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ハルの訪れを知っているか?①

作者: droid/k

少しだけ未来の話。

太陽系の小惑星の一星で暮らしていた「私」と「彼女」だが、ある日事故により「彼女」を失ってしまう。

途方に暮れる「私」だが、友人からの提案により、彼女のクローンを複製することができた。

再び「彼女」と暮らし始める「私」だが‥

いつもの彼女だった。

肩まで伸びた黒髪、薄い桜色をした唇、白い頬の底にはほど良い血色が差している。

確かな生がそこにあった。

薄暗い部屋の片隅で、妖しく輝く乳白色の光を背に、彼女は横たわっていた。手前の赤いボタンを押すと、ぷしゅ、と空気の抜ける音がした。しばらくすると培養液はすべて抜け落ち、しなやかな四肢がコクーンの底へ静かに投げ出された。頬を伝う水滴が流れ星のように弧を描き、消えた。

長い睫毛に包まれた透き通った二つの漆黒が私を見つめていた。

「おかえり」

言葉として発せたのだろうか。いや、そもそも今話したのは本当に私なのだろうか。長い夢を見続けているような曖昧な感覚が私を包んでいた。

夢なら夢のままでいい。

どうせなら決して覚めぬことのない夢路の果てであってほしい。

これ以上の幸せは無いのだから。

Hal0109

おそらくは型番であろう。彼女の入っていたコクーンの外側にはその文字が彫られていた。

目を開けたまま横たわる彼女をそっと抱きしめた。ガラス細工のような儚くも美しい希望。それが私の手の中にあった。まだ彼女の体の所々に付いている培養液とは違うもう一つの温もりが華奢な彼女から伝わってくる。

これは現実だ。

抱きしめる手に力が入る。強く、強く、強く。夢から現へ、恐怖から喜びへ、彼女の鼓動が伝わるたびに私の心は満たされていく。

「おかえり」

もう一度、彼女を強く抱きしめた。

彼女の体は、やはり温かかった。


三年前の春、彼女は死んだ。

それはちょうど地球で桜の花が満開を迎えようとしている頃だった。彼女は桜を見に行ったのだ。

「地球で生まれたのなら桜は見なくちゃだめよ。あれを見ないと春が来た気がしないわ」

茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべ、朝いちばんに彼女はそう言ってきた。春が近づくたびに繰り返し聞いてきた彼女の台詞だった。私はと云えば、彼女とは正反対で桜が苦手だった。それは学生時代に彼女と出会うよりもっと昔から、物心ついた頃にはすでに苦手であった。

あの一瞬で咲き、一瞬で散り失せる刹那が、私は嫌いだった。

付き合いだしてからも、こうして毎年誘われてきては断りをいれることを繰り返してきた。例に倣って、その日も彼女の誘いを適当にあしらい部屋に籠ることにしたのだ。彼女はしばらく説得を試みたが、やがて不機嫌そうに頬を膨らませ、「もういいわよ。一人で行ってくるから」と言い残して家を出たのだ。

その六時間後のことだった。

地球へ向かっていた銀河護送船の一隻が、未確認の隕石と衝突したため音信不通となったことを知らされた。

通信が途絶えた護送船に彼女は乗っていた。

それからすぐに護送船の捜索が開始された。実に一ヶ月もの間、私は不安に駆られ続けた。眠れない夜を幾日も越え、朝焼けを見るたびに胸が張り裂けそうになった。

身も心も限界を迎えつつあった。が、追い打ちをかけるように、捜索を続けていた宇宙警察から届いた一報は残酷なものだった。

彼女を含めた乗客全員の死亡が確認されたのだ。

不安は消えた。

その代わり、体の奥底からあふれ出す途方もない悲しみを止める術を私は知らなかった。彼女を失った喪失感を、心に大きく開いた穴を埋めることができなかった。

彼女は死んだ。これは厳然たる紛れもない事実であった。

私には理解できなかった。

彼女の死が、彼女がこの世界からいなくなってしまった現実が。

今にも玄関の扉が開き、これが大がかりな悪戯であることを声高に宣言する彼女の姿が瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。

現実を受け止めることのできない私は、その日からずっと、彼女の帰りを待ち続けた。

南東の空から太陽が昇り、西南西の砂丘を真っ赤に染め彼方へと沈んでいく。北にそびえ立つ山嶺をなぞり、ガニメデが宙を駆けていく。

そうして一日は終わった。

乳白色の弧を描き、いくつもの彗星が暗闇を切り裂いた。庭ではダイオウシンジュの花が真っ赤な大輪を咲かせた。カンムリマンタの稚魚が数多の星々から続々と押し寄せ、カララギの青い実が地面に落ち春は終わった。

鉄砲ウサギが南の林で求愛行動に耽っているうちに夏は過ぎ去った。

ミカグリの葉が黄色に染まって秋は訪れ、ヒャルランの真っ白な群れが冥王星へと旅立って冬は終わった。

気がつくと一年が過ぎ去っていた。

幸いなことに、この星に来るまでに働かずとも二人で暮らしていけるほどの蓄えはあったので生活に困ることはなかったし、私の両親はとうの昔に他界していたので誰かからとやかく言われることはなかった。

彼女の訃報を聞きつけた友人たちも私の下を訪れてくれた。だが、私の顔を見ると用意してきたはずの励ましや憂慮の言葉は腹の底へしまいこむしかなく、当たり障りのない形式的なものを述べるにとどまってしまった。遠路はるばる駆けつけてきた友人たちも日を重ねるごとに一人、また一人と家に来なくなっていった。無為に日にちだけが過ぎ去り、ついには長期契約している運送業者が定期便を運んでくるほかに訪れる者はいなくなった。

それでも私は待ち続けた。

彼女の帰りをただただ願ったのだ。

季節は巡り、いつの間にか事故が起きてから二度目の春が終わりを告げようとしていた。

転機は唐突に訪れた。

それは一人の旧友によりもたらされた。彼は大学の同級生であり同じ研究室に所属していた。学生時代から彼女と私がつき合っていたことを知っており、今回の一件でいちばん親身になって私を励ましてくれた人物だった。

「彼女と、もう一度、会いたいか?」

神妙な面持ちをした彼は埃のたまったソファーで項垂れる私を見つめ、こう言ったのだ。

火星の生物研究機関で働いている彼は、今回の事故があってから私を立ち直らせる方法を模索していた。

「うちの研究所長を知っているだろ?大学の時に世話になったバイオテクノロジー学科の教授だった人だよ。お前のことを相談してみたんだ。そしたらさ、うちで彼女のクローンを作ってもいいと言ってくれたんだよ。お前さえよければ協力してもいいといってるんだ・・・どうだろう?」

クローンの可能性はもちろん考えた。

生物工学が発展し、神経系などの部分的な治療にクローン技術か用いられる現代において、真っ先に彼女の複製を思いついてはいた。だが、人一人をまるごと複製する試みは、まだなされておらず、早々に不可能だと判断した案ではあった。

「ただし」

彼は続けてこう言った。

「彼女のクローンを作ることに研究所長は賛成してくれた。だがな、この案には一つだけ問題があるんだ」

そこから先の話を切り出すことに彼は躊躇しているようだった。やがて決心がついたらしく、ゆっくりと口を開いた。

「クローンは確かに可能だ。だがな、それは生物学的に、同じ人間を作ることが可能という話であるだけなんだ。つまり、人間的な部分、彼女の記憶までは複製できないんだ‥」

この彼が話していることがどれほど大切なことなのか、じっと見つめる彼の目がそれを物語っていた。

死んだ人は決して蘇らない。

同じ人間には会うことはできない。

どれほど科学技術が進歩し、不可能が可能となった現代でも変えられない現実がある。

だが、次の瞬間には、深々と頭を下げている自分がいた。

理屈などどうでもよかった。

彼女にまた会える。

それだけでよかった。

「頼む」とだけ発せられた言葉に彼もまた「分かった」とだけ言った。

季節は巡り、変わりつつも変わらない風景が私の瞳に映る。

彼女が死んでから三度目の春が訪れた。

彼から彼女が送り届けられてきたのは、彼女が消えた日と偶然にも同じ日だった。


しばらくの間、彼女を抱きしめ続けていた。

お互いが一つの心臓を共有しているように彼女の鼓動を体の芯で感じ取ることができた。このまま彼女と一つになってしまう、二人の今が混ざり合っていく気がした。それを拒否するように彼女はやんわりと私の胸を押し返した。名残惜しくもあったが、私はゆっくりと彼女から離れた。

戸惑いを隠しきれず不安げに瞬きを繰り返し、視線は行き場を失っていた。と、まだ濡れて重そうに背中へと垂れ下がった髪を彼女は右手でいじり始めた。右手の人差し指に巻き付けては解き、それを何度も繰り返している。

それは、生前の彼女が悩んだときにする癖であった。

彼女は本当に帰って来たのだ!

思わずもう一度、彼女を抱きしめた。

何も変わることのない日常が戻ってくる。

そのことを理解した私は子どものように泣きじゃくっていた。嗚咽をむさぼり、ただただ彼女を抱きしめ続けた。彼女がもう二度と目の前から消えることがないよう強く抱きしめた。

どれほどの時間が経ったのだろうか。

乳白色の光が照らし出す寒々しい暗室の中では私の涙声が反響しているだけで、それも心が平穏を取り戻すにつれて徐々に小さくなっていった。ようやく落ち着いた私は彼女から体を離し、正面から見据えた。依然として困惑の表情を浮かべる彼女は、両手を胸の前で、まるで己を守るように小さく組んでいた。

彼女の怯えとも思えるその姿を見て、私は彼女が自分に対して心を許していないことを察したし、何より自分が知る彼女ではないという現実を思い知った。

彼女には自分と過ごした記憶がない。

初めから分かってはいたことだったが、いざ向き合ってみると想像以上に辛い事実として私の胸に突き刺さった。仕方のないことではあったが、それでも落胆している自分がいて、それに嫌気がさしてもいた。姿形は同じなのにまるで知らない彼女がそこにいる。それが私を閉口させていた。

まだ裸の彼女に無言でワンピースを手渡した。それは生前に彼女がよく着ていたものだった。

ヌギ星のサンドワームから生み出される特殊繊維は熱を外へ逃がさない。そのため気温が十度前後から変化しないこの星で暮らすにあたり彼女が重宝していた衣服だった。限りなく黒に近い濃紺で、胸の間に飾られた霞色の水晶細工が夜空に輝く星のようだとよく話していた。

こみ上げてくる感情を抑え込み、「ついてきて」とだけ言って階段へと向かった。状況は飲み込めていないようだが、言われるがまま少し離れて彼女は後を追ってきた。

薄暗い階段を上がり、廊下を抜け玄関の扉を開けた。外に出ると人の気配に敏感なカノエが軒先の草むらから一斉に飛び出した。ばさばさと大きな灰色の羽をはばたかせて空へと消えていく。太陽は西南西の砂丘の真上にまで迫っていた。砂の粒に当たる光が乱反射して丘は燦然と輝いている。

「綺麗だろ?」

背後に立っていた彼女へそう語りかけた。いきなりの質問に驚きながらも「はい」とだけ短く返事をした。

「前の君も、この景色が好きだったんだ。宝石みたいだなんてよく言ったものさ」

そこまで話すと「中へ入ろう」と言って、私は彼女と家の中へ戻った。

リビングでは定時に作動する生活用ロボットが清掃をしているところだった。ドラム状の体から何本もの手を出して忙しなく動き回っている。以前なら身の回りの家事はすべて彼女が行っていた。

「ロボットにすべてを任せるなんて嫌よ。身の回りのことくらい自分たちでしないと」

それが彼女の口癖だった。なので一緒に暮らし始めてからは彼女が家事を仕切っていた。いま動いている生活用ロボットは彼女が死んでから私の生活を心配した友人が持ってきたものである。電源さえつけておけば自動的に動き出すよう設定されている。そのため気に留めることはなかったが、彼女が帰って来た今、これは不要となった。まだ稼働している最中だったがロボットの電源を切り、ただの置き物と化したそれを部屋の隅へと押しやった。

そしてリビングの入口で立ち呆けていた彼女にダイニングテーブルの一角に座るように促し、自分はその真向かいに腰を下ろした。机を挟んで向かい合うのは三年ぶりだった。失っていた、ありふれた日常の一風景を取り戻すために私が為すべきことはただ一つだけだった。

「これから僕が話すことに、君は驚くことになるはずだ。それでも最後まで話を聞いてほしい」

それから私は長い時間をかけ、彼女にすべてを語った。かつて私には将来を誓った人がいたこと。その人は三年前に亡くなったこと。その人物が自分にとってかけがえのない存在であったこと。

そして、自分がもう一度、彼女と会うがためにクローンを生み出したことを。

「君が、そのクローンなんだ」

そう言って彼女へ一枚の写真を渡した。そこには柔らかく微笑む生前の彼女が写っていた。初めて相見える自らのオリジナルを、彼女は神妙な面持ちでじっと見つめていた。

「君にはこれから彼女になりきってもらう。僕が知る彼女に」

意外にも、このとき彼女は驚く素振りを何一つ見せることはなかった。ただ私の目をじっと見つめたまま「はい」と短く答えた。

その曇りのない瞳から私は目が離せなかった。


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