邑×智恵―犯した罪は。(立成16年10月)
右手に握られた、血に塗られたコップの破片。むせかえるほど漂う鉄の臭い。キッチンの床に広がる血みどろと、その中の、倒れ込んで動かない小さな体。その体は、切り傷と、そこから零れる赤黒いモノで、肌の白はほとんど見えない。
その情景を、私は知っている。何度も夢に見て、それは十数年前に、私が楓にしたこと。私は、変われたはずなのに。囚われた黒い箱からは、出れたはずなのに。
「楓、楓っ!?」
抱きかかえた体は、重くて、冷たい。どこに行けば、いつの間にか、一歩先すら見えない暗闇の中。あてもなく駆け出して、走って、……息できなくなって止まる。取り落としかけたのを支えようとすると、服をきつく捕まれる。下を向くと、血にまみれた、青白い歪んだ顔。開いた唇は、どす黒い声を放つ。
「おねえちゃんなんて、だいっきらい」
その言葉とともに、バタリと力が抜ける。突然腕にかかった力で、腕からその体が落ちる。フローリングだった床も、いつの間にか真っ黒に染まっている。腕を、服をべっとりと濡らす赤黒い血は、歪んだ顔のまま動かない楓の姿は、取り返しのつかない罪を、呪いのように心に焼き付ける。あの時と同じなら、もう。来るはずだ。過たず、ドアが音を立てて開く。ドタドタと足音が鳴って、
「……おい。邑ゆう、楓ふう、よく聞け……よ……?」
母さんの声が、ネジの切れかけたオルゴールみたいに途切れてく。そのまま、膝から崩れ落ちて、泣き崩れて。……救急車を呼んだあとは、そのまま私を叱るわけでもなく、楓の体を揺すぶって。私だけ置いて行って、救急車に乗り込んだ。そのときが、私が母さんのこと、『母さん』って呼べた最後。
……あの時、壊してしまったんだ。私を愛してくれた二人を、私の手で。そっけないように見えて、誰よりも熱く愛してくれたのに。愛されることを拒んだ私は、それをドブに捨てた。赦されないことなのも、わかってる。もう、あの頃に戻れないことも。それなのに、目の奥から、涙が溢れて止まらない。
「ごめん、あの時、分かれなくて……」
吐いた言葉は、届かせるには遅すぎた。……でも、分かれなかった。あの日、まっすぐな気持ちに射抜かれるまで。
ふわり、頭を撫でる感触。目が開いて、そこにあったのは、暗闇じゃなくて、優しい日差しと、甘い香り。艶やかな黒髪が軽くかかった寝顔は、見ていて落ち着く。
「……智恵?」
まだ、目は覚ましてないみたいだ。見慣れない部屋、……服は、お互い脱げてない。昨日の記憶を手繰り寄せて、墨子の家に誘われて、試験前だからと智恵と一緒に楓の勉強を見て欲しいと誘われたことを思い出す。去年の文化祭の頃に、雪解けは始まる気配は見せたけど、まだ、溶けない。いや、溶けきるわけがない、たったの半年じゃ。私があの時の呪縛から逃れられたのだって、12年もかかったのに。
「邑さん……?」
「悪い、……起こした、か?」
「……うなされてて、それで起きたんですよ、どんな夢、見てたんですか?」
「あ、……悪い。昔のこと、思い出して」
それで、言葉を詰まらせてしまう。楓が倒れたとき、隠した過去も全て晒けだした。醜い『愛』に穢されかけて、『愛』そのものを拒んでたことも、衝動に苛まれて、妹を殺しかけたことも、
それでも、智恵は、全部受け入れてくれた。その時、本当に思い知った気がする。あの時の私は、壊れてたんだって。
今だって、優しく頭をぽんぽんと撫でてくれる。昔、よく母さんにこういう風に撫でてもらったな。私も、つい癖でやってて、きっと、今はそのお返し。思い出すのが、寂しい。その優しさすら、私が奪ってしまったのに。
「邑さん、……大丈夫ですよ。……私も、いますから」
「そうじゃなくてさ、……取返しのつかないこと、したんだなって思い出して。こんなに幸せになっていいのか、ちょっと怖くなって」
ようやく、吐き出せた、……かもしれない。幸せの中で、小石のように出せない違和感。智恵と一緒にいられるとき、どこか引っかかってたところ。
「幸せになっちゃいけない人なんて、誰もいませんよ」
「そう……、なの、か?」
「そうですよ、どんな過去があったって、そこから抜け出せるんですから」
救われる、気がする。智恵という、私の真っ黒な世界に差した、のどかな春の陽に。優しくて、あたたかい。愛されてよかった、恋できてよかった。あの時で止まった時間を動かしてくれる、大事にしたい人に。
「それなら、いいんだがな、母さんも楓も、あの時から動けたら」
「ゆっくり、支えていきましょ?……大事にしてくれる人がいるだけでも、救われますから」
「それならいいな、……ありがと、智恵」
胸の奥のざわめきが、穏やかになっていく。ぬるい温もりが、気だるさで体を包み込む。逆らえなくなって、目を閉じる。
「まだ、休んでてもいいですよ?」
「なら、ちょっと寝かせてもらうな、……おやすみ、智恵」
「お休みなさい、邑さん」
……今度二人で一緒に寝るときは、少しだけでも、恋人らしいこと、できたらいいな。私も、もう、愛されることも怖くないはずで、きっと、智恵のことも、愛せるはずだから。
言えない頭の中の考え、……今度は、少し甘い。自然に頬も緩んで、そのまま、意識を手放していく。