2:オーガになって森の中①
次に目を覚ました時、僕の目に飛びこんで来たのは、薄闇の中の森の風景だった。
「…………あれっ? 生きてる……? ここは……?」
この世界に召喚されてから2年間、ずっと仲間だと信じて一緒に戦ってきた人たちに裏切られ、てっきりもう死んだと思ったんだけれど、不思議なことに僕はまだ生きていた。
ただし、ここは僕が意識を失う前にいた魔王城の中ではなさそうだ。薄暗いのは変わらないけど、どうやら僕はむき出しの地面に仰向けの状態で寝ているらしい。頭上に見えるのは、鬱蒼と茂る木々の枝葉だけ。かなり深い森の中のようだ。
「…………傷は……?」
そう言えばホランドに背後から胸を貫かれ、ゲイルに首を斬られたはずなんだけど、どちらにも特にこれと言って痛みも違和感もない。
……いや、それはおかしい。あれは確実にどちらも致命傷だった。いくらマチルダが凄腕の魔法使いだからと言っても、あそこから治癒を成功させられるとは思えない。僕はあの時、間違いなく死んだはずだ。
「……えっ。…………なんだ、これ?」
ぼんやりした頭でそんな事を考えながら、ふと傷があるはずの胸に視線を落として、僕はようやくその異常に気がついた。
傷を確認するため、無意識に胸の上に置かれた僕自身の右手。…………それが、僕の手ではなくなっていた。
……いや、その右手は確かに僕の思い通りに動かせるし、感覚もちゃんとある。そういう意味では間違いなく僕の右手だ。
けれどもその肌は褐色で指は長く、全体的にゴツゴツとした感じで、やけに大きく感じる。どこからどう見ても僕の手ではありえない。
「何だよこれ、どういう事だよ? 一体どうなっちゃったんだよ!?」
慌てて体を起こし、全身くまなく確認してみる。
まず、今僕が身につけているのは、粗末な厚手の布の衣服だけ。
この2年近く愛用してきたミスリルの胴鎧をはじめ、一切の装備がなくなっている。ゲイルに奪われた『滅魔の剣』はもちろん、予備の短剣やナイフもない。完全な丸腰だ。
でも、それはいい。それだけならまだ、気を失っている間に奪われたとでも何とでも説明が付けられる。
そんな事よりもはるかに不可解で深刻なのは、僕の身体に起こった変化の方だった。ある意味当然と言うべきか、変わってしまったのは右手だけじゃない。左手も腕も脚も服の下の胴体も全部褐色の肌で、しかもめちゃくちゃ逞しい体つきになっている。
鏡のようなものがないからはっきりとは分からないけど、触ってみた感じでは顔つきも以前とは全然違っていそうだ。口の中の違和感を舌で探ってみると、犬歯がまるで牙のように長く伸びている。ていうかこれ、完全に牙だ。
そして極めつけは、額の両端に見つけた硬くて鋭い2本の突起。……つまり、今の僕には角がある。
これら全ての身体的特徴に当てはまる生物を、僕はよく知っていた。
「これってつまり、オーガになっちゃったってこと?」
おかしな話だけど、そう結論づけてみるとなんだか妙に気持ちが落ち着いてきた。
そもそも僕は2年前、日本で普通に中学生として生活していたところを突然この魔獣と魔族の跋扈する剣と魔法の異世界に勇者として召喚され、ほとんど有無を言わせず魔王の率いる魔族の軍隊との戦争に投げ込まれた身の上だ。それが死んで今度は魔族の一種族であるオーガに転生したとしても、今更もうそれほど驚くほどのこともない。
そんなことよりも、あれほど信頼していて仲間……いや、それ以上の存在だと信じていたゲイルたちに裏切られ殺されたことの方が、はるかに衝撃的だ。
「それにしても、魔族になっちゃうとはなぁ…… これからどうしよう?」
魔族は決して人間とは相容れることのない、絶対的な敵だ。
魔族は見境なく人間を襲い、殺し、滅ぼすことのみを目的として存在している。
魔族は人間を捕え、奴隷化し、あるいは食料として喰らう。
そういった話を、僕はこれまで散々聞かされてきた。
死ななかったのはいいけれど…… あ。いや、一度は死んだのか。死んで生き返ることができたのはいいけれど、その魔族に転生してしまったからには、僕はもう二度と人間界で暮らすことはできないだろう。
かと言って魔界で魔族に混じって生きて行くって言うのもなぁ…… そもそも魔族って、普段どうやって生活してるんだろう? 男も女もみんな恐ろしい狂戦士で、戦争ばっかりしてるってイメージしかない。
もしも魔族として生きることが、人間を襲って殺し、喰らうことだとすれば、僕にはそんなのは絶対に無理だ。
この姿では、もう人間界には戻れない。かと言って、魔族としても生きられない。そうなると、どこか人間にも魔族にも見つからないところでひっそりと生きていくしかないってことだろうか。
うわぁ、イヤだなぁ…… オーガの寿命って何年くらいだっけ? これから何十年もそんな生活をしなきゃいけないなんて、とても耐えられそうにないよ。
……ガサガサッ。
下生えを揺らすその小さな音に、あれこれと思い悩んでいたことが一気に吹っ飛んで、意識が現実に引き戻される。僕は素早く立ち上がり、手近な木の幹に身を潜めた。
野獣か、魔獣か、それとも魔族か? もし相手が同じ魔族、同じオーガだったとしても、必ずしも味方だとは限らない。それを判断するには、僕は魔族の社会の仕組みを知らなさ過ぎる。
……いっそ面倒事になる前に、先制して倒すか。
幸い体は自由に動く。どこにも特に違和感もない。相手が仮にオーガやミノタウロスだとしても、1匹だけなら丸腰でもなんとかできるだろう。
そうしてしばらく息を殺して音のする方向を見つめていると、不意にその音の主が藪の中から姿を現した。
……あれは剣角牡鹿の…… 魔獣だ!
剣角牡鹿はその名の通り、剣のように鋭い刃のついた角を持つ牡鹿だ。だけど剣角牡鹿自体は、実はそんなに危険な生き物じゃない。そもそも彼らは草食動物だから、こちらから手を出さない限りは滅多に襲い掛かってくることもない。
けれど僕の目の前に現れたこの剣角牡鹿は、普通の獣じゃない。その両眼には本来あるはずの瞳はなく、全体がまるで紅玉か柘榴石でできているかのように真っ赤に光っている。その赤い眼こそ、それが魔獣である印だ。
魔獣とは、普通の獣が変化して狂暴化したものの事を言う。魔獣となった獣は、その元となる獣より数倍も力強く、頑丈になり、そして元がどんな動物だろうと関係なく人間を襲うようになる。
それは相手を捕食するためではなく、また縄張りを守るためでもなく、ただとにかく問答無用でこちらを殺しにくるんだ。
普通の獣がどうして魔獣と化すのか、その原因やプロセスはよく分かっていないらしい。ただ、あの宝石のように光る赤い眼……魔結晶は、様々な魔道具の動力源として利用価値があり高値で取引される。だから積極的に魔獣を探し出して倒し、魔結晶を手に入れて売るという専門の職業もあるくらいだ。
僕も今から2年前にこの異世界に喚び出されたばかりの頃には、訓練としてよく魔獣狩りをさせられたものだ。
また、今はあの剣角牡鹿もただ両眼が魔結晶化しているだけだけど、さらに年月を経れば額に第三の魔結晶が現れる。そうなった魔獣はもう、手のつけようのないくらいの強さと狂暴さになるそうだ。
幸い僕はそんな魔獣に遭遇したことはないけれど、とにかくそんなリスクがあるので、魔獣を発見した場合にはそうなる前に狩ってしまうのがセオリーらしい。
「……とは言っても案外、魔族なら仲間認定を受けて襲われないって可能性もあるけどね」
そう小さく呟いた途端、剣角牡鹿の紅い眼が真っ直ぐに僕の方を向いた。……あ、これもう完全に視線が合っちゃってるよ。
そして急激に膨れ上がる殺気が、まるで産毛を焼くかのようにチリチリと僕の肌を刺激する。
……なるほど。どうやらたとえ魔族であっても、魔獣には見逃してもらえないみたいだな。
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