。
街壁は高さ5メートルほどもあって、厚みも相当なもののようだ。両開きになっている門扉は高さ幅ともに4メートルほどで、サイクロプスでも頭を屈めずに悠々くぐり抜けられそうなほどの大きさがある。
その門の両側の壁には篝火が灯されているけれど、今は門扉は完全に閉ざされていて、門番らしき者の姿も見えない。
「それじゃ私、ちょっと先に行ってソーマさんの仮身分証をもらってきますね。10分ほどで済むと思いますから、それまでソーマさんはここにいてください」
ヴィルマはそう言って門の方へと向かって行った。
かと思うと少し歩いてすぐ僕の方を振り返り、「すぐ戻りますから、待っていてくださいね」と念を押す。
その後も何故か門扉に辿り着くまでに何度か僕を振り返って、どことなく心配そうな表情をしていた。
「ヴィルマ・ブロワーズです! ただいま戻りましたので、開門をお願いします!」
ヴィルマが門扉の前でそう声を張り上げると、それまで静まり返っていた扉の向こう側が急に騒がしくなった。
「ヴィルマ様!?」
「お嬢様がお戻りになられた! 誰かお館様にお報せしろ!」
「直ちに開門だ! おい、あと一人こっちに来て手伝ってくれ!」
幾つかの怒鳴り声のあと、両開きの大きな門の片方だけがゆっくりと半分ほど開き、そこから数人のミノタウロスの男たちが姿を現す。
全員が大柄で、筋肉の塊のような立派な身体に鋼の鎧を身に着けている。それはある意味で、僕にとっては見慣れたミノタウロスの姿だ。
その彼らにヴィルマが短く二言三言何かを告げると、ミノタウロスたちは一斉に胡乱そうな一瞥を僕に投げつけてから、その威圧感あふれる見た目に似合わぬ丁寧な扱いで彼女を門の中に招き入れた。
その半分開いた門扉の向こう側に姿を隠す直前、ヴィルマはまた僕の方を振り向いて、「待っていてください」と言ったように見えた。
そうして、ヴィルマを通したあとで再びゆっくりと閉じられた大きな門の前に、僕は一人で取り残されることになった。
とは言うものの、僕はそれほど心配はしていない。ヴィルマとは出会ってからまだ2時間ちょっとしか経っていないけど、それでも僕を騙してこんなところに置き去りにするような人じゃないってことは断言できる。その彼女が「すぐに戻る」と言っているんだから、それまでここで待っていることにしよう。
それに何より、僕にはヴィルマとの食事の約束以外に、この街に入らなきゃならない理由は何もない。もしもこのまま彼女が出てこないなら、僕はここを立ち去ってどこか別の場所に行けばいいだけのことだ。
それにしてもヴィルマ、あのミノタウロスたちに「お嬢様」とか呼ばれてたし、なんとなく育ちが良さそうだと思ってたのは正解だったみたいだな。
となればこの街の町長の娘とか、そんな感じだろうか? そのうえ彼女は美人で魅力的で性格も良さそうだし、そんな素敵な知り合いがいるならこの街で暮らしていくのも悪くないかもね。
……この街で、……魔族の街で、暮らす?
それってつまり、魔族になるってこと? 魔族になって、人間と戦い、殺して、……それを喰う?
そんなの、絶対に無理だ。できない。したくない。
確かに今の僕は、紛れもなく魔族の一種族であるオーガの姿をしている。だけど、心は人間のままなんだ。
……いや、本当にそうだろうか?
これまで僕は、魔族に感情移入したことなんて一度もなかった。魔族というのは憎むべき人間の敵、あるいは駆除対象の害獣、その程度にしか考えてなかったと思う。逆にそうでなきゃ剣で刺したり首や手足を切り落としたりなんて、できるはずがない。
それなのについさっきまで僕は、その魔族の女の子であるヴィルマの姿や声、仕草や匂いにあんなにもドキドキさせられていて……
それはきっと、僕が心まで魔族になりかけているからなんだ。
そこまで考えて、僕は突然、この門の前に立っていることが恐ろしくてたまらなくなった。
今ならまだ、僕の中には人間だった部分が残っている。だけどこの門を潜れば、この街で暮らすようになれば、たぶん僕はもう人間ではいられなくなる。
僕が僕でなくなってしまう。その恐怖に心臓を鷲掴みにされ、呼吸すら満足にできないほど動転し、視界が霞む。
「ここに、いたら……だめだ……」
靄がかかったように上手く働いてくれない頭でそう結論し、僕は、その場所から逃げ出した。